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第10話 冷やし中華と、王子の教科書
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店内のエアコンが吐き出す人工的な涼風が、俺の火照った首筋を優しく撫でる。
外の世界は、陽炎がゆらゆらと立ち昇るほどの猛暑だそうだ。
アスファルトならぬ石畳の上では、卵を落とせば数秒で目玉焼きができるほどの熱気が渦巻いているらしい。
だが、この強化ガラス一枚隔てた向こう側は、湿気一つない天国である。
俺はレジカウンターに気だるげに肘をつき、新しく入荷した「冷やし中華」の容器を、まるで美術品でも鑑定するかのように眺めていた。
「……このタレの輝き。酸味と甘みの黄金比だ」
プラスチックの蓋越しに見える、琥珀色のスープ。
別添えのパックに入ったそれは、醤油ベースに醸造酢、そして砂糖とごま油を完璧なバランスで調合した、化学調味料の傑作だ。
具材の配置も美しい。
細切りにされたハムのピンク、錦糸卵の鮮やかな黄色、キュウリの緑、そして紅生姜の赤。
それらが麺の上に整然と並び、透明なフィルムで密封されている。
この色彩感覚。
彩度の低いこの世界においては、宝石箱よりも価値がある輝きだ。
「主様。また、その『供物』を愛でておられるのですか?」
エルザが棚の陰から、ひょっこりと顔を出した。
彼女は今、店内の「おにぎりコーナー」の守護を自任している。
商品の賞味期限をチェックしながらも、その目は油断なく入り口を警戒していた。
以前よりも動きに無駄がなくなり、気配が薄くなっている。
俺が与えた高カロリーな保存食たちが、彼女の身体能力を底上げしているのは間違いない。
「愛でてるんじゃない。在庫の品質確認だ」
「嘘ですね。主様の口元が、わずかに緩んでいます」
彼女の指摘を無視し、俺は冷やし中華のパッケージを指先でなぞった。
ひんやりとした冷気が指先に伝わる。
この世界の食事は、基本的に「熱い」か、あるいは冷めてしまった「常温」の二択だ。
意図的に冷やされた料理など存在しない。
「冷たくて美味い」という概念そのものが、氷雪系の大魔導師を抱える王族だけの特権である。
しかも、魔力を浪費して氷を作り、ようやく手に入れる贅沢品だ。
それを、こんなプラスチックの器に入れて、数百円で提供している。
この異常性。
俺はあくびを一つして、スマホの画面をタップした。
ゲームのスタミナが回復している。
消化試合を始めようとした、その時だった。
ピンポーン。
軽快な電子音が、入店を告げる。
自動ドアが滑らかに左右へと開き、外の熱気が一瞬だけ入り込もうとして、店内の空調に押し返された。
ドアの向こう側に立っていたのは、一人の少年だった。
年の頃は十代半ばといったところか。
仕立ての良い最高級の絹の服を纏い、腰には無数の宝石を散りばめた短剣を吊るしている。
金髪は丁寧に整えられ、その立ち振る舞いからは、生まれながらにして人の上に立つ者特有のオーラが漂っていた。
その背後には、威圧感の塊のような老騎士が控えている。
顔には歴戦の傷跡があり、腰には実戦仕様のロングソード。
ただの護衛ではない。
王国の近衛兵団でもトップクラスの実力者だろう。
「……ここが、平民の間で噂の『奇跡の箱』か」
少年が尊大な態度で、店内を見渡す。
その瞳には、隠しきれない好奇心と、特権階級特有の傲慢さが同居していた。
彼は天井のLED照明を見上げ、眩しそうに目を細める。
「太陽を室内に閉じ込めているというのは、あながち比喩ではないようだな。影が一切ない。
それに、この涼しさ……。
氷の精霊王を、この空間全体に薄く引き伸ばして結界にしているのか?」
勝手な解釈を垂れ流しながら、彼はカウンターの俺に視線を向けた。
俺は椅子に座ったまま、頬杖をついて彼を見返した。
いらっしゃいませ、と言う気も起きない。
ただのガキだ。
「おい、店主。私はこの国の第三王子、シルベストだ」
少年は胸を張り、当然のように名乗った。
周囲の人間がひれ伏すのを待つような、たっぷりとした間。
だが、俺には関係ない。
