【完結】没落令嬢、異世界で紅茶店を開くことにいたしました〜香りと静寂と癒しの一杯をあなたに〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第35話

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学士エリアス・ヴァーンさまがアトリウムへとお帰りになってから、幾度か季節の巡りがございました。
わたくしの「静寂の香り亭」は、以前と変わらぬ穏やかな時を刻んでおりましたが、エリアスさまが残してくださった一冊の古い手記は、わたくしの日々に新たな彩りと、静かなる探求の喜びをもたらしてくれておりましたの。

その手記は、エリアスさまが若い頃に諸国を巡られた際の記録でございまして、革の表紙は擦り切れ、羊皮紙の頁は歳月を経て飴色に変化しておりましたけれど、そこに記された文字は彼の誠実なお人柄を映すように几帳面で、添えられた植物の写生もまた、愛情に満ちた繊細な筆致で描かれておりましたわ。
そこには、わたくしの知らぬ遠い土地の薬草や、忘れ去られた民間療法、そして時には、精霊や妖精といった存在にまつわる不思議な伝承までが、詳細に記されておりましたの。

特にわたくしの心をとらえましたのは、「月花草(げっかそう)」と名付けられた、ある夜間しか花を開かぬという神秘的なハーブに関する記述でございました。
エリアスさまの手記によりますと、その花は特定の月の満ち欠けの夜にのみ、まるで月光を吸い込んだかのように淡く光る花弁を広げ、人の夢や深層の記憶に働きかける、不可思議な芳香を放つのだとか。
残念ながら、その「月花草」の正確な自生地や、具体的な調合方法は、手記にも断片的にしか記されておらず、その全貌は謎に包まれたままでございました。

「……月花草……夢に働きかける香り、でございますか……」

わたくしは、その記述を何度も読み返し、まだ見ぬハーブの姿に思いを馳せました。
人の心を癒す香りは数多くございますけれど、「夢」という、意識の最も奥深い領域に触れる香りがもし存在するのなら……それは一体、どのようなものなのでしょう。
そして、わたくしの「極上調合」の力は、そのような未知の領域にまで届くものなのでしょうか。

エリアスさまとの対話を通じて、わたくしは自身の力が単に素材を混ぜ合わせる技術だけではなく、もっと根源的な「調和」や「共鳴」を引き出すものであることを、おぼろげながらに感じ始めておりました。
ならば、この「月花草」の記述を頼りに、わたくし自身の感覚とスキルを最大限に研ぎ澄ませて、夢の世界へと誘うような一杯を試作してみるのも、一興やもしれませんわ。
それは誰かのためというよりも、まずわたくし自身の探求心を満たし、そして「極上調合」のさらなる可能性を確かめてみたいという、内なる声に応えるための試みでございました。

幸い、近々満月を迎える夜がございました。
手記によれば、「月花草」は満月の清浄な光を最も好むとされております。
わたくしは、その夜に向けて、数日前から少しずつ準備を始めましたの。

まず、素材の選定でございます。
本物の「月花草」は手に入りませんけれど、わたくしの香草園や、先日訪れた源流のほとりには、月の光や夜の静けさと親和性の高い植物がいくつかございます。
夜露を吸って香りを増すジャスミンの白い花、心を鎮め安らかな眠りを誘うリンデンフラワー、そして、あの清冽な気配を宿す“水鏡草”……。
さらに、エリアスさまの手記にあった、夢見の力を助けると言われるいくつかのハーブの記述――例えば、バレリアンの根やホップの毬花(まりばな)なども参考に、それらの要素を慎重に組み合わせることを考えました。
けれど、あまり多くの素材を重ねるのではなく、むしろ「引く調合」の精神で、それぞれの素材が持つ月の属性を最も純粋な形で引き出すことを目指します。

満月の夜。
空には銀色の円盤が冴え冴えと輝き、湖面にはその光がゆらめいて、まるで天と地が一つに溶け合ったかのような幻想的な光景でございました。
香草園のハーブたちも、月光を浴びて青白いシルエットを浮かび上がらせ、昼間とは異なる神秘的な芳香を漂わせております。

わたくしは、小屋の周囲を清浄な水で清め、窓辺に月の光が最もよく射し込む場所を選んで、小さな祭壇のようなものをしつらえました。
そこへ、丁寧に選び出したハーブと、源流の水を満たした水晶の器、そして銀のティーポットと白磁のカップを静かに並べます。
今宵の調合は、いつものようにただお茶を淹れるというよりも、もっと神聖な儀式に近いもののように感じられましたわ。

