元売れない小説家、海辺の町で“手紙の先生”になる

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新しい依頼人、ユキちゃんとの最初の「文通相談」は、翌日の放課後、いつもの公園のベンチで始まった。
そらちゃんが「ユキちゃん、こっちだよ!」と僕たちの秘密基地に案内してくれたのだが、当のユキちゃんは、昨日月詠堂で見せたか細い勇気もどこへやら、僕から少し距離を置いたベンチの端にちょこんと座り、俯いたまま膝の上のカバンを固く握りしめている。

「ユキちゃん、大丈夫だよ。海斗さんは、すっごく優しいから」
そらちゃんが隣に座って励ますが、ユキちゃんは小さな声で「うん……」と答えるだけで、なかなか顔を上げようとしない。
人見知りなのだろうか。
それとも、何か深い悩みを抱えているのだろうか。
そらちゃんの時とは明らかに違う、張り詰めた空気に、僕もどう切り出していいか分からず、言葉を探してしまう。
かつて、インタビューでしどろもどろになった苦い記憶が、不意に脳裏をよぎった。

「ええと、ユキちゃんは、誰に手紙を書きたいのかな」
僕はできるだけ優しい声色を心がけて、尋ねてみた。
ユキちゃんの肩が、びくりと小さく震える。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……前の学校の、友達に」

「そっか。仲のいいお友達なんだね」

「……うん。ミオちゃんっていうの。一番の、親友だった」

「だった?」
僕が聞き返すと、ユキちゃんは顔を上げないまま、こくりと頷いた。
その反応に、僕は事態が思ったよりも繊細なものであることを察した。
そらちゃんも、心配そうな顔でユキちゃんを見つめている。

そらちゃんが後でこっそり教えてくれたところによると、ユキちゃんは親の都合で、親友のミオちゃんにきちんとお別れを言う時間もないまま、この町に引っ越してきてしまったらしい。
以来、ミオちゃんから何度か手紙が来ているのだが、ユキちゃんは一度も返事を書けていないのだという。

「なんて書けばいいか、分からなくて……。ごめんねって謝りたいけど、今更だし……。ミオちゃん、もう私のこと、忘れちゃったかもしれないし……」
ぽつり、ぽつりと紡がれるユキちゃんの言葉は、自信のなさで震えていた。
言葉が出てこない苦しみ。
相手にどう思われるかを考えるあまり、何も書けなくなる恐怖。
それは、僕自身が経験してきたことと、痛いほど重なった。
真っ白な執筆ソフトのページを前に、金縛りにあったように動けなくなった、あの夜々を思い出す。

「忘れるわけないよ!だって、一番の親友なんでしょ?」
そらちゃんが力強く言うが、ユキちゃんは力なく首を横に振るだけだ。
これは、一筋縄ではいかないかもしれない。
そらちゃんの時は、「おばあちゃんに会いたい」という明確で温かい感情が中心にあった。
でも、ユキちゃんの場合は、罪悪感や不安、寂しさといった、複雑で少し冷たい感情が渦巻いている。
どんな言葉を紡げば、彼女の心を軽くしてあげられるのだろうか。

「焦らなくていいよ。まずは、どんな便箋がいいか、見に行くところから始めない?」
僕はあえて明るく提案した。
形から入る、というのも一つの手だ。
僕自身、月詠堂でガラスペンを買ったことで、何かが変わるきっかけを掴んだのだから。
僕の提案に、そらちゃんが「さんせーい!」と元気よく手を挙げ、ユキちゃんも少しだけ顔を上げて、小さく頷いてくれた。

三人で連れ立って、月詠堂へ向かう。
カラン、と鈴の音が鳴ると、カウンターの奥からひょっこりと志筑さんが顔を出した。
僕たちの姿を見ると、すぐに事情を察したように、にこりと微笑む。
「おや、新しいお客さんだね。ようこそ、月詠堂へ」
その優しい声に、ユキちゃんの緊張が少しだけほぐれたように見えた。
カウンターの下では、ホシマルが大きなあくびをしている。
相変わらずのマイペースぶりだ。

「手紙を、書きたいそうで」
僕が言うと、志筑さんは「ほう」と興味深そうに目を細めた。
そして、ユキちゃんに向かって、ゆっくりと語りかける。
「手紙というのは、不思議なものでね。言葉だけで想いを伝えなければならないと思うと、急に難しくなる。だがね、嬢ちゃん。言葉にならない気持ちは、言葉以外のものですくい上げてやることもできるんだよ」