ここは俺の国だ。
「王子か。買い物ならカゴを持ってくれ。冷やかしなら帰れ」
俺は視線を冷やし中華に戻し、淡々と答えた。
店内の空気が凍りついた。
背後の老騎士が、顔を真っ赤にして激昂した。
「なっ!? 貴様、王子殿下に向かってその態度は何だ! 不敬にも程があるぞ!」
老騎士ガウェインが、雷のような大声で怒鳴り、長剣の柄に手をかけた。
ジャラッ、という金属音が響く。
殺気。
普通の町人なら、この気迫だけで失神するレベルだ。
エルザが反応し、影から飛び出そうとする気配がした。
だが、俺は動かなかった。
ただ、面倒くさそうに騎士を一瞥しただけだ。
「……店内で抜くなよ。掃除が面倒だ」
俺の声は小さかった。
だが、その言葉は不思議と店内に重く響いた。
この空間は、俺の支配領域だ。
防犯システム、空調、照明、すべてが俺の指先一つで制御されている。
その絶対的な「余裕」が、騎士の本能に警鐘を鳴らしたのだろう。
ガウェインの動きが止まった。
剣を抜こうとした手が、見えない重圧に押さえつけられたように震えている。
「ぐ、ぬ……!? なんだ、この重圧は……!
剣が……抜けない? いや、私の本能が、この男に刃を向けることを拒絶しているのか!?」
ガウェインは脂汗を流し、後ずさった。
俺は何の魔力も放っていない。
ただ、「お前など相手にならない」という事実が、歴戦の戦士である彼には「巨大すぎる壁」として知覚されただけだ。
未知のテクノロジーに囲まれたこの空間そのものが、彼らにとっては神の神殿内部にいるようなプレッシャーを与えているのだ。
「……やめろ、ガウェイン。剣を収めよ」
シルベストが手を挙げて騎士を制した。
王子の顔にも、緊張の色が浮かんでいる。
彼は賢い。
この場の空気を読み取ったのだ。
「ここは未知の魔力に満ちている。
先ほどの扉……。魔力を一切感じなかったが、私の動きを完璧に予見して開いた。
そして、この店主。
王族である私を前にして、眉一つ動かさぬこの胆力。
ただの商人ではない。
おそらく、下界に降りた神の一柱か、あるいは伝説の大賢者が余興で店を開いているのだろう」
「ただの赤外線センサーだ。驚くほどのことじゃない」
「せ、赤外線……。光の届かぬ深淵を視るという伝説の『紅き魔眼』か……。
やはり、常識で測れる相手ではない」
勝手に設定を盛り込むのは、この世界の住人の悪い癖だ。
シルベストは慎重な足取りで店内を進み始めた。
彼の足音は、入店時の傲慢なそれとは違い、神域に踏み入る信徒のように慎重だった。
彼は棚に並ぶ商品を一つ一つ手に取り、驚嘆のため息を漏らしている。
「この菓子……袋が、空気でパンパンに膨らんでいる。
中身を守るための『風の結界』か?
それに、この透明な容器に入った水……。
不純物が皆無だ。王宮の錬金術師が一年かけて精製する『賢者の水』よりも純度が高い」
彼はブツブツと独り言を言いながら、雑誌コーナーで足を止めた。
そこには、現代日本の「ファッション誌」が並んでいる。
表紙には、流行の服を着たトップモデルが、極上の笑顔を向けている。
「……なんだ、この絵は。生きているのか?」
彼は一冊の雑誌を手に取り、その表紙を凝視して固まった。
高精細なオフセット印刷。
数億色のインクの粒が、肉眼では捉えきれない密度で配置されている。
筆の跡など、どこにもない。
肌の質感、髪の一本一本、瞳の中の光の反射までが、あまりにもリアルに再現されている。
「色彩が……異常だ。筆の跡が一切ない。
肌の温もりすら感じる……。
これは絵画ではない。
魂をそのまま紙の中に封印した『呪いの鏡』か?」
「グラビア雑誌だ。見るだけならタダだぞ」
「ぐらびあ……。女神の肖像を記した禁書か」
シルベストは震える指でページを捲った。
ペラッ。
そこには、現代の最新ファッションに身を包んだ女性たちのスナップ写真が並んでいる。
「……っ!!」
王子が息を呑んだ。
横から覗き込んだガウェインも、目を剥いて硬直している。
「殿下……。ご覧ください、この女性たちが纏っている青い鎧を。
この『じーんず』という素材……。
布の目に、防御魔法の術式が直接織り込まれているようです!