わたくしは深く呼吸を整え、心を無にして、月光の下でハーブたちと向き合いました。
一つ一つの素材を手に取り、その気配を月の光に照らし合わせるようにして感じ取ります。
ジャスミンの花びらは、まるで月光そのものが凝固したかのように冷たく清らかで、リンデンフラワーは夜の静寂を吸い込んだような穏やかな甘さを秘めておりました。
そして“水鏡草”は……月光の下では、昼間よりも一層その透明感を増し、まるで夢と現実の狭間を揺蕩う精霊の息吹のようでございます。

わたくしは、それらの素材を、まるで詩を編むかのように、あるいは星々を繋いで星座を描くかのように、慎重にポットの中へと導きました。
「極上調合」の力が、わたくしの指先と心とを繋ぎ、素材たちが最も美しく響き合う瞬間を教えてくれます。
それは、言葉では説明できぬ、直感と共鳴の世界。
月光が、ポットの中の水に溶け込み、ハーブたちの魂を優しく呼び覚ましていくような……そんな感覚に包まれました。

やがて、ポットの中から、これまで経験したことのないような、幽玄で清澄な香りがふわりと立ち昇ってまいりましたの。
それは、花の香りとも、草の香りともつかぬ、まるで月光そのものが香りを持ったかのような、言葉では言い表せない芳香でございました。
わたくしは、その液体を白磁のカップへと静かに注ぎました。
それは月の光を溶かし込んだかのように、ほんのりと青白い光を帯びて揺らめいておりましたわ。
わたくしは、この一杯を“月詠みの雫(つくよみのしずく)”と名付けました。

まずは、わたくし自身が、この未知の一杯を少量だけ味わってみることにいたしました。
カップを口元へ運ぶと、その清冽な気配だけで、心がすうっと静まり返り、意識がどこまでも澄み渡っていくのを感じます。
そして、ほんの少しだけ口に含みますと……。

それは、味というよりも、むしろ純粋な感覚の波紋が、魂の最も深い場所へと広がっていくような体験でございました。
目を閉じると、目の前に広がるのは、満天の星空と、静かに輝く月。
そして、わたくしの意識は、まるで鳥のように軽やかに肉体を離れ、夜空を自由に飛翔していくような……そんな不思議な浮遊感に包まれたのです。
過去の記憶や、未来への不安といったものが全て消え去り、ただ純粋な「今」という瞬間だけが、永遠に続くかのように感じられました。
そして、その中で、わたくしはいくつかの断片的な、しかし鮮やかな「情景」を見たのでございます。

それは、遠い雪山に咲く一輪の青い花、あるいは、砂漠の 한가운데で旅人が見上げる夜空の星々、そして、海の底深くで静かに眠る真珠貝……。
それらは、わたくしが実際に見たことのない光景ばかりでしたが、なぜか強い懐かしさと、そして深い安らぎを感じさせるものでした。
それは、個人の夢というよりも、もっと普遍的な、魂の故郷のような場所を垣間見たような感覚だったのかもしれません。

どれほどの時間が過ぎましたでしょうか。
ふと我に返ると、わたくしは小屋の窓辺に座っており、カップの中の“月詠みの雫”は、まだ温かさを保っておりました。
けれど、わたくしの心は、先ほどまでとは比べ物にならないほどに静まり返り、そして同時に、何か大きなものと繋がったような、不思議な充足感に満たされておりましたの。

「……これが、“月詠みの雫”の力……。夢を操るというよりも、魂を本来の場所へといざない、真実の情景を見せてくださるのかもしれませんわね……」

この力は、慎重に扱わねばならない、と感じました。
むやみに他の方にお出しするべきものではございません。
けれど、もし本当に深い悩みや、魂の渇きを抱えた方がいらっしゃったならば、この一杯が、その方の進むべき道を照らす、一筋の月光となるやもしれない……。

その夜は、それ以上“月詠みの雫”を飲むことはせず、わたくしはエリアスさまの手記と、今宵の体験を、静かに帳面へと綴りました。
「極上調合」のスキルは、わたくしが新たな素材や概念と出会うたびに、その奥深さを増していくようです。
それは、まるで広大無辺な夜空を探求する旅人のように、わくわくするような、それでいて身の引き締まるような思いを、わたくしに与えてくれるのでございました。

翌朝、小屋の扉を開けますと、空気はひんやりと澄み、新しい一日が静かに始まろうとしておりました。
香草園のハーブたちも、どこか昨夜の月光の余韻を宿しているかのように、しっとりと落ち着いた香りを放っております。
わたくしは、まず自分自身のために、いつものカモミールティーを淹れながら、昨夜の体験がもたらした静かな興奮と、そして新たな可能性への期待を胸に、今日訪れるかもしれない誰かのために、心を整えるのでございました。
“月詠みの雫”は、わたくしの秘密の一杯として、今は静かにその力を秘めておくことにいたしましょう。
けれど、いつか本当に必要とされる時が来たならば……その時は、心を込めて、この月光の雫を差し出す覚悟を、そっと胸に抱いたのでございます。
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