12 / 18
12
しおりを挟む
翌朝、約束通り、海斗さんは軽トラックで店の前にやってきた。
彼の車で山の麓まで送ってもらい、そこからは二人で泉を目指して歩く。
海斗さんが知っている道は、昨日私が通ったあやかしの道とは違う、古くから使われているしっかりとした山道だった。
「昔は、この道を使って炭を焼いたり山菜を採ったりしてたらしいぜ」
落ち葉を踏みしめながら、海斗さんが教えてくれる。
彼の話は、いつもこの土地の歴史と人々の暮らしの匂いがした。
しばらく歩くと、道の脇に苔むした小さなお地蔵さんが見えてきた。
海斗さんはそこで立ち止まると、自然な仕草で手を合わせる。
私もそれに倣った。
「ここが泉の入り口だ」
お地蔵さんの裏手に回ると、そこには細い、細い獣道のような小道が続いていた。
その先から、微かに水の流れる音が聞こえてくる。
小道を慎重に進んでいくと、突然目の前がぱっと開けた。
そこは、まるで時が止まったかのような、静かで美しい場所だった。
大きな岩の間から、水晶のように透き通った水がこんこんと湧き出している。
その水は小さな池を作り、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
周囲には見たこともないような美しい苔が一面に広がり、空気はどこまでも澄み切っている。
「すごい……」
思わず感嘆の声が漏れた。
「だろ? じいちゃんの自慢の場所だったんだ」
海斗さんはそう言って、持参した柄杓で水を一口、美味そうに飲んだ。
私も彼に借りた水筒に、その清らかな水を一杯になるまで丁寧に汲んでいく。
水筒を持つ手がひんやりとして、気持ちがいい。
この水なら、きっと最高の菓子が作れる。
確信が胸に満ちていく。
店に戻った私は、早速、水の菓子の制作に取り掛かった。
厨房は、神聖な儀式の場のように静まり返っている。
汲んできたばかりの湧き水を鍋に注ぐ。
その透明度に改めて息を呑んだ。
ここに加えるのは最高級の寒天と、ほんの少しの砂糖だけ。
素材の良さを最大限に生かす。
火にかけ、ゆっくりと木べらで混ぜていく。
焦りは禁物だ。
透明な液体が鍋の中で静かに対流するのを、じっと見つめる。
やがて、完璧な状態になった錦玉液を火から下ろす。
これを丸いガラスの器にそっと注ぎ入れる。
そして、昨日作っておいた天桃のコンポートをその中心に静かに沈めた。
黄金色の桃が、透明な水の中でゆらりと揺れる。
まるで水の中に太陽が宿ったかのようだ。
これを冷蔵庫でゆっくりと冷やし固めていく。
待っている間、私はなんだかそわそわして落ち着かなかった。
上手く固まっているだろうか。
イメージ通りに仕上がっているだろうか。
そんな時だった。
店の隅の影がもぞもぞと動いたかと思うと、そこから一匹の小さなあやかしが姿を現した。
それは八本の足を持つ、手のひらサイズの小さな蜘蛛だった。
けれど、その背中にはまるで悲しみを編み込んだかのような、複雑で美しい模様が描かれている。
『おお、土蜘蛛(つちぐも)の子か。珍しいな』
茶筅が呟いた。
その土蜘蛛の子は、とても恥ずかしがり屋のようだった。
私の視線に気づくと、さっとカウンターの影に隠れてしまう。
でも、影の隙間からそのたくさんの目で、じっとこちらの様子を窺っているのが分かった。
「どうしたの?」
私が優しく声をかけると、彼はもじもじしながらか細い声で答えた。
「……みんな、ぼくのこと怖がるんだ。気持ち悪いって、石を投げるんだ……」
その声は震えていた。
「でも、ぼく、ただ綺麗なものが見たいだけなのに……」
その言葉に、私は胸がきゅっと締め付けられた。
見た目で判断されてしまう悲しさ。
それは、今の私には少しだけ分かる気がした。
私は、彼のために何かしてあげたいと強く思った。
そうだ。
山の主のために作った、あの菓子。
少しだけ余分に作っておいた、小さな試作品がある。
私は冷蔵庫から、小さなガラスの器に入った水の菓子を取り出した。
そして、それを土蜘蛛の子が隠れているカウンターの影の前にそっと置いた。
「よかったら、これ見てみて」
最初は警戒していた土蜘蛛の子も、やがてガラスの器の周りをそろそろと歩き始めた。
そして、器の中の黄金色の桃と、それを包む水晶のような水を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
そのたくさんの目が、驚きと感動にきらきらと輝いているのが私には分かった。
彼は長い時間、ただうっとりとその菓子を眺めていた。
やがて彼は私の方を向き、何度も何度も小さく頭を下げた。
そして、その背中の模様が心なしか少しだけ明るい色に変わったように見えた。
彼は何も言わずに、また店の隅の影の中へと静かに消えていった。
彼の嬉しそうな気配を感じて、私は自分の作ったものがまた一つ、誰かの心を癒やすことができたのだと実感した。