この独特の青色は、ミスリルを繊維状にして織り込んだものに違いありません!」
「うむ……。それに、この上着の光沢。
ドラゴンの皮をなめして作ったものだろう。
これほど軽装に見えて、全身が国宝級の防具で固められているとは……。
異世界の戦士たちは、なんと洗練された姿をしているのだ」
ただのデニムとナイロンジャケットだ。
だが、彼らの目には、現代の化学繊維や染色は、未知の超素材に見えるらしい。
「店主……いや、賢者よ。この『予言書』はいくらだ?」
シルベストが、雑誌を胸に抱きしめて俺に問うた。
その目は血走り、必死の形相だ。
「七百円だ。金貨一枚で十分お釣りが出るぞ」
「……なっ!? ななひゃく……?
安い……安すぎる!
タダ同然ではないか!
これ一冊あれば、我が国の服飾技術、いや、防具鍛造技術は数百年進化するぞ!
この『じーんず』の織り方を解析するだけで、我が軍の兵士は不死身の軍団となる!」
シルベストは狂喜乱舞した。
彼は懐から金貨袋を取り出し、カウンターに叩きつけようとして、ふと手を止めた。
そして、恐る恐る、一枚の金貨を取り出して置いた。
この店のルールに従わなければならないという、無言の圧力を感じているのだ。
「店主! 私はこれを買う! それと、あの奥にある『冷たい風を吐く箱』もだ!」
シルベストが、天井の業務用エアコンを指差した。
汗だくのガウェインも、期待に満ちた目でエアコンを見上げている。
「あれは売り物じゃない。備え付けだ」
「ならば、この店ごと買い取ってやろう!
金貨一万枚でどうだ。
足りなければ、王領の西側半分を割譲してもいい!
この『永遠の夏』を終わらせる涼風の権利、私が頂く!」
国家予算レベルの提示だ。
土地までついてくるらしい。
だが、俺の答えは変わらない。
「いらない。店番が面倒になるだろ。それに、俺はここのオーナーじゃない。ただの店員だ」
「……てんいん?
貴殿ほどの超越者が、さらに上位の存在に使えているというのか?
オーナーとは……創造神のことか?」
シルベストの顔色が蒼白になった。
彼はガタガタと震え、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「……そうか。世界の理を司る神々の遊び場だったのか、ここは。
金ごときで買収しようなど、不敬にも程があった。
失礼な提案をした私を、どうか許してほしい」
シルベストは深く頭を下げた。
王族が、平民の前で、しかも床に膝をついて謝罪する。
この世界の常識ではあり得ない光景だ。
ガウェインも慌てて主君に習い、鎧を鳴らして跪く。
だが、このコンビニの照明の下では、王族の威光も、騎士の武勲も、等しく無意味だ。
ここにあるのは、「客」と「店員」という関係だけ。
俺の背後で、棚卸しを待っていた町の主婦たちが、無言の圧をかけてくる。
「早くしてよ」「夕飯の支度があるのよ」という視線。
王子であろうと、レジ待ちの列を乱すことは許されない。
「謝るなら、とっとと会計してくれ。後ろがつかえてる」
俺は顎で後ろをしゃくった。
シルベストはハッとして振り返り、主婦たちの冷ややかな視線に晒されて縮み上がった。
「……分かった。
私は今日、真の王道を見た気がする。
身分も、権力も関係ない。
ただ、対価を払い、恩恵を受ける。
この究極の公平性こそが、神の統治なのだな」
シルベストは雑誌を大切に抱え、逃げるように会計を済ませた。
俺はレジ袋に雑誌を入れ、彼に渡す。
彼はそのレジ袋さえも、「空間収納の魔道具か!」と驚いて撫で回していたが、もうツッコむのも面倒だ。
「あ、店主。もう一つ聞いてもいいか?」
帰り際、シルベストが振り返った。
「なんだ」
「あの……外にある、水を吐き出す『赤い塔』は何だ?
