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第18話
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小屋に戻った頃には、月が真上に昇っておりましたの。
わたくしは扉を静かに閉め、ティーセットを棚に戻してから、そっとポットに湯を足しました。
外で淹れる香りも素晴らしゅうございますけれど、こうして小屋の中に戻って味わう一杯は、また格別の味わいですわ。
“余韻の雫”は、わたくしのための茶。
誰に捧げるでもなく、誰に媚びるでもなく、自分だけの空気を取り戻すための香り。
ミルクシードとバニラの根、セージを少し。
温度は八十度、蒸らしは五十数えて。
口元にカップを寄せると、昼間の光と笑い声が、まるで夢のようにほどけてまいりましたの。
「……ええ、よく働きましたわね、わたくし」
ひとりつぶやいて、ひと口。
柔らかな甘さと土のような安心感が舌に広がり、深く、呼吸が整っていきましたの。
この静寂があるからこそ、賑やかな日々も香るのですわ。
棚の上には、今日配った茶葉の記録が残っておりました。
それぞれの名前、それぞれの調合、それぞれの顔。
祭りというひとときの中で交差した、百を超える香りの記憶。
けれど香りというものは、覚える必要がないのです。
身体が勝手に覚えてくれますから。
わたくしの役目は、ただそれを整えるだけ。
「──アナさま?」
扉の向こうから声がいたしました。
「ルディさん。まだ村に?」
「はい。今夜は村の広場に泊まります。明日の朝には発つ予定ですが……その前に、もう一杯だけいただきたくて」
「ふふ、ずいぶんお気に召したようですわね」
「ええ、本当に。あれだけ歩いた旅の疲れが、全部ほどけてしまった気がして」
「では、今夜は“月の香炉”を。眠りの前にふさわしい、落ち着いた調合でございます」
「いただきます」
わたくしは再びポットに湯を注ぎ、月明かりを背にカップを整えました。
ベルガモットとラベンダー、そして最後にペパーミントをほんの少し。
香りの立ち上がりを静かに調整しながら、湯気に包まれたその空間を整えていきましたの。
ルディさんはカップを両手で包み、ゆっくりと一口。
「……これ、眠るのがもったいないくらいです」
「眠るための香りほど、記憶に残るものですわ。深く沈むからこそ、明日の朝、香りが目を覚ましてくださいますのよ」
「アナさまの言葉って、全部、香りでできてますよね」
「まあ、それがわたくしの流儀ですもの」
「……じゃあ、これ、どうぞ」
「何かしら?」
ルディさんが差し出したのは、木の枝で作られた小さなタグ。
革紐で編まれ、表面には焼き文字がありましたの。
“風の帰り道”と──そう記されておりました。
「これ、僕が村の職人さんに頼んで作ってもらったんです。アナさまの茶に名前をつけたくて」
「まあ、それは光栄ですわ」
「これを飾っておけば、いつでも誰かが戻ってくる気がして」
「ええ、香りは必ず、風と一緒に戻ってまいりますもの」
タグは扉の内側、香草のスワッグの横に吊るしましたの。
風が吹けば揺れて、焼き文字がちらりと覗く。
それだけで、この小屋にひとつ新しい香りが増えた気がいたしましたわ。
「では、今夜はこのへんで」
「ごきげんよう、ルディさん」
「また、香りに導かれて戻ってきます」
「そのときは、風の表情に合う一杯を、整えておきますわ」
扉が閉まり、再び静寂が訪れましたの。
けれど、それはもうひとりきりの静けさではございません。
香りが交差し、風が通い、気配が残っている──そんな、柔らかく満ちた夜。
カップの中の茶が冷めきる前に、わたくしは最後の一口を口に含み、椅子の背にもたれて目を閉じましたの。
眠りの予感が、香りとなってわたくしを包み込み、意識がふわりとほどけていくのを感じながら──
わたくしは扉を静かに閉め、ティーセットを棚に戻してから、そっとポットに湯を足しました。
外で淹れる香りも素晴らしゅうございますけれど、こうして小屋の中に戻って味わう一杯は、また格別の味わいですわ。
“余韻の雫”は、わたくしのための茶。
誰に捧げるでもなく、誰に媚びるでもなく、自分だけの空気を取り戻すための香り。
ミルクシードとバニラの根、セージを少し。
温度は八十度、蒸らしは五十数えて。
口元にカップを寄せると、昼間の光と笑い声が、まるで夢のようにほどけてまいりましたの。
「……ええ、よく働きましたわね、わたくし」
ひとりつぶやいて、ひと口。
柔らかな甘さと土のような安心感が舌に広がり、深く、呼吸が整っていきましたの。
この静寂があるからこそ、賑やかな日々も香るのですわ。
棚の上には、今日配った茶葉の記録が残っておりました。
それぞれの名前、それぞれの調合、それぞれの顔。
祭りというひとときの中で交差した、百を超える香りの記憶。
けれど香りというものは、覚える必要がないのです。
身体が勝手に覚えてくれますから。
わたくしの役目は、ただそれを整えるだけ。
「──アナさま?」
扉の向こうから声がいたしました。
「ルディさん。まだ村に?」
「はい。今夜は村の広場に泊まります。明日の朝には発つ予定ですが……その前に、もう一杯だけいただきたくて」
「ふふ、ずいぶんお気に召したようですわね」
「ええ、本当に。あれだけ歩いた旅の疲れが、全部ほどけてしまった気がして」
「では、今夜は“月の香炉”を。眠りの前にふさわしい、落ち着いた調合でございます」
「いただきます」
わたくしは再びポットに湯を注ぎ、月明かりを背にカップを整えました。
ベルガモットとラベンダー、そして最後にペパーミントをほんの少し。
香りの立ち上がりを静かに調整しながら、湯気に包まれたその空間を整えていきましたの。
ルディさんはカップを両手で包み、ゆっくりと一口。
「……これ、眠るのがもったいないくらいです」
「眠るための香りほど、記憶に残るものですわ。深く沈むからこそ、明日の朝、香りが目を覚ましてくださいますのよ」
「アナさまの言葉って、全部、香りでできてますよね」
「まあ、それがわたくしの流儀ですもの」
「……じゃあ、これ、どうぞ」
「何かしら?」
ルディさんが差し出したのは、木の枝で作られた小さなタグ。
革紐で編まれ、表面には焼き文字がありましたの。
“風の帰り道”と──そう記されておりました。
「これ、僕が村の職人さんに頼んで作ってもらったんです。アナさまの茶に名前をつけたくて」
「まあ、それは光栄ですわ」
「これを飾っておけば、いつでも誰かが戻ってくる気がして」
「ええ、香りは必ず、風と一緒に戻ってまいりますもの」
タグは扉の内側、香草のスワッグの横に吊るしましたの。
風が吹けば揺れて、焼き文字がちらりと覗く。
それだけで、この小屋にひとつ新しい香りが増えた気がいたしましたわ。
「では、今夜はこのへんで」
「ごきげんよう、ルディさん」
「また、香りに導かれて戻ってきます」
「そのときは、風の表情に合う一杯を、整えておきますわ」
扉が閉まり、再び静寂が訪れましたの。
けれど、それはもうひとりきりの静けさではございません。
香りが交差し、風が通い、気配が残っている──そんな、柔らかく満ちた夜。
カップの中の茶が冷めきる前に、わたくしは最後の一口を口に含み、椅子の背にもたれて目を閉じましたの。
眠りの予感が、香りとなってわたくしを包み込み、意識がふわりとほどけていくのを感じながら──
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