味覚ゼロの元パティシエ、祖母のボロ甘味処を“妖怪カフェ”にしたら行列が止まらない

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厨房は、店の客席部分よりもさらに時間が止まっているようだった。年代物の調理器具が整然と並んでいる。幸い、ガスも水道も生きていた。私はレシピ帳の指示に従い、まずはもち米を研ぎ始めた。
ざっ、ざっ、と米を研ぐ音だけが響く。味も香りも分からない今、私が頼れるのは、レシピに書かれた分量と、身体に染み付いた感覚だけだ。何グラムの砂糖、何グラムの塩。パティシエとして叩き込まれた正確さが、今、唯一の道標だった。
もち米を蒸している間に、餡子を作る。棚にあった乾燥小豆を水で戻し、柔らかくなるまで煮ていく。アクを丁寧に取り除き、砂糖を加えて練り上げていく。レシピには「艶が出るまで」と書かれている。私はその言葉だけを信じて、木べらを動かし続けた。
甘い香りが、きっと立ち上っているのだろう。小豆の煮える、あの優しい匂いが。でも、私には分からない。ただ、目の前の鍋の中身が、記憶の中にある「餡子」の色と粘度になっていくのを、視覚だけで確認する。それは、まるで色のない世界で絵を描くような、もどかしくて、途方もなく寂しい作業だった。
蒸しあがったもち米を半殺しにする。すりこぎで米粒の形が半分残るくらいに潰していく作業だ。これも、レシピの指示通り。そして、熱いうちに丸め、先ほど作った餡子で包んでいく。
一つ、また一つと、不格好ながらもおはぎが出来上がっていく。それは、私が東京で作っていた、宝石のようにきらびやかなケーキとは似ても似つかない、素朴で、温かみのある形をしていた。
「……できた」
皿に二つ乗せて、カウンターへ運ぶ。半透明だった男の子は、いつの間にかカウンター席にちょこんと座っていた。私が皿を差し出すと、彼は驚いたように目を丸くした。
『さあ、食べなされ』
茶筅が促すと、男の子はおずおずと手を伸ばし、おはぎを一つ手に取った。そして、小さな口で、ぱくりと一口。
その瞬間、信じられないことが起きた。
男の子の身体が、ふわりと発光したかと思うと、薄ぼんやりとしていた輪郭が、少しだけはっきりとしたのだ。まるで、ピントが合ったみたいに。
「おいしい……」
か細い、けれどはっきりとした声が聞こえた。男の子は、夢中でおはぎを頬張っている。その目からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「お母さんが作ってくれた、おはぎの味だ。運動会の日に、いつも作ってくれた……。僕、帰り道が分からなくなって、ずっと探してたんだ。お母さんを」
男の子は泣きながら、それでも美味しそうにおはぎを食べ終えた。食べ終わる頃には、彼の身体はもう半透明ではなく、しっかりとした実体を持っているように見えた。
『思い出したか、小僧』
茶筅が静かに問う。男の子はこくりと頷いた。
「うん。僕、病気で死んじゃったんだ。でも、お母さんとの約束が心残りで……。もう一度、お母さんのおはぎが食べたかった」
食べ終えた男の子は、満足そうな、そして少し寂しそうな顔で立ち上がった。
「ありがとう、お姉さん。もう、迷わないよ」
そう言うと、彼は深々と頭を下げた。そして、彼の身体は足元から光の粒になって、きらきらと舞い上がり、開けてもいない格子戸をすり抜けて、夜の闇に溶けるように消えていった。
あっけにとられて立ち尽くす私に、茶筅が言った。
『……見事じゃったぞ、澪』
「……でも、私、味見も何も」
『心がこもっておれば、それでよい。おぬしの菓子は、あの子の魂を救ったのじゃ』
その言葉が、乾ききっていた私の心に、じんわりと染み渡るようだった。自分が作ったもので、誰かが救われる。パティシエを辞めて以来、忘れていた感覚だった。
がらり、と。
今度は、本当に格子戸が開く音がした。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、日に焼けた若い男の人だった。漁師だろうか、がっしりとした体つきをしている。彼は少し気まずそうに頭をかきながら言った。
「あのー……さっきから明かりがついてたもんで。この店、また始めたのか? ばあちゃん、亡くなったって聞いたけど」
「あ、いえ、これは……」
私が言葉に詰まっていると、男の人は私の足元に置かれた魚の入った発泡スチロールの箱を指さした。
「朝獲れたアジ、おすそ分けだ。よかったら使ってくれ。俺、この先の港で船、出してんだ。また来るよ」
そう一方的に言うと、彼はにっと笑って、すぐに去っていってしまった。
呆然と立ち尽くす私の背後で、茶筅がため息をついた。
『やれやれ、今度は人間の客か。……いや、違うな』
茶筅の穂先が、ぴんと店の入口を指す。
そこには、さっきの男の子とは比べ物にならないほど、濃い影をまとった何者かが立っていた。それは着物を着た美しい女性の姿をしていたが、その目からは、底知れないほどの哀しみが溢れていた。
『……面倒なのが来たもんじゃわい』
茶筅の呟きが、新たな物語の始まりを告げていた。
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