元売れない小説家、海辺の町で“手紙の先生”になる

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そらちゃんの手紙が、夕焼け色のポストに吸い込まれてから一週間が経った。
あの日を境に、僕の日常は少しだけ色合いを変えた気がする。
目的のなかった散歩は、いつしか「月詠堂」へ向かうための大切な時間になっていた。
そして、俯きがちだった視線は、ほんの少しだけれど前を向くようになった。
まだ、誰かと朗らかに言葉を交わすほどの自信はないけれど、それでも確かな変化だった。

その日も僕は、錆びた引き戸に手をかけていた。
カラン、という涼やかな鈴の音に迎えられる。
もはや聞き慣れたその音は、僕にとって「おかえり」と聞こえるようになっていた。
店の中は、いつものように古い紙とインクの、心を落ち着かせる香りに満ちている。

「やあ、いらっしゃい」
カウンターの向こうで、志筑さんが分厚い洋書を読んでいた。
僕の姿を認めると、栞を挟んで静かに本を閉じる。
その所作の一つ一つが、まるで映画のワンシーンのように洗練されて見えた。

「こんにちは」
かろうじて、僕は小さな声で挨拶を返すことができた。
自分でも驚くほどの進歩だ。
以前なら、ただ会釈をするのが精一杯だっただろう。
志筑さんは何も言わず、ただ穏やかに微笑んでくれる。
その沈黙が、今の僕には何よりもありがたかった。

言葉を失った僕を、彼は急かさない。
ただ、そこにいることを許してくれる。
この店は、僕にとって聖域であると同時に、傷ついた鳥が羽を休めるための止まり木のような場所になっていた。

足元に、ふわりと柔らかな感触があった。
見下ろすまでもない。
艶やかな黒い毛並みの主、ホシマルだ。
彼は僕の足に一度だけ体をこすりつけると、満足したようにカウンターの下の指定席、ビロードの座布団へと戻っていく。
そのオッドアイが、じっと僕を見上げている。
「今日も来たのか」とでも言いたげな、どこか尊大な、それでいて親密な視線だった。

僕は店内をゆっくりと見て回るふりをしながら、実はそらちゃんからの報告を待っている自分に気づいていた。
おばあちゃんから、返事は来たのだろうか。
あの日、ポストの前で見た彼女の晴れやかな笑顔を思い出す。
もし、何の音沙汰もなかったら、彼女はまたあの公園のブランコで俯いてしまうのだろうか。
そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
僕がしたのは、ただの自己満足だったのではないか。
無責任に期待させて、かえって彼女を傷つけることになったら……。

「何か、探し物かね」
不意に、志筑さんから声をかけられた。
僕がガラスケースの前で長く立ち尽くしていたからだろう。
ケースの中には、様々な国の、様々な時代の万年筆が、まるで主を待つ騎士のように整然と並んでいる。
その隣には、僕が買ったものと同じ、シンプルなガラスペンもあった。

「いえ、ただ……見ていただけです」

「文房具というのは、不思議なものでね。使う人の心を映す鏡のような役割をすることがある。特に、インクは面白い」
志筑さんはそう言うと、壁一面のインク棚から、いくつかの小瓶をカウンターに取り出した。
深い森のような緑、雨上がりの空のような青、熟した果実のような赤。
一つ一つが、小さな世界をその瓶の中に閉じ込めているように見えた。

「例えばこの緑は『シェイクスピア』。かの文豪が愛したと言われる色を再現したものだ。そしてこの青は『オーロラ』。見る角度によって、ほんの少しだけ色合いが変わる。まるで夜空のカーテンだよ」
彼の言葉を聞いていると、ただの色見本だったインクが、急に物語を帯びて輝きだす。
言葉を失ったはずの僕の頭の中に、そのインクで紡がれるであろう物語の断片が、いくつも浮かんでは消えた。
森を駆ける騎士の物語。
極北の地で、空を見上げる孤独な天文学者の物語。

「すごいですね……インクだけで、こんなに……」

「言葉を乗せる『色』だからな。どんな色を選ぶかで、言葉の温度も、香りも変わってくる。君も、昔は言葉を紡いでいたんだろう」
志筑さんの言葉に、僕は息を呑んだ。
彼は僕の過去を知っているのだろうか。
いや、そんなはずはない。
この町で、僕の過去を知る者は誰もいないはずだ。
おそらく、僕がいつも物書きのソフトが開かれたままのノートパソコンを持ち歩いていることや、言葉に詰まる様子から、彼なりに推測しただけなのだろう。

