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第16話 極北の禁忌、あるいはバニラアイス
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店内の温度計のデジタル表示は、完璧な二十二度を示している。
高性能な業務用エアコンが、静音モードで冷気を循環させ、この空間を外界から隔絶された聖域へと変えていた。
ガラス一枚隔てた外の世界は、まさに焦熱地獄だ。
陽炎が石畳の輪郭を歪め、通行人たちは熱せられた鉄板の上を歩く魚のように、苦痛に顔を歪めながら跳ねるように歩いている。
空には雲ひとつなく、太陽が殺意を持って地上を焼き尽くそうとしていた。
この異常な猛暑の中で、俺の支配するコンビニエンスストアだけが、唯一の極北(オアシス)だった。
俺はカウンターの奥にある事務用チェアに深く腰掛け、至福の時間を迎える準備をしていた。
手にあるのは、コンビニで買える贅沢の極み、『ハーゲンダッツ・バニラ』だ。
バーガンディレッドとゴールドの縁取りがなされた、重厚感のある小さなカップ。
そのパッケージデザインだけで、他の百円アイスとは格が違うことを主張している。
俺は指先についた水滴を拭い、プラスチックの蓋をゆっくりと外した。
現れたのは、さらに内側を封印する半透明のフィルムだ。
「Quality Seal」と記されたその膜こそが、工場出荷時の鮮度と品質を、俺が食べるその瞬間まで維持するための絶対的な盾である。
「……これだ。この密度、この輝き」
俺はフィルムの端をつまみ、ペリリと剥がした。
その瞬間、カップの縁から微かな冷気が白煙となって立ち昇る。
そこには、一点の曇りもない真珠色の大地が広がっていた。
冷凍庫から出した直後のアイスクリームは、岩のように硬く、寄せ付ける者を拒絶するような威厳すら放っている。
だが、それは最初だけだ。
俺は専用のプラスチック・スプーンを、真珠色の大地に突き立てた。
指先に伝わる硬質な抵抗。
しかし、スプーンを通して俺の体温が伝わると、アイスの表面が僅かに溶け、ヌルリとスプーンを受け入れた。
その感触だけで、乳脂肪分の高さが分かる。
俺はスプーン一杯分のアイスを掬い上げ、口へと運んだ。
冷たい。
舌に乗せた瞬間、物理的な冷気が脳の深部を鋭く突いた。
思考が一瞬停止するほどの衝撃。
だが、その直後に訪れるのは、マダガスカル産レッドビーンズを使用したという、芳醇なバニラの香りだ。
暴力的なまでの純度で、鼻腔が甘い香りに支配される。
口の中で体温によって溶かされたアイスは、濃厚なミルクの奔流となって食道を滑り落ちていく。
喉を通過する際の冷却感と、鼻に抜ける甘美な余韻。
この世界にある「甘味」といえば、不純物だらけの砂糖を溶かしただけの泥水か、酸味の強い果物くらいだ。
だが、これは違う。
厳選された素材を分子レベルで調和させ、空気の含有量まで計算し尽くされた、冷たき芸術品だ。
「……主様。また、その『氷結の心臓』を食しておられるのですか」
カウンターの横から、切迫した声が聞こえた。
エルザだ。
彼女は今、店内の「アイスクリームケース」の前を陣取り、微動だにせずに立っている。
ガラス越しに漏れ出す冷気を、崇高な魔力の余波だと信じ込んで、その場を離れようとしないのだ。
彼女の目は、俺が持つ小さなカップに釘付けになっていた。
その瞳孔は開ききり、喉が渇望で上下しているのが分かる。
「ハーゲンダッツだ。お前にはまだ早い」
「嘘をおっしゃい。そのカップから立ち昇る白銀の冷気……。そして、主様が一口食べるたびに漏れる、魂が抜けたような吐息。それは、極寒の霊峰に住まう氷竜(アイス・ドラゴン)の心臓を、太古の錬金術で加工し、強引にカップに閉じ込めたものでしょう?」
「ただの牛乳と卵と砂糖だ。冷やして固めただけだよ」
「牛乳と卵……? そのようなありふれた素材で、これほどの『冷気』と『魔力』を宿せるはずがありません。きっと、その牛乳は天界に住む神獣の乳で、卵は不死鳥の卵なのでしょう。主様は、いつもそうやって真実を隠そうとなさる」
エルザは俺の否定を完全に無視し、自分なりの神話を構築している。
彼女にとって、この暑さの中で涼しい顔をして甘味を貪る俺の姿は、自然の理をねじ伏せる超越者にしか見えないらしい。
まあ、訂正するのも面倒だ。
俺は二口目を掬い、口に入れた。
今度は少し溶けかけの部分だ。
滑らかさが段違いだ。
舌の上でクリーム状になったバニラが、味蕾の一つ一つを優しく撫で回す。
その時だった。
ウィーン!