やがて、山の主のために作った本番の菓子も完璧に固まった。
ガラスの器の中で、それはまるで巨大な一粒の朝露のように、神々しいほどの輝きを放っていた。
中心に浮かぶ黄金色の天桃が、静かに力強い光を宿している。
私はそれを、祖母が遺した一番上等な漆塗りの重箱にそっと収めた。
壊れ物に触るように、慎重に風呂敷で包む。
これで準備は全て整った。
明日、もう一度あの山へ向かおう。
祖母と私の約束を、果たすために。
私は重箱を前に、静かに決意を固めた。
彼の車で山の麓まで送ってもらい、そこからは二人で泉を目指して歩く。
海斗さんが知っている道は、昨日私が通ったあやかしの道とは違う、古くから使われているしっかりとした山道だった。
「昔は、この道を使って炭を焼いたり山菜を採ったりしてたらしいぜ」
落ち葉を踏みしめながら、海斗さんが教えてくれる。
彼の話は、いつもこの土地の歴史と人々の暮らしの匂いがした。
しばらく歩くと、道の脇に苔むした小さなお地蔵さんが見えてきた。
海斗さんはそこで立ち止まると、自然な仕草で手を合わせる。
私もそれに倣った。
「ここが泉の入り口だ」
お地蔵さんの裏手に回ると、そこには細い、細い獣道のような小道が続いていた。
その先から、微かに水の流れる音が聞こえてくる。
小道を慎重に進んでいくと、突然目の前がぱっと開けた。
そこは、まるで時が止まったかのような、静かで美しい場所だった。
大きな岩の間から、水晶のように透き通った水がこんこんと湧き出している。
その水は小さな池を作り、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
周囲には見たこともないような美しい苔が一面に広がり、空気はどこまでも澄み切っている。
「すごい……」
思わず感嘆の声が漏れた。
「だろ? じいちゃんの自慢の場所だったんだ」
海斗さんはそう言って、持参した柄杓で水を一口、美味そうに飲んだ。
私も彼に借りた水筒に、その清らかな水を一杯になるまで丁寧に汲んでいく。
水筒を持つ手がひんやりとして、気持ちがいい。
この水なら、きっと最高の菓子が作れる。
確信が胸に満ちていく。
店に戻った私は、早速、水の菓子の制作に取り掛かった。
厨房は、神聖な儀式の場のように静まり返っている。
汲んできたばかりの湧き水を鍋に注ぐ。
その透明度に改めて息を呑んだ。
ここに加えるのは最高級の寒天と、ほんの少しの砂糖だけ。
素材の良さを最大限に生かす。
火にかけ、ゆっくりと木べらで混ぜていく。
焦りは禁物だ。
透明な液体が鍋の中で静かに対流するのを、じっと見つめる。
やがて、完璧な状態になった錦玉液を火から下ろす。
これを丸いガラスの器にそっと注ぎ入れる。
そして、昨日作っておいた天桃のコンポートをその中心に静かに沈めた。
黄金色の桃が、透明な水の中でゆらりと揺れる。
まるで水の中に太陽が宿ったかのようだ。
これを冷蔵庫でゆっくりと冷やし固めていく。
待っている間、私はなんだかそわそわして落ち着かなかった。
上手く固まっているだろうか。
イメージ通りに仕上がっているだろうか。
そんな時だった。
店の隅の影がもぞもぞと動いたかと思うと、そこから一匹の小さなあやかしが姿を現した。
それは八本の足を持つ、手のひらサイズの小さな蜘蛛だった。
けれど、その背中にはまるで悲しみを編み込んだかのような、複雑で美しい模様が描かれている。
『おお、土蜘蛛(つちぐも)の子か。珍しいな』
茶筅が呟いた。
その土蜘蛛の子は、とても恥ずかしがり屋のようだった。
私の視線に気づくと、さっとカウンターの影に隠れてしまう。
でも、影の隙間からそのたくさんの目で、じっとこちらの様子を窺っているのが分かった。
「どうしたの?」
私が優しく声をかけると、彼はもじもじしながらか細い声で答えた。
「……みんな、ぼくのこと怖がるんだ。気持ち悪いって、石を投げるんだ……」
その声は震えていた。
「でも、ぼく、ただ綺麗なものが見たいだけなのに……」
その言葉に、私は胸がきゅっと締め付けられた。
見た目で判断されてしまう悲しさ。
それは、今の私には少しだけ分かる気がした。
私は、彼のために何かしてあげたいと強く思った。
そうだ。
山の主のために作った、あの菓子。
少しだけ余分に作っておいた、小さな試作品がある。
私は冷蔵庫から、小さなガラスの器に入った水の菓子を取り出した。
そして、それを土蜘蛛の子が隠れているカウンターの影の前にそっと置いた。
「よかったら、これ見てみて」
最初は警戒していた土蜘蛛の子も、やがてガラスの器の周りをそろそろと歩き始めた。
そして、器の中の黄金色の桃と、それを包む水晶のような水を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
そのたくさんの目が、驚きと感動にきらきらと輝いているのが私には分かった。