入る時は恐ろしくて近づけなかったが……」
彼は、店の外に設置した自動販売機のことを指していた。
真っ赤なボディ。
夜になれば煌々と光り輝く、現代文明のトーテムポール。
「自販機だ。金を入れると、冷えた飲み物が出る。誰でも買えるぞ」
「……誰でも?
神は、喉が渇いた民にすら、自動で慈悲を与えるというのか……。
人の手を介さず、祈り(金)だけで水を恵む祭壇……」
シルベストは感動に打ち震え、ふらふらとした足取りで店を出ていった。
自動ドアが閉まる直前、外から彼の叫び声が聞こえてきた。
「ガウェイン! 金貨だ! 金貨を入れろ!
おおお……! 光った! ボタンが光ったぞ!
押すのか? この青い光を……!
……ガコンッ!!
で、出たぁぁぁ! 冷たい! 氷のように冷たい水が、箱の中から産み落とされた!
これは奇跡だ! 自動化された奇跡だぁぁぁ!」
王族と近衛騎士が、自販機の前で抱き合って喜んでいる様子が、監視カメラのモニターに映っている。
平和なもんだ。
「主様。また王族の教育を歪めてしまいましたね」
エルザが呆れたように、おにぎりの位置をミリ単位で修正しながら言った。
「歪めてない。文明の利器を教えただけだ。
あいつらも、これで少しは謙虚になるだろ」
俺は自分用の冷やし中華のフィルムを、ペリペリと剥がした。
麺をほぐし、タレを回しかける。
ふわりと広がる、ごま油と酢の清涼な香り。
食欲をそそる、夏の匂いだ。
俺は割り箸をパチンと割り、具材と麺を豪快に混ぜ合わせた。
「さて、食うか」
麺を持ち上げ、最初の一口を啜ろうとした。
その時。
ウィーン。
自動ドアのセンサーが再び反応し、誰かが入店してきたことを告げた。
外の世界は、陽炎がゆらゆらと立ち昇るほどの猛暑だそうだ。
アスファルトならぬ石畳の上では、卵を落とせば数秒で目玉焼きができるほどの熱気が渦巻いているらしい。
だが、この強化ガラス一枚隔てた向こう側は、湿気一つない天国である。
俺はレジカウンターに気だるげに肘をつき、新しく入荷した「冷やし中華」の容器を、まるで美術品でも鑑定するかのように眺めていた。
「……このタレの輝き。酸味と甘みの黄金比だ」
プラスチックの蓋越しに見える、琥珀色のスープ。
別添えのパックに入ったそれは、醤油ベースに醸造酢、そして砂糖とごま油を完璧なバランスで調合した、化学調味料の傑作だ。
具材の配置も美しい。
細切りにされたハムのピンク、錦糸卵の鮮やかな黄色、キュウリの緑、そして紅生姜の赤。
それらが麺の上に整然と並び、透明なフィルムで密封されている。
この色彩感覚。
彩度の低いこの世界においては、宝石箱よりも価値がある輝きだ。
「主様。また、その『供物』を愛でておられるのですか?」
エルザが棚の陰から、ひょっこりと顔を出した。
彼女は今、店内の「おにぎりコーナー」の守護を自任している。
商品の賞味期限をチェックしながらも、その目は油断なく入り口を警戒していた。
以前よりも動きに無駄がなくなり、気配が薄くなっている。
俺が与えた高カロリーな保存食たちが、彼女の身体能力を底上げしているのは間違いない。
「愛でてるんじゃない。在庫の品質確認だ」
「嘘ですね。主様の口元が、わずかに緩んでいます」
彼女の指摘を無視し、俺は冷やし中華のパッケージを指先でなぞった。