自動ドアが、悲鳴のような駆動音を上げて限界まで開かれた。
同時に、ムワッとした不快な熱気が、暴力的な質量を持って店内に雪崩れ込んでくる。
俺の聖域である冷気が、外の熱波によって侵食される。
不快だ。
一刻も早く、この熱源を排除しなければならない。
現れたのは、一人の男だった。
全身から高貴な……というよりは、傲慢な気配を撒き散らす中年男だ。
赤い毛皮の縁取りがついた、見るからに暑苦しいビロードのローブを纏っている。
この猛暑の中、権威を示すために厚着をするとは、貴族という生き物も因果なものだ。
男の背後には、巨大な団扇(うちわ)を必死に仰ぎ続ける従者が二人控えているが、その風すらも熱風でしかない。
男の額には脂汗がびっしりと浮かび、顔色は茹でダコのように赤く、呼吸は荒い。
彼は王都の貴族、ヴァレリウス公爵だ。
王の親戚であり、この地区の土地を所有する実力者だと聞いている。
「……はぁ、はぁ……。おい、店主。ここか。この地獄のような暑さの中で、常冬の風を吹かせているという不届きな店は……」
ヴァレリウスは、ハンカチで汗を拭いながら、店内に一歩足を踏み入れた。
その瞬間。
彼の表情が、劇的に変化した。
傲慢に歪んでいた顔が、驚愕に塗りつぶされ、目が見開かれる。
入店と同時に、エアコンの冷風が彼の火照った全身を直撃したのだ。
「……な、なんだ、これは」
ヴァレリウスは立ち止まり、呆然と両手を広げた。
汗で張り付いていた服が、冷気によってさらりと乾いていく。
沸騰しそうだった脳の血管が、急速に冷却され、理性が戻ってくる感覚。
「魔法陣の輝きも見えぬのに……空気が、凍りついている。氷の精霊王を、この四角い箱に幽閉して、無理やり吐息を吐かせているというのか!?」
彼は壁の上部に設置されたエアコンを指差し、震える声で叫んだ。
エアコンは低い駆動音を立て、不敬な熱気を容赦なく冷気で上書きし続けている。
ルーバーがゆっくりと動き、冷たい風を公爵の顔面に送り込む。
「……あ、ああ……。涼しい……。いや、これは『救済』だ。灼熱の砂漠で、オアシスの泉に飛び込んだようだ……」
公爵はその場にへたり込みそうになったが、貴族のプライドで何とか踏みとどまった。
だが、その目は完全に泳いでいる。
俺はカウンターの中で、スプーンを咥えたまま冷淡に言い放った。
「ただの空調だ。用がないなら、外の石畳で目玉焼きでも焼いてろ。冷気が逃げる」
俺の不敬な態度に、従者たちが色めき立った。
「貴様、公爵閣下になんという口を!」と叫ぼうとしたが、ヴァレリウスがそれを手で制した。
公爵に、怒る余裕などなかった。
彼の視線は、俺の手元にある小さなカップ――『ハーゲンダッツ』に吸い寄せられていたからだ。
白煙を上げる、真珠色の塊。
そこから漂う甘い香り。
「……店主。お前が食べている、その『白い塊』は何だ」
ヴァレリウスの声が震えている。
それは、砂漠で水を求める遭難者の声だった。
「アイスだ。一口で冬を味わえるぞ」
「……何だと。冬を……食べる、だと?」
ヴァレリウスはカウンターに詰め寄ってきた。
ドスドスと重い足音が響く。
彼の鼻は、エアコンの風に乗って漂ってくるバニラの香りを、猟犬のように逃さず捉えている。
欲望。
彼ほどの権力者が、生まれて初めて「本物の贅沢」を目の当たりにした瞬間の顔だ。
金も、名誉も、土地も持っている男が、たった一つの「涼」を求めてなりふり構わなくなっている。
「売れ。それを私に売れ! 今すぐにだ!」
彼はカウンターをバンと叩いた。
「一個五百円だ。金貨一枚で十分お釣りが出るぞ」
「五百……!? 国を救うほどの氷結魔法を、そんな端金で売るのか! 正気か!」
彼は懐から金貨を鷲掴みにし、カウンターに叩きつけた。
ジャラッ、という音と共に、数枚の金貨が転がる。