僕は答えられず、俯いてしまった。
すると、志筑さんは「すまない、立ち入ったことを聞いた」と穏やかに言って、話を続けた。
「言葉が出ない時は、無理に出す必要はない。ただ、美しいと思うものを眺めているだけで、心は少しずつ満たされていくものだよ。このインクたちも、君が声をかけてくれるのを、きっと待っている」

その時だった。
「海斗さーん!」
店の外から、鈴を転がすような明るい声が聞こえた。
ガラスの引き戸が勢いよくガラッと開き、そらちゃんが息を切らしながら飛び込んでくる。
その小さな手には、一通の封筒が大事そうに握られていた。
僕が知っている、淡いクリーム色の封筒とは違う、懐かしい絵柄のついた和紙の封筒だった。

「そらちゃん、どうしたの。そんなに慌てて」

「あのね、あのね!届いたの!」
彼女はカウンターのそばまで駆け寄ると、僕と志筑さんに、宝物を見せるようにしてその封筒を差し出した。
宛名には、僕でも読める、丁寧で美しい文字で『宮内 そら様』と書かれている。
そして差出人の名前は、きっと彼女のおばあちゃんだろう。

「よかったね、そらちゃん」
僕が言うと、彼女は「うん!」と満面の笑みで頷いた。
その笑顔は、公園で別れた時よりも、さらに何倍も輝いて見えた。

「読んで、読んで!」
せがまれるままに、僕は封筒から便箋を取り出した。
そこには、そらちゃんの拙い文字とは対照的な、流れるような筆跡で、優しい言葉が綴られていた。

『そらへ。お手紙、どうもありがとう。そらがおばあちゃんのことを想ってくれているだけで、おばあちゃんは世界一の幸せ者です。新しい町には、もう慣れましたか。友達はできましたか。……』
手紙は、そらちゃんの体を気遣う言葉、引っ越し先での生活を案じる言葉で満ちていた。
そして、手紙の最後の方に、僕の胸を熱くする一文があった。

『追伸。そらが送ってくれたお手紙の文字、夜になると、お星さまみたいにキラキラ光って、とても綺麗です。まるでおばあちゃんのそばに、そらがいてくれるようです。あんなに素敵な魔法を、どこで覚えてきたのかしら』
僕は顔を上げて、志筑さんを見た。
志筑さんは、満足そうに目を細めて、ホシマルを優しく撫でている。
星屑のインク。
書いた人の想いが強いほど、よく光るという、あのインク。
それは、ただのラメ入りインクではなかったのかもしれない。
少なくとも、そらちゃんとおばあちゃんの心を繋いだ、本物の魔法のインクだったのだ。

「海斗さん、ありがとう!海斗さんが一緒に考えてくれたから、魔法が使えたんだよ!」
そらちゃんは屈託なくそう言って、僕の服の袖をぎゅっと握った。
その小さな手の温もりが、僕の心にじわりと広がっていく。
僕は、誰かのために言葉を紡ぐ喜びを、確かに思い出したのだ。
僕の言葉が、誰かを笑顔にできる。
その事実は、出版社から送り返されてきた小説の在庫の山よりも、ずっと重く、そして温かいものだった。

僕が感動に浸っていると、そらちゃんはもじもじしながら、僕の後ろを指さした。
振り返ると、店の入り口のところに、そらちゃんと同じくらいの年頃の女の子が一人、不安そうな顔で立っていた。
ショートカットの、少しボーイッシュな印象の少女だ。

「あのね、海斗さん。この子、ユキちゃんっていうの。私のクラスに最近転校してきたんだけど……」
ユキちゃんと呼ばれた少女は、そらちゃんに促されて、おずおずと一歩前に出た。
そして、小さな声でこう言った。
「あの……私にも、手紙の書き方、教えてもらえませんか……?」

彼女の瞳は、助けを求めるように、まっすぐに僕を射抜いていた。
僕は戸惑いながらも、そらちゃんの期待に満ちた顔と、ユキちゃんの真剣な顔を交互に見た。
僕が、手紙の先生?
デビュー小説が鳴かず飛ばずで筆を折り、言葉も自信も失ってしまった僕が?

けれど、断るという選択肢は、なぜか僕の中には浮かばなかった。
むしろ、その挑戦を、受けて立ちたいとさえ思っていた。
僕の言葉は、まだ誰かの役に立てるのかもしれない。

カウンターの上の、オーロラのように輝くインク瓶が、僕を応援するようにキラリと光った気がした。
僕は、目の前の小さな依頼人に向かって、ゆっくりと、そして確かに頷いた。
「うん。僕でよければ」
それは、僕にとって、失われた自信を取り戻すための、新たな一歩目となる言葉だった。
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