ひんやりとした冷気が指先に伝わる。
この世界の食事は、基本的に「熱い」か、あるいは冷めてしまった「常温」の二択だ。
意図的に冷やされた料理など存在しない。
「冷たくて美味い」という概念そのものが、氷雪系の大魔導師を抱える王族だけの特権である。
しかも、魔力を浪費して氷を作り、ようやく手に入れる贅沢品だ。
それを、こんなプラスチックの器に入れて、数百円で提供している。
この異常性。
俺はあくびを一つして、スマホの画面をタップした。
ゲームのスタミナが回復している。
消化試合を始めようとした、その時だった。
ピンポーン。
軽快な電子音が、入店を告げる。
自動ドアが滑らかに左右へと開き、外の熱気が一瞬だけ入り込もうとして、店内の空調に押し返された。
ドアの向こう側に立っていたのは、一人の少年だった。
年の頃は十代半ばといったところか。
仕立ての良い最高級の絹の服を纏い、腰には無数の宝石を散りばめた短剣を吊るしている。
金髪は丁寧に整えられ、その立ち振る舞いからは、生まれながらにして人の上に立つ者特有のオーラが漂っていた。
その背後には、威圧感の塊のような老騎士が控えている。
顔には歴戦の傷跡があり、腰には実戦仕様のロングソード。
ただの護衛ではない。
王国の近衛兵団でもトップクラスの実力者だろう。
「……ここが、平民の間で噂の『奇跡の箱』か」
少年が尊大な態度で、店内を見渡す。
その瞳には、隠しきれない好奇心と、特権階級特有の傲慢さが同居していた。
彼は天井のLED照明を見上げ、眩しそうに目を細める。
「太陽を室内に閉じ込めているというのは、あながち比喩ではないようだな。影が一切ない。
それに、この涼しさ……。
氷の精霊王を、この空間全体に薄く引き伸ばして結界にしているのか?」
勝手な解釈を垂れ流しながら、彼はカウンターの俺に視線を向けた。
俺は椅子に座ったまま、頬杖をついて彼を見返した。
いらっしゃいませ、と言う気も起きない。
ただのガキだ。
「おい、店主。私はこの国の第三王子、シルベストだ」
少年は胸を張り、当然のように名乗った。
周囲の人間がひれ伏すのを待つような、たっぷりとした間。
だが、俺には関係ない。
ここは俺の国だ。
「王子か。買い物ならカゴを持ってくれ。冷やかしなら帰れ」
俺は視線を冷やし中華に戻し、淡々と答えた。
店内の空気が凍りついた。
背後の老騎士が、顔を真っ赤にして激昂した。
「なっ!? 貴様、王子殿下に向かってその態度は何だ! 不敬にも程があるぞ!」
老騎士ガウェインが、雷のような大声で怒鳴り、長剣の柄に手をかけた。
ジャラッ、という金属音が響く。
殺気。
普通の町人なら、この気迫だけで失神するレベルだ。
エルザが反応し、影から飛び出そうとする気配がした。
だが、俺は動かなかった。
ただ、面倒くさそうに騎士を一瞥しただけだ。
「……店内で抜くなよ。掃除が面倒だ」
俺の声は小さかった。
だが、その言葉は不思議と店内に重く響いた。
この空間は、俺の支配領域だ。
防犯システム、空調、照明、すべてが俺の指先一つで制御されている。
その絶対的な「余裕」が、騎士の本能に警鐘を鳴らしたのだろう。
ガウェインの動きが止まった。
剣を抜こうとした手が、見えない重圧に押さえつけられたように震えている。
「ぐ、ぬ……!? なんだ、この重圧は……!
剣が……抜けない? いや、私の本能が、この男に刃を向けることを拒絶しているのか!?」
ガウェインは脂汗を流し、後ずさった。
俺は何の魔力も放っていない。
ただ、「お前など相手にならない」という事実が、歴戦の戦士である彼には「巨大すぎる壁」として知覚されただけだ。
未知のテクノロジーに囲まれたこの空間そのものが、彼らにとっては神の神殿内部にいるようなプレッシャーを与えているのだ。
「……やめろ、ガウェイン。剣を収めよ」
シルベストが手を挙げて騎士を制した。
王子の顔にも、緊張の色が浮かんでいる。
彼は賢い。
この場の空気を読み取ったのだ。
「ここは未知の魔力に満ちている。
先ほどの扉……。魔力を一切感じなかったが、私の動きを完璧に予見して開いた。
そして、この店主。
王族である私を前にして、眉一つ動かさぬこの胆力。
ただの商人ではない。
おそらく、下界に降りた神の一柱か、あるいは伝説の大賢者が余興で店を開いているのだろう」
「ただの赤外線センサーだ。驚くほどのことじゃない」
「せ、赤外線……。光の届かぬ深淵を視るという伝説の『紅き魔眼』か……。
やはり、常識で測れる相手ではない」
勝手に設定を盛り込むのは、この世界の住人の悪い癖だ。
シルベストは慎重な足取りで店内を進み始めた。
彼の足音は、入店時の傲慢なそれとは違い、神域に踏み入る信徒のように慎重だった。
彼は棚に並ぶ商品を一つ一つ手に取り、驚嘆のため息を漏らしている。
「この菓子……袋が、空気でパンパンに膨らんでいる。
中身を守るための『風の結界』か?
それに、この透明な容器に入った水……。
不純物が皆無だ。王宮の錬金術師が一年かけて精製する『賢者の水』よりも純度が高い」
彼はブツブツと独り言を言いながら、雑誌コーナーで足を止めた。
そこには、現代日本の「ファッション誌」が並んでいる。
表紙には、流行の服を着たトップモデルが、極上の笑顔を向けている。
「……なんだ、この絵は。生きているのか?」
彼は一冊の雑誌を手に取り、その表紙を凝視して固まった。
高精細なオフセット印刷。
数億色のインクの粒が、肉眼では捉えきれない密度で配置されている。
筆の跡など、どこにもない。
肌の質感、髪の一本一本、瞳の中の光の反射までが、あまりにもリアルに再現されている。
「色彩が……異常だ。筆の跡が一切ない。
肌の温もりすら感じる……。
これは絵画ではない。
魂をそのまま紙の中に封印した『呪いの鏡』か?」
「グラビア雑誌だ。見るだけならタダだぞ」
「ぐらびあ……。女神の肖像を記した禁書か」
シルベストは震える指でページを捲った。
ペラッ。
そこには、現代の最新ファッションに身を包んだ女性たちのスナップ写真が並んでいる。
「……っ!!」
王子が息を呑んだ。
横から覗き込んだガウェインも、目を剥いて硬直している。
「殿下……。ご覧ください、この女性たちが纏っている青い鎧を。
この『じーんず』という素材……。
布の目に、防御魔法の術式が直接織り込まれているようです!
この独特の青色は、ミスリルを繊維状にして織り込んだものに違いありません!」
「うむ……。それに、この上着の光沢。
ドラゴンの皮をなめして作ったものだろう。
これほど軽装に見えて、全身が国宝級の防具で固められているとは……。
異世界の戦士たちは、なんと洗練された姿をしているのだ」
ただのデニムとナイロンジャケットだ。
だが、彼らの目には、現代の化学繊維や染色は、未知の超素材に見えるらしい。
「店主……いや、賢者よ。この『予言書』はいくらだ?」
シルベストが、雑誌を胸に抱きしめて俺に問うた。
その目は血走り、必死の形相だ。
「七百円だ。金貨一枚で十分お釣りが出るぞ」
「……なっ!? ななひゃく……?
安い……安すぎる!
タダ同然ではないか!
これ一冊あれば、我が国の服飾技術、いや、防具鍛造技術は数百年進化するぞ!
この『じーんず』の織り方を解析するだけで、我が軍の兵士は不死身の軍団となる!」
シルベストは狂喜乱舞した。
彼は懐から金貨袋を取り出し、カウンターに叩きつけようとして、ふと手を止めた。
そして、恐る恐る、一枚の金貨を取り出して置いた。
この店のルールに従わなければならないという、無言の圧力を感じているのだ。
「店主! 私はこれを買う! それと、あの奥にある『冷たい風を吐く箱』もだ!」
シルベストが、天井の業務用エアコンを指差した。
汗だくのガウェインも、期待に満ちた目でエアコンを見上げている。
「あれは売り物じゃない。備え付けだ」
「ならば、この店ごと買い取ってやろう!