そして、俺が顎でしゃくった先にあるアイスケースへと突進した。
ガラスの扉を開けた瞬間、溢れ出した零下の冷気が彼の顔を直撃する。
公爵は「おおおっ……!」と歓喜の声を上げ、中にあるカップを一つ、震える手で鷲掴みにした。
「……冷たい! 掌が焼けるように冷たいぞ! 容器越しでもこの冷気……。中に入っているのは、万年雪の精髄か!?」
彼は俺の真似をしてフィルムを剥がし、付属の木製スプーンで中身を掬おうとした。
だが、カチカチに凍ったアイスは、容易にはスプーンを通さない。
「くっ、硬い! まるで永久凍土だ!」と悪戦苦闘しながら、彼は少し力を込めて表面を削り取った。
そして、その白い欠片を、乾ききった口内へと放り込んだ。
「……っ!! !!?!?!?」
ヴァレリウスの全身が、ビクンと大きく跳ねた。
瞳孔が限界まで収縮し、持っていたスプーンを床に落とした。
カラン、という乾いた音が響く。
彼は口を閉ざしたまま、その場で硬直した。
白目を剥きかけ、こめかみの辺りを押さえて震えている。
アイスクリーム頭痛だ。
急激な冷却に、三叉神経が悲鳴を上げているのだ。
だが、彼にはそれが未知の魔術的衝撃として知覚された。
「……ぐ、ぐうぅぅ……! 頭が……頭が割れるぅぅ!!」
公爵は呻き声を上げた。
従者たちが「閣下! 毒ですか!?」と慌てふためくが、公爵はそれを突き飛ばした。
痛みが引いた直後、彼の脳内を駆け巡ったのは、爆発的な快楽だったからだ。
数秒後、彼の目から、大粒の涙が滝のように流れ落ちた。
ボロボロと、止まることなく涙が頬を伝う。
「……あああぁぁぁ……。冬だ……。私の口の中に、雪の女王が舞い降りた……!」
彼は嗚咽を漏らしながら、再びスプーンを拾ってカップを貪り始めた。
上品な貴族の作法など、この瞬間に消滅した。
ただの飢えた獣。
極上のミルクとバニラ、そして圧倒的な「冷え」という魔法に、彼の魂は完全に屈服したのだ。
ハフハフと冷たい息を吐きながら、次々と口へ運ぶ。
「甘い……。甘美すぎる……。王宮の晩餐会で出されるシャーベットなど、ただの凍った泥水だ! この滑らかさ……。舌の上で、雪が解けて魔力に変わっていくのが分かる!」
「……主様。また一人、堕落しましたね」
エルザが、同情とも軽蔑ともつかない目で公爵を見つめ、呆れたように呟く。
彼女の手には、いつの間にか自分用のアイスが握られている。
ちゃっかりしている。
ヴァレリウスは一個では足りず、ケースの中にあった在庫を全て買い占める勢いで、さらに金貨を積み上げた。
「全部だ! ここにある『冬』を全て私によこせ!」と叫びながら、彼は二個目の蓋を開けている。
彼にとって、このアイスは単なる嗜好品ではない。
死を覚悟した猛暑の中で手に入れた、唯一の救済であり、神の慈悲そのものなのだ。
冷たさが喉を通るたびに、彼の老け込んだ顔に生気が戻っていく。
「店主! 私は毎日ここに来る! いや、この店を王城の隣に移転させろ! この冷気を独占できるなら、私の爵位を全て譲っても構わん! 領地もやる! 屋敷もやる! だから、この箱ごと私に売れ!」
彼はエアコンを指差し、よだれを垂らしながら懇願した。
国家の重鎮が、家電一つに領土を差し出そうとしている。
暑さとは、人をここまで狂わせるものなのか。
「断る。移動が面倒だ。それに、ここは俺の城だ。誰にも渡さん」
俺は最後の一口を飲み込み、空になったカップをゴミ箱に捨てた。
カラン、という軽い音。
公爵は、そのゴミ箱に捨てられた空のカップすら、聖遺物を見るような目で愛おしそうに見つめている。
舐め回したいくらいの勢いだ。
やめてくれ、引くから。
「……そうか。神の城は動かぬか。ならば、私が通うしかないな」