彼は長い時間、ただうっとりとその菓子を眺めていた。
やがて彼は私の方を向き、何度も何度も小さく頭を下げた。
そして、その背中の模様が心なしか少しだけ明るい色に変わったように見えた。
彼は何も言わずに、また店の隅の影の中へと静かに消えていった。
彼の嬉しそうな気配を感じて、私は自分の作ったものがまた一つ、誰かの心を癒やすことができたのだと実感した。
やがて、山の主のために作った本番の菓子も完璧に固まった。
ガラスの器の中で、それはまるで巨大な一粒の朝露のように、神々しいほどの輝きを放っていた。
中心に浮かぶ黄金色の天桃が、静かに力強い光を宿している。
私はそれを、祖母が遺した一番上等な漆塗りの重箱にそっと収めた。
壊れ物に触るように、慎重に風呂敷で包む。
これで準備は全て整った。
明日、もう一度あの山へ向かおう。
祖母と私の約束を、果たすために。
私は重箱を前に、静かに決意を固めた。
2
あなたにおすすめの小説
あやかし古民家暮らし-ゆるっとカップル、田舎で生きなおしてみる-
橘花やよい
キャラ文芸
「怖がられるから、秘密にしないと」
会社員の穂乃花は生まれつき、あやかしと呼ばれるだろう変なものを見る体質だった。そのために他人と距離を置いて暮らしていたのに、恋人である雪斗の母親に秘密を知られ、案の定怖がられてしまう。このままだと結婚できないかもと悩んでいると「気分転換に引っ越ししない?」と雪斗の誘いがかかった。引っ越し先は、恋人の祖父母が住んでいた田舎の山中。そこには賑やかご近所さんがたくさんいるようで、だんだんと田舎暮らしが気に入って――……。
これは、どこかにひっそりとあるかもしれない、ちょっとおかしくて優しい日常のお話。
エブリスタに投稿している「穂乃花さんは、おかしな隣人と戯れる。」の改稿版です。
表紙はてんぱる様のフリー素材を使用させていただきました。
皇太后(おかあ)様におまかせ!〜皇帝陛下の純愛探し〜
菰野るり
キャラ文芸
皇帝陛下はお年頃。
まわりは縁談を持ってくるが、どんな美人にもなびかない。
なんでも、3年前に一度だけ出逢った忘れられない女性がいるのだとか。手がかりはなし。そんな中、皇太后は自ら街に出て息子の嫁探しをすることに!
この物語の皇太后の名は雲泪(ユンレイ)、皇帝の名は堯舜(ヤオシュン)です。つまり【後宮物語〜身代わり宮女は皇帝陛下に溺愛されます⁉︎〜】の続編です。しかし、こちらから読んでも楽しめます‼︎どちらから読んでも違う感覚で楽しめる⁉︎こちらはポジティブなラブコメです。
『今日も平和に暮らしたいだけなのに、スキルが増えていく主婦です』
チャチャ
ファンタジー
毎日ドタバタ、でもちょっと幸せな日々。
家事を終えて、趣味のゲームをしていた主婦・麻衣のスマホに、ある日突然「スキル習得」の謎メッセージが届く!?
主婦のスキル習得ライフ、今日ものんびり始まります。
【完結】皇帝の寵妃は謎解きよりも料理がしたい〜小料理屋を営んでいたら妃に命じられて溺愛されています〜
空岡立夏
キャラ文芸
【完結】
後宮×契約結婚×溺愛×料理×ミステリー
町の外れには、絶品のカリーを出す小料理屋がある。
小料理屋を営む月花は、世界各国を回って料理を学び、さらに絶対味覚がある。しかも、月花の味覚は無味無臭の毒すらわかるという特別なものだった。
月花はひょんなことから皇帝に出会い、それを理由に美人の位をさずけられる。
後宮にあがった月花だが、
「なに、そう構えるな。形だけの皇后だ。ソナタが毒の謎を解いた暁には、廃妃にして、そっと逃がす」
皇帝はどうやら、皇帝の生誕の宴で起きた、毒の事件を月花に解き明かして欲しいらしく――
飾りの妃からやがて皇后へ。しかし、飾りのはずが、どうも皇帝は月花を溺愛しているようで――?
これは、月花と皇帝の、食をめぐる謎解きの物語だ。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
神様がくれた時間―余命半年のボクと記憶喪失のキミの話―
コハラ
ライト文芸
余命半年の夫と記憶喪失の妻のラブストーリー!
愛妻の推しと同じ病にかかった夫は余命半年を告げられる。妻を悲しませたくなく病気を打ち明けられなかったが、病気のことが妻にバレ、妻は家を飛び出す。そして妻は駅の階段から転落し、病院で目覚めると、夫のことを全て忘れていた。妻に悲しい思いをさせたくない夫は妻との離婚を決意し、妻が入院している間に、自分の痕跡を消し出て行くのだった。一ヶ月後、千葉県の海辺の町で生活を始めた夫は妻と遭遇する。なぜか妻はカフェ店員になっていた。はたして二人の運命は?
――――――――
※第8回ほっこりじんわり大賞奨励賞ありがとうございました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる