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夜が白み始める、ほんの少し前。
私は甘味処『黄昏』の厨房で、静かに出発の準備を整えていた。
海斗さんに借りたリュックサックは、思いやりの重さでずしりと肩に食い込む。
腰には猫又のくれた青い霊石を、お守りとして結びつけた。
そして私の懐には、この旅の一番口うるさい相棒がそっと忍ばせてある。
『まったく物好きな小娘じゃわい。わざわざ、あんな気難しいやつのところへ出向くとはのう』
茶筅が呆れたようにぼやく。
けれどその声には、心配の色が滲んでいた。
「留守番、お願いしたかったんだけど」
『馬鹿を言え。おぬし一人のこのこ行かせて、万が一のことがあったら春様に顔向けできんわい』
憎まれ口を叩きながらもついてきてくれるのが、なんだか可笑しくて嬉しい。
店の戸に「本日休業」の札をかけ、私は朝の冷たい空気の中へと踏み出した。
海斗さんに教わった山の入り口は、町の外れにある小さな神社の脇から続いていた。
初めは地元の人も利用する、なだらかなハイキングコースだ。
しかし地図が示す道は、すぐにそのコースを外れ獣道のような、険しい斜面へと続いていた。
一歩足を踏み入れるごとに、空気が変わっていくのが分かる。
ざわめいていた木々の音が静まり、代わりにどこか荘厳な深い静寂が、あたりを支配し始めた。
不思議なことが起こり始めたのは、それからだった。
私が歩く少し先。
道の真ん中にあったはずの石が私が近づくと、ころりと自ら脇へ転がり道を譲ってくれる。
見上げれば木々の幹に、子供が描いたようなにこやかな顔が浮かび上がり、私に向かってゆっくりとまばたきをした。
驚いて立ち止まると今度は、見たこともない七色に光る蝶が、どこからともなく現れ私の目の前を、ひらりひらりと舞い始めた。
まるで「こっちだよ」と言っているみたいに。
それは恐ろしいというより、むしろどこか幻想的で心温まる光景だった。
山全体が私という招かれざる客を、試すようにそして見守るように、静かに観察している。
そんな気がした。
東京の、時間に追われるような日々の中では決して感じることのできなかった、穏やかで不思議な世界の空気に、私の心は次第に解きほぐされていく。
どれくらい歩いただろうか。
地図が示す大きな分かれ道にたどり着いた。
右も左も同じような、鬱蒼とした森が続いている。
どちらへ進むべきか地図と、目の前の景色を見比べながら悩んでいると、ふと道の脇にある大きな木の根元から、しくしくと小さな泣き声が聞こえてきた。
そっと近づいてみるとそこにいたのは、ぼろぼろの蓑をまとった小さな子供だった。
顔の真ん中に大きな目が、一つだけ。
「……一つ目小僧?」
私の声にその子は、びくりと一つ目を丸くして私を見上げた。
その大きな瞳からはぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちている。
聞けば彼は、友達と山でかくれんぼをしていたらしい。
でも夢中になっているうちに一人だけ、道に迷ってしまったのだという。
「お腹もすいたし寂しいよぅ……。もうおうちに帰れないかもしれない……」
そのあまりにもか細く、心細そうな姿に私はリュックから、昨日作った「旅立ちの苺大福」を取り出した。
「これ、食べる?」
私がそっと差し出すと、一つ目小僧はおずおずとそれを受け取った。
真っ白でふにふにした不思議な塊を、彼は大きな一つ目で見つめている。
やがて小さな口で、ぱくりと大福を頬張った。
その瞬間、彼の大きな一つ目がこれ以上ないくらいに、ぱちくりと見開かれた。
「……! あまくて、すっぱくて、やわらかい! なんだこれ、おいしい!」
夢中で大福を食べ終えると彼の身体から、ふわりと温かい光が放たれた。
すると不思議なことに、遠くの森の奥から「おーい、こっちだぞー!」という仲間たちの声が、はっきりと聞こえてきたのだ。
「あ! みんなの声だ!」
一つ目小僧は、ぱあっと顔を輝かせた。
「お姉さん、ありがとう! このお菓子のおかげで元気が出たよ! お礼にいいこと、教えてあげる!」
彼はそう言うと、右の道を指さした。
「山の主さんに会うんだったら、こっちの道を行って大きな滝の裏をくぐるんだ。そしたら近道だから!」
「え、どうして私が山の主に会うって……」
「だって、お姉さんの持ってるお菓子、春ばあちゃんの味がしたもん!」
彼はそう言ってにっこり笑うと、「みんなー、待ってー!」と叫びながら声のする方へ、元気よく駆け去っていった。
あっけにとられて私は、ただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
祖母の味。
味覚のない私には決して分からないはずのものが、この小さなあやかしにはちゃんと伝わっていた。
人助けが巡り巡って、自分を助けてくれる。
私はその不思議な縁に、胸が温かくなるのを感じた。
一つ目小僧に教えられた通り道を進むと、やがてごうごうと激しい水音が聞こえてきた。
目の前に現れたのは、岩肌を滑り落ちる巨大な滝だった。
本当にこの裏に道があるんだろうか。
半信半疑で水しぶきを浴びながら、滝の裏側へと回り込む。
するとそこには本当に、人が一人やっと通れるくらいの小さな洞窟が、口を開けていた。
暗く湿った洞窟を抜けた、その先。
空気ががらりと変わった。
騒がしかった滝の音は嘘のように遠のき、辺りはしんと静まり返っている。
目の前には巨大な岩に寄り添うように、苔むした古い社が静かにたたずんでいた。
ここだ。
地図が示していた終着点。
私はごくりと、乾いた喉を鳴らした。
社の前まで進み、深く息を吸い込む。
緊張で心臓が、早鐘のように鳴っていた。
私が何かを言うより先に、社の奥の深い暗闇から地響きのような、それでいてどこか懐かしいような威厳に満ちた声が、響き渡った。
『……待ちわびたぞ。春の、孫よ』
私は甘味処『黄昏』の厨房で、静かに出発の準備を整えていた。
海斗さんに借りたリュックサックは、思いやりの重さでずしりと肩に食い込む。
腰には猫又のくれた青い霊石を、お守りとして結びつけた。
そして私の懐には、この旅の一番口うるさい相棒がそっと忍ばせてある。
『まったく物好きな小娘じゃわい。わざわざ、あんな気難しいやつのところへ出向くとはのう』
茶筅が呆れたようにぼやく。
けれどその声には、心配の色が滲んでいた。
「留守番、お願いしたかったんだけど」
『馬鹿を言え。おぬし一人のこのこ行かせて、万が一のことがあったら春様に顔向けできんわい』
憎まれ口を叩きながらもついてきてくれるのが、なんだか可笑しくて嬉しい。
店の戸に「本日休業」の札をかけ、私は朝の冷たい空気の中へと踏み出した。
海斗さんに教わった山の入り口は、町の外れにある小さな神社の脇から続いていた。
初めは地元の人も利用する、なだらかなハイキングコースだ。
しかし地図が示す道は、すぐにそのコースを外れ獣道のような、険しい斜面へと続いていた。
一歩足を踏み入れるごとに、空気が変わっていくのが分かる。
ざわめいていた木々の音が静まり、代わりにどこか荘厳な深い静寂が、あたりを支配し始めた。
不思議なことが起こり始めたのは、それからだった。
私が歩く少し先。
道の真ん中にあったはずの石が私が近づくと、ころりと自ら脇へ転がり道を譲ってくれる。
見上げれば木々の幹に、子供が描いたようなにこやかな顔が浮かび上がり、私に向かってゆっくりとまばたきをした。
驚いて立ち止まると今度は、見たこともない七色に光る蝶が、どこからともなく現れ私の目の前を、ひらりひらりと舞い始めた。
まるで「こっちだよ」と言っているみたいに。
それは恐ろしいというより、むしろどこか幻想的で心温まる光景だった。
山全体が私という招かれざる客を、試すようにそして見守るように、静かに観察している。
そんな気がした。