ヴァレリウスは、諦めきれない様子でエアコンを一度振り返ったが、最後は残りのアイスを全て従者に持たせ、自分も両手にカップを持って立ち上がった。
その顔は、入店時とは別人のように晴れやかだった。
彼は冷えたアイスを胸に抱き、部下たちに支えられながら店を去っていった。
自動ドアが開く瞬間、外の熱気が再び襲いかかったが、彼は「ふふふ、私には雪の女王がついている」と不気味に笑いながら熱波の中へ消えていった。
「……暑苦しい奴だったな」
俺は溜息をつき、新しい缶コーヒーのプルタブに指をかけた。
プシュッ、という音が、店内の静寂を取り戻す合図のように響く。
冷たい液体を流し込み、カフェインで頭をリセットする。
平和な店番の時間を取り戻そうとした、その時だ。
窓の外では、公爵が連れ帰ったアイスを一目見ようと、さらに多くの野次馬が集まり始めているのが見えた。
「あの方を見ろ! 吐息が白いぞ!」「手の中に氷の宝石を持っている!」
熱中症寸前の民衆たちが、ゾンビのようにガラス窓に張り付いている。
彼らの視線は、俺の背後にあるアイスケースに一点集中していた。
これは、在庫が持たないな。
平和な時間は、いつも短い。
俺はスマホを操作し、アイスの追加注文画面を開いた。
ついでに、次に騒ぎになりそうな商品のアイコンもタップした。
『パンテーン』。
この世界のパサついた髪の乙女たちが見たら、発狂しそうな代物だ。
俺は小さくあくびをして、注文確定ボタンを押した。
高性能な業務用エアコンが、静音モードで冷気を循環させ、この空間を外界から隔絶された聖域へと変えていた。
ガラス一枚隔てた外の世界は、まさに焦熱地獄だ。
陽炎が石畳の輪郭を歪め、通行人たちは熱せられた鉄板の上を歩く魚のように、苦痛に顔を歪めながら跳ねるように歩いている。
空には雲ひとつなく、太陽が殺意を持って地上を焼き尽くそうとしていた。
この異常な猛暑の中で、俺の支配するコンビニエンスストアだけが、唯一の極北(オアシス)だった。
俺はカウンターの奥にある事務用チェアに深く腰掛け、至福の時間を迎える準備をしていた。
手にあるのは、コンビニで買える贅沢の極み、『ハーゲンダッツ・バニラ』だ。
バーガンディレッドとゴールドの縁取りがなされた、重厚感のある小さなカップ。
そのパッケージデザインだけで、他の百円アイスとは格が違うことを主張している。
俺は指先についた水滴を拭い、プラスチックの蓋をゆっくりと外した。
現れたのは、さらに内側を封印する半透明のフィルムだ。
「Quality Seal」と記されたその膜こそが、工場出荷時の鮮度と品質を、俺が食べるその瞬間まで維持するための絶対的な盾である。
「……これだ。この密度、この輝き」
俺はフィルムの端をつまみ、ペリリと剥がした。
その瞬間、カップの縁から微かな冷気が白煙となって立ち昇る。
そこには、一点の曇りもない真珠色の大地が広がっていた。
冷凍庫から出した直後のアイスクリームは、岩のように硬く、寄せ付ける者を拒絶するような威厳すら放っている。
だが、それは最初だけだ。
俺は専用のプラスチック・スプーンを、真珠色の大地に突き立てた。
指先に伝わる硬質な抵抗。
しかし、スプーンを通して俺の体温が伝わると、アイスの表面が僅かに溶け、ヌルリとスプーンを受け入れた。
その感触だけで、乳脂肪分の高さが分かる。
俺はスプーン一杯分のアイスを掬い上げ、口へと運んだ。
冷たい。
舌に乗せた瞬間、物理的な冷気が脳の深部を鋭く突いた。
思考が一瞬停止するほどの衝撃。
だが、その直後に訪れるのは、マダガスカル産レッドビーンズを使用したという、芳醇なバニラの香りだ。
暴力的なまでの純度で、鼻腔が甘い香りに支配される。
口の中で体温によって溶かされたアイスは、濃厚なミルクの奔流となって食道を滑り落ちていく。
喉を通過する際の冷却感と、鼻に抜ける甘美な余韻。
この世界にある「甘味」といえば、不純物だらけの砂糖を溶かしただけの泥水か、酸味の強い果物くらいだ。
だが、これは違う。
厳選された素材を分子レベルで調和させ、空気の含有量まで計算し尽くされた、冷たき芸術品だ。
「……主様。また、その『氷結の心臓』を食しておられるのですか」
カウンターの横から、切迫した声が聞こえた。
エルザだ。
彼女は今、店内の「アイスクリームケース」の前を陣取り、微動だにせずに立っている。
ガラス越しに漏れ出す冷気を、崇高な魔力の余波だと信じ込んで、その場を離れようとしないのだ。
彼女の目は、俺が持つ小さなカップに釘付けになっていた。
その瞳孔は開ききり、喉が渇望で上下しているのが分かる。
「ハーゲンダッツだ。お前にはまだ早い」
「嘘をおっしゃい。そのカップから立ち昇る白銀の冷気……。そして、主様が一口食べるたびに漏れる、魂が抜けたような吐息。それは、極寒の霊峰に住まう氷竜(アイス・ドラゴン)の心臓を、太古の錬金術で加工し、強引にカップに閉じ込めたものでしょう?」
「ただの牛乳と卵と砂糖だ。冷やして固めただけだよ」
「牛乳と卵……? そのようなありふれた素材で、これほどの『冷気』と『魔力』を宿せるはずがありません。きっと、その牛乳は天界に住む神獣の乳で、卵は不死鳥の卵なのでしょう。主様は、いつもそうやって真実を隠そうとなさる」
エルザは俺の否定を完全に無視し、自分なりの神話を構築している。
彼女にとって、この暑さの中で涼しい顔をして甘味を貪る俺の姿は、自然の理をねじ伏せる超越者にしか見えないらしい。
まあ、訂正するのも面倒だ。
俺は二口目を掬い、口に入れた。
今度は少し溶けかけの部分だ。
滑らかさが段違いだ。
舌の上でクリーム状になったバニラが、味蕾の一つ一つを優しく撫で回す。
その時だった。
ウィーン!
自動ドアが、悲鳴のような駆動音を上げて限界まで開かれた。
同時に、ムワッとした不快な熱気が、暴力的な質量を持って店内に雪崩れ込んでくる。
俺の聖域である冷気が、外の熱波によって侵食される。
不快だ。
一刻も早く、この熱源を排除しなければならない。
現れたのは、一人の男だった。
全身から高貴な……というよりは、傲慢な気配を撒き散らす中年男だ。
赤い毛皮の縁取りがついた、見るからに暑苦しいビロードのローブを纏っている。
この猛暑の中、権威を示すために厚着をするとは、貴族という生き物も因果なものだ。
男の背後には、巨大な団扇(うちわ)を必死に仰ぎ続ける従者が二人控えているが、その風すらも熱風でしかない。
男の額には脂汗がびっしりと浮かび、顔色は茹でダコのように赤く、呼吸は荒い。
彼は王都の貴族、ヴァレリウス公爵だ。
王の親戚であり、この地区の土地を所有する実力者だと聞いている。
「……はぁ、はぁ……。おい、店主。ここか。この地獄のような暑さの中で、常冬の風を吹かせているという不届きな店は……」
ヴァレリウスは、ハンカチで汗を拭いながら、店内に一歩足を踏み入れた。
その瞬間。
彼の表情が、劇的に変化した。
傲慢に歪んでいた顔が、驚愕に塗りつぶされ、目が見開かれる。
入店と同時に、エアコンの冷風が彼の火照った全身を直撃したのだ。
「……な、なんだ、これは」
ヴァレリウスは立ち止まり、呆然と両手を広げた。
汗で張り付いていた服が、冷気によってさらりと乾いていく。
沸騰しそうだった脳の血管が、急速に冷却され、理性が戻ってくる感覚。
「魔法陣の輝きも見えぬのに……空気が、凍りついている。氷の精霊王を、この四角い箱に幽閉して、無理やり吐息を吐かせているというのか!?」
彼は壁の上部に設置されたエアコンを指差し、震える声で叫んだ。