金貨一万枚でどうだ。
足りなければ、王領の西側半分を割譲してもいい!
この『永遠の夏』を終わらせる涼風の権利、私が頂く!」
国家予算レベルの提示だ。
土地までついてくるらしい。
だが、俺の答えは変わらない。
「いらない。店番が面倒になるだろ。それに、俺はここのオーナーじゃない。ただの店員だ」
「……てんいん?
貴殿ほどの超越者が、さらに上位の存在に使えているというのか?
オーナーとは……創造神のことか?」
シルベストの顔色が蒼白になった。
彼はガタガタと震え、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「……そうか。世界の理を司る神々の遊び場だったのか、ここは。
金ごときで買収しようなど、不敬にも程があった。
失礼な提案をした私を、どうか許してほしい」
シルベストは深く頭を下げた。
王族が、平民の前で、しかも床に膝をついて謝罪する。
この世界の常識ではあり得ない光景だ。
ガウェインも慌てて主君に習い、鎧を鳴らして跪く。
だが、このコンビニの照明の下では、王族の威光も、騎士の武勲も、等しく無意味だ。
ここにあるのは、「客」と「店員」という関係だけ。
俺の背後で、棚卸しを待っていた町の主婦たちが、無言の圧をかけてくる。
「早くしてよ」「夕飯の支度があるのよ」という視線。
王子であろうと、レジ待ちの列を乱すことは許されない。
「謝るなら、とっとと会計してくれ。後ろがつかえてる」
俺は顎で後ろをしゃくった。
シルベストはハッとして振り返り、主婦たちの冷ややかな視線に晒されて縮み上がった。
「……分かった。
私は今日、真の王道を見た気がする。
身分も、権力も関係ない。
ただ、対価を払い、恩恵を受ける。
この究極の公平性こそが、神の統治なのだな」
シルベストは雑誌を大切に抱え、逃げるように会計を済ませた。
俺はレジ袋に雑誌を入れ、彼に渡す。
彼はそのレジ袋さえも、「空間収納の魔道具か!」と驚いて撫で回していたが、もうツッコむのも面倒だ。
「あ、店主。もう一つ聞いてもいいか?」
帰り際、シルベストが振り返った。
「なんだ」
「あの……外にある、水を吐き出す『赤い塔』は何だ?
入る時は恐ろしくて近づけなかったが……」
彼は、店の外に設置した自動販売機のことを指していた。
真っ赤なボディ。
夜になれば煌々と光り輝く、現代文明のトーテムポール。
「自販機だ。金を入れると、冷えた飲み物が出る。誰でも買えるぞ」
「……誰でも?
神は、喉が渇いた民にすら、自動で慈悲を与えるというのか……。
人の手を介さず、祈り(金)だけで水を恵む祭壇……」
シルベストは感動に打ち震え、ふらふらとした足取りで店を出ていった。
自動ドアが閉まる直前、外から彼の叫び声が聞こえてきた。
「ガウェイン! 金貨だ! 金貨を入れろ!
おおお……! 光った! ボタンが光ったぞ!
押すのか? この青い光を……!
……ガコンッ!!
で、出たぁぁぁ! 冷たい! 氷のように冷たい水が、箱の中から産み落とされた!
これは奇跡だ! 自動化された奇跡だぁぁぁ!」
王族と近衛騎士が、自販機の前で抱き合って喜んでいる様子が、監視カメラのモニターに映っている。
平和なもんだ。
「主様。また王族の教育を歪めてしまいましたね」
エルザが呆れたように、おにぎりの位置をミリ単位で修正しながら言った。
「歪めてない。文明の利器を教えただけだ。
あいつらも、これで少しは謙虚になるだろ」
俺は自分用の冷やし中華のフィルムを、ペリペリと剥がした。
麺をほぐし、タレを回しかける。
ふわりと広がる、ごま油と酢の清涼な香り。
食欲をそそる、夏の匂いだ。
俺は割り箸をパチンと割り、具材と麺を豪快に混ぜ合わせた。
「さて、食うか」
麺を持ち上げ、最初の一口を啜ろうとした。
その時。
ウィーン。
自動ドアのセンサーが再び反応し、誰かが入店してきたことを告げた。
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