東京の、時間に追われるような日々の中では決して感じることのできなかった、穏やかで不思議な世界の空気に、私の心は次第に解きほぐされていく。
どれくらい歩いただろうか。
地図が示す大きな分かれ道にたどり着いた。
右も左も同じような、鬱蒼とした森が続いている。
どちらへ進むべきか地図と、目の前の景色を見比べながら悩んでいると、ふと道の脇にある大きな木の根元から、しくしくと小さな泣き声が聞こえてきた。
そっと近づいてみるとそこにいたのは、ぼろぼろの蓑をまとった小さな子供だった。
顔の真ん中に大きな目が、一つだけ。
「……一つ目小僧?」
私の声にその子は、びくりと一つ目を丸くして私を見上げた。
その大きな瞳からはぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちている。
聞けば彼は、友達と山でかくれんぼをしていたらしい。
でも夢中になっているうちに一人だけ、道に迷ってしまったのだという。
「お腹もすいたし寂しいよぅ……。もうおうちに帰れないかもしれない……」
そのあまりにもか細く、心細そうな姿に私はリュックから、昨日作った「旅立ちの苺大福」を取り出した。
「これ、食べる?」
私がそっと差し出すと、一つ目小僧はおずおずとそれを受け取った。
真っ白でふにふにした不思議な塊を、彼は大きな一つ目で見つめている。
やがて小さな口で、ぱくりと大福を頬張った。
その瞬間、彼の大きな一つ目がこれ以上ないくらいに、ぱちくりと見開かれた。
「……! あまくて、すっぱくて、やわらかい! なんだこれ、おいしい!」
夢中で大福を食べ終えると彼の身体から、ふわりと温かい光が放たれた。
すると不思議なことに、遠くの森の奥から「おーい、こっちだぞー!」という仲間たちの声が、はっきりと聞こえてきたのだ。
「あ! みんなの声だ!」
一つ目小僧は、ぱあっと顔を輝かせた。
「お姉さん、ありがとう! このお菓子のおかげで元気が出たよ! お礼にいいこと、教えてあげる!」
彼はそう言うと、右の道を指さした。
「山の主さんに会うんだったら、こっちの道を行って大きな滝の裏をくぐるんだ。そしたら近道だから!」
「え、どうして私が山の主に会うって……」
「だって、お姉さんの持ってるお菓子、春ばあちゃんの味がしたもん!」
彼はそう言ってにっこり笑うと、「みんなー、待ってー!」と叫びながら声のする方へ、元気よく駆け去っていった。
あっけにとられて私は、ただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
祖母の味。
味覚のない私には決して分からないはずのものが、この小さなあやかしにはちゃんと伝わっていた。
人助けが巡り巡って、自分を助けてくれる。
私はその不思議な縁に、胸が温かくなるのを感じた。
一つ目小僧に教えられた通り道を進むと、やがてごうごうと激しい水音が聞こえてきた。
目の前に現れたのは、岩肌を滑り落ちる巨大な滝だった。
本当にこの裏に道があるんだろうか。
半信半疑で水しぶきを浴びながら、滝の裏側へと回り込む。
するとそこには本当に、人が一人やっと通れるくらいの小さな洞窟が、口を開けていた。
暗く湿った洞窟を抜けた、その先。
空気ががらりと変わった。
騒がしかった滝の音は嘘のように遠のき、辺りはしんと静まり返っている。
目の前には巨大な岩に寄り添うように、苔むした古い社が静かにたたずんでいた。
ここだ。
地図が示していた終着点。
私はごくりと、乾いた喉を鳴らした。
社の前まで進み、深く息を吸い込む。
緊張で心臓が、早鐘のように鳴っていた。
私が何かを言うより先に、社の奥の深い暗闇から地響きのような、それでいてどこか懐かしいような威厳に満ちた声が、響き渡った。
『……待ちわびたぞ。春の、孫よ』
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