エアコンは低い駆動音を立て、不敬な熱気を容赦なく冷気で上書きし続けている。
ルーバーがゆっくりと動き、冷たい風を公爵の顔面に送り込む。
「……あ、ああ……。涼しい……。いや、これは『救済』だ。灼熱の砂漠で、オアシスの泉に飛び込んだようだ……」
公爵はその場にへたり込みそうになったが、貴族のプライドで何とか踏みとどまった。
だが、その目は完全に泳いでいる。
俺はカウンターの中で、スプーンを咥えたまま冷淡に言い放った。
「ただの空調だ。用がないなら、外の石畳で目玉焼きでも焼いてろ。冷気が逃げる」
俺の不敬な態度に、従者たちが色めき立った。
「貴様、公爵閣下になんという口を!」と叫ぼうとしたが、ヴァレリウスがそれを手で制した。
公爵に、怒る余裕などなかった。
彼の視線は、俺の手元にある小さなカップ――『ハーゲンダッツ』に吸い寄せられていたからだ。
白煙を上げる、真珠色の塊。
そこから漂う甘い香り。
「……店主。お前が食べている、その『白い塊』は何だ」
ヴァレリウスの声が震えている。
それは、砂漠で水を求める遭難者の声だった。
「アイスだ。一口で冬を味わえるぞ」
「……何だと。冬を……食べる、だと?」
ヴァレリウスはカウンターに詰め寄ってきた。
ドスドスと重い足音が響く。
彼の鼻は、エアコンの風に乗って漂ってくるバニラの香りを、猟犬のように逃さず捉えている。
欲望。
彼ほどの権力者が、生まれて初めて「本物の贅沢」を目の当たりにした瞬間の顔だ。
金も、名誉も、土地も持っている男が、たった一つの「涼」を求めてなりふり構わなくなっている。
「売れ。それを私に売れ! 今すぐにだ!」
彼はカウンターをバンと叩いた。
「一個五百円だ。金貨一枚で十分お釣りが出るぞ」
「五百……!? 国を救うほどの氷結魔法を、そんな端金で売るのか! 正気か!」
彼は懐から金貨を鷲掴みにし、カウンターに叩きつけた。
ジャラッ、という音と共に、数枚の金貨が転がる。
そして、俺が顎でしゃくった先にあるアイスケースへと突進した。
ガラスの扉を開けた瞬間、溢れ出した零下の冷気が彼の顔を直撃する。
公爵は「おおおっ……!」と歓喜の声を上げ、中にあるカップを一つ、震える手で鷲掴みにした。
「……冷たい! 掌が焼けるように冷たいぞ! 容器越しでもこの冷気……。中に入っているのは、万年雪の精髄か!?」
彼は俺の真似をしてフィルムを剥がし、付属の木製スプーンで中身を掬おうとした。
だが、カチカチに凍ったアイスは、容易にはスプーンを通さない。
「くっ、硬い! まるで永久凍土だ!」と悪戦苦闘しながら、彼は少し力を込めて表面を削り取った。
そして、その白い欠片を、乾ききった口内へと放り込んだ。
「……っ!! !!?!?!?」
ヴァレリウスの全身が、ビクンと大きく跳ねた。
瞳孔が限界まで収縮し、持っていたスプーンを床に落とした。
カラン、という乾いた音が響く。
彼は口を閉ざしたまま、その場で硬直した。
白目を剥きかけ、こめかみの辺りを押さえて震えている。
アイスクリーム頭痛だ。
急激な冷却に、三叉神経が悲鳴を上げているのだ。
だが、彼にはそれが未知の魔術的衝撃として知覚された。
「……ぐ、ぐうぅぅ……! 頭が……頭が割れるぅぅ!!」
公爵は呻き声を上げた。
従者たちが「閣下! 毒ですか!?」と慌てふためくが、公爵はそれを突き飛ばした。
痛みが引いた直後、彼の脳内を駆け巡ったのは、爆発的な快楽だったからだ。
数秒後、彼の目から、大粒の涙が滝のように流れ落ちた。
ボロボロと、止まることなく涙が頬を伝う。
「……あああぁぁぁ……。冬だ……。私の口の中に、雪の女王が舞い降りた……!」
彼は嗚咽を漏らしながら、再びスプーンを拾ってカップを貪り始めた。
上品な貴族の作法など、この瞬間に消滅した。
