味覚ゼロの元パティシエ、祖母のボロ甘味処を“妖怪カフェ”にしたら行列が止まらない

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翌朝、約束通り、海斗さんは軽トラックで店の前にやってきた。
彼の車で山の麓まで送ってもらい、そこからは二人で泉を目指して歩く。
海斗さんが知っている道は、昨日私が通ったあやかしの道とは違う、古くから使われているしっかりとした山道だった。

「昔は、この道を使って炭を焼いたり山菜を採ったりしてたらしいぜ」

落ち葉を踏みしめながら、海斗さんが教えてくれる。
彼の話は、いつもこの土地の歴史と人々の暮らしの匂いがした。
しばらく歩くと、道の脇に苔むした小さなお地蔵さんが見えてきた。
海斗さんはそこで立ち止まると、自然な仕草で手を合わせる。
私もそれに倣った。

「ここが泉の入り口だ」

お地蔵さんの裏手に回ると、そこには細い、細い獣道のような小道が続いていた。
その先から、微かに水の流れる音が聞こえてくる。
小道を慎重に進んでいくと、突然目の前がぱっと開けた。
そこは、まるで時が止まったかのような、静かで美しい場所だった。
大きな岩の間から、水晶のように透き通った水がこんこんと湧き出している。
その水は小さな池を作り、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
周囲には見たこともないような美しい苔が一面に広がり、空気はどこまでも澄み切っている。

「すごい……」

思わず感嘆の声が漏れた。

「だろ? じいちゃんの自慢の場所だったんだ」

海斗さんはそう言って、持参した柄杓で水を一口、美味そうに飲んだ。
私も彼に借りた水筒に、その清らかな水を一杯になるまで丁寧に汲んでいく。
水筒を持つ手がひんやりとして、気持ちがいい。
この水なら、きっと最高の菓子が作れる。
確信が胸に満ちていく。

店に戻った私は、早速、水の菓子の制作に取り掛かった。
厨房は、神聖な儀式の場のように静まり返っている。
汲んできたばかりの湧き水を鍋に注ぐ。
その透明度に改めて息を呑んだ。
ここに加えるのは最高級の寒天と、ほんの少しの砂糖だけ。
素材の良さを最大限に生かす。
火にかけ、ゆっくりと木べらで混ぜていく。
焦りは禁物だ。
透明な液体が鍋の中で静かに対流するのを、じっと見つめる。
やがて、完璧な状態になった錦玉液を火から下ろす。
これを丸いガラスの器にそっと注ぎ入れる。
そして、昨日作っておいた天桃のコンポートをその中心に静かに沈めた。

黄金色の桃が、透明な水の中でゆらりと揺れる。
まるで水の中に太陽が宿ったかのようだ。
これを冷蔵庫でゆっくりと冷やし固めていく。

待っている間、私はなんだかそわそわして落ち着かなかった。
上手く固まっているだろうか。
イメージ通りに仕上がっているだろうか。
そんな時だった。
店の隅の影がもぞもぞと動いたかと思うと、そこから一匹の小さなあやかしが姿を現した。
それは八本の足を持つ、手のひらサイズの小さな蜘蛛だった。
けれど、その背中にはまるで悲しみを編み込んだかのような、複雑で美しい模様が描かれている。

『おお、土蜘蛛(つちぐも)の子か。珍しいな』
茶筅が呟いた。

その土蜘蛛の子は、とても恥ずかしがり屋のようだった。
私の視線に気づくと、さっとカウンターの影に隠れてしまう。
でも、影の隙間からそのたくさんの目で、じっとこちらの様子を窺っているのが分かった。

「どうしたの?」

私が優しく声をかけると、彼はもじもじしながらか細い声で答えた。

「……みんな、ぼくのこと怖がるんだ。気持ち悪いって、石を投げるんだ……」

その声は震えていた。

「でも、ぼく、ただ綺麗なものが見たいだけなのに……」

その言葉に、私は胸がきゅっと締め付けられた。
見た目で判断されてしまう悲しさ。
それは、今の私には少しだけ分かる気がした。
私は、彼のために何かしてあげたいと強く思った。
そうだ。
山の主のために作った、あの菓子。
少しだけ余分に作っておいた、小さな試作品がある。
私は冷蔵庫から、小さなガラスの器に入った水の菓子を取り出した。
そして、それを土蜘蛛の子が隠れているカウンターの影の前にそっと置いた。

「よかったら、これ見てみて」

最初は警戒していた土蜘蛛の子も、やがてガラスの器の周りをそろそろと歩き始めた。
そして、器の中の黄金色の桃と、それを包む水晶のような水を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
そのたくさんの目が、驚きと感動にきらきらと輝いているのが私には分かった。
彼は長い時間、ただうっとりとその菓子を眺めていた。
やがて彼は私の方を向き、何度も何度も小さく頭を下げた。
そして、その背中の模様が心なしか少しだけ明るい色に変わったように見えた。
彼は何も言わずに、また店の隅の影の中へと静かに消えていった。
彼の嬉しそうな気配を感じて、私は自分の作ったものがまた一つ、誰かの心を癒やすことができたのだと実感した。

やがて、山の主のために作った本番の菓子も完璧に固まった。
ガラスの器の中で、それはまるで巨大な一粒の朝露のように、神々しいほどの輝きを放っていた。
中心に浮かぶ黄金色の天桃が、静かに力強い光を宿している。
私はそれを、祖母が遺した一番上等な漆塗りの重箱にそっと収めた。
壊れ物に触るように、慎重に風呂敷で包む。
これで準備は全て整った。
明日、もう一度あの山へ向かおう。
祖母と私の約束を、果たすために。
私は重箱を前に、静かに決意を固めた。
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