ただの飢えた獣。
極上のミルクとバニラ、そして圧倒的な「冷え」という魔法に、彼の魂は完全に屈服したのだ。
ハフハフと冷たい息を吐きながら、次々と口へ運ぶ。
「甘い……。甘美すぎる……。王宮の晩餐会で出されるシャーベットなど、ただの凍った泥水だ! この滑らかさ……。舌の上で、雪が解けて魔力に変わっていくのが分かる!」
「……主様。また一人、堕落しましたね」
エルザが、同情とも軽蔑ともつかない目で公爵を見つめ、呆れたように呟く。
彼女の手には、いつの間にか自分用のアイスが握られている。
ちゃっかりしている。
ヴァレリウスは一個では足りず、ケースの中にあった在庫を全て買い占める勢いで、さらに金貨を積み上げた。
「全部だ! ここにある『冬』を全て私によこせ!」と叫びながら、彼は二個目の蓋を開けている。
彼にとって、このアイスは単なる嗜好品ではない。
死を覚悟した猛暑の中で手に入れた、唯一の救済であり、神の慈悲そのものなのだ。
冷たさが喉を通るたびに、彼の老け込んだ顔に生気が戻っていく。
「店主! 私は毎日ここに来る! いや、この店を王城の隣に移転させろ! この冷気を独占できるなら、私の爵位を全て譲っても構わん! 領地もやる! 屋敷もやる! だから、この箱ごと私に売れ!」
彼はエアコンを指差し、よだれを垂らしながら懇願した。
国家の重鎮が、家電一つに領土を差し出そうとしている。
暑さとは、人をここまで狂わせるものなのか。
「断る。移動が面倒だ。それに、ここは俺の城だ。誰にも渡さん」
俺は最後の一口を飲み込み、空になったカップをゴミ箱に捨てた。
カラン、という軽い音。
公爵は、そのゴミ箱に捨てられた空のカップすら、聖遺物を見るような目で愛おしそうに見つめている。
舐め回したいくらいの勢いだ。
やめてくれ、引くから。
「……そうか。神の城は動かぬか。ならば、私が通うしかないな」
ヴァレリウスは、諦めきれない様子でエアコンを一度振り返ったが、最後は残りのアイスを全て従者に持たせ、自分も両手にカップを持って立ち上がった。
その顔は、入店時とは別人のように晴れやかだった。
彼は冷えたアイスを胸に抱き、部下たちに支えられながら店を去っていった。
自動ドアが開く瞬間、外の熱気が再び襲いかかったが、彼は「ふふふ、私には雪の女王がついている」と不気味に笑いながら熱波の中へ消えていった。
「……暑苦しい奴だったな」
俺は溜息をつき、新しい缶コーヒーのプルタブに指をかけた。
プシュッ、という音が、店内の静寂を取り戻す合図のように響く。
冷たい液体を流し込み、カフェインで頭をリセットする。
平和な店番の時間を取り戻そうとした、その時だ。
窓の外では、公爵が連れ帰ったアイスを一目見ようと、さらに多くの野次馬が集まり始めているのが見えた。
「あの方を見ろ! 吐息が白いぞ!」「手の中に氷の宝石を持っている!」
熱中症寸前の民衆たちが、ゾンビのようにガラス窓に張り付いている。
彼らの視線は、俺の背後にあるアイスケースに一点集中していた。
これは、在庫が持たないな。
平和な時間は、いつも短い。
俺はスマホを操作し、アイスの追加注文画面を開いた。
ついでに、次に騒ぎになりそうな商品のアイコンもタップした。
『パンテーン』。
この世界のパサついた髪の乙女たちが見たら、発狂しそうな代物だ。
俺は小さくあくびをして、注文確定ボタンを押した。
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栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
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