志筑さんはそう言うと、店の奥から、古い木箱をいくつか持ってきた。
一つ目の箱には、様々な色のシーリングワックスと、美しい模様が彫られたスタンプが入っている。
「これは、封蝋(ふうろう)といってね。昔は手紙に封をするために使ったものだが、今は想いを込めた印として使う人が多い。例えばこの星のスタンプは『願い』、鳥のスタンプは『良い知らせ』、なんて意味があったりもする」

二つ目の箱には、押し花が挟まれた美しい絵葉書が何枚も入っていた。
「言葉が浮かばないなら、絵や花に気持ちを託すのもいい。このスミレの絵葉書なら『小さな幸せ』、こっちの勿忘草(わすれなぐさ)なら、その名の通り『私を忘れないで』。言葉よりも雄弁に、気持ちを伝えてくれることもある」

志筑さんの言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。
言葉という檻に囚われていた僕の頭を、優しく解き放ってくれる。
そうだ、表現する方法は、文章だけじゃない。
色も、形も、香りも、すべてが誰かに何かを伝えるための「言葉」になりうるのだ。

ユキちゃんは、食い入るように木箱の中を覗き込んでいる。
その瞳には、さっきまでの不安の色とは違う、かすかな好奇心の光が灯っていた。

すると、それまで静かにしていたホシマルが、すっくと立ち上がり、壁際のインク棚の方へとしなやかに歩いていった。
そして、ある一つのインク瓶の前でぴたりと止まると、前足でちょい、とそれを指し示すように触れたのだ。

僕たちが顔を見合わせていると、志筑さんが「おや、ホシマルのお眼鏡にかなったかな」と笑いながら、そのインク瓶を手に取った。
それは、僕も見たことのないインクだった。
ラベルには『夕凪(ゆうなぎ)』と書かれている。
瓶の中の液体は、淡いオレンジと、紫が混じり合ったような、何とも言えない不思議な色をしていた。

「これは、少し特別なインクでね。書いた直後はオレンジ色なんだが、乾くにつれて、少しずつ紫が滲んでくるんだ。まるで、夕焼けの空が、静かな夜に移り変わっていくようにね」
志筑さんは試し書きの紙に、ガラスペンでさらさらと『夕凪』と書いた。
その言葉通り、燃えるようなオレンジ色の文字の縁から、じわりと夜の帳のような紫色が滲み出してくる。
それは、一日が終わり、世界が静寂に包まれる、あの切なくて美しい瞬間の色そのものだった。

その色を見た瞬間、ユキちゃんが「あっ」と小さく声を漏らした。
そして、初めてはっきりとした口調で、僕に言った。
「……私、この色、知ってる」

「知ってる?」

「うん。ミオちゃんと、いつも見てた。学校の屋上から。引っ越す前の日も、二人で一緒に見た……。あの日の夕焼け、こんな色だった……」
彼女の瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
でも、それは公園で見た不安の涙とは違う、温かい記憶から生まれた涙のように見えた。

突破口が見えた気がした。
彼女が伝えたいのは、謝罪の言葉だけじゃない。
あの日、二人で一緒に見た、美しい夕焼けの記憶。
言葉にできなかった想いの芯は、そこにある。

「ユキちゃん」
僕は彼女の隣にしゃがみこみ、視線を合わせた。
「無理に、ごめんねって言わなくてもいいんだ。まずは、ミオちゃんに、もう一度あの夕焼けを見せてあげることから始めないか?このインクで、あの日の空の色を手紙に描いてみるんだ。言葉は、その後からきっとついてくるよ」

僕の言葉に、ユキちゃんは驚いたように目をぱちくりさせた後、涙で濡れた顔のまま、こく、こくと何度も頷いた。
その隣で、そらちゃんが「うん、それがいいよ!」と自分のことのように笑っている。
志筑さんは満足そうに頷き、ホシマルは「役目は果たした」とでも言うように、再びカウンター下の座布団で丸くなっていた。

僕たちは、夕凪のインクと、空の色を邪魔しないシンプルなクリーム色の便箋を買って、月詠堂を後にした。
西日が差し込む帰り道、ユキちゃんはもう俯いてはいなかった。
その手には、小さなインク瓶が、大切な宝物のように固く握りしめられていた。

言葉を失った僕が、言葉に詰まる少女を導く。
なんとも奇妙な構図だ。
けれど、不思議と不安はなかった。
言葉だけが全てじゃない。
そう気づかせてもらえたからだ。
小説という、言葉だけで構築された世界に敗れた僕にとって、それは大きな救いだった。

その夜、僕は久しぶりに、自分の部屋のパソコンの電源を入れた。
真っ白なページを開くのはまだ怖い。
でも、ただ、電源を入れる。
それだけでも、僕にとっては大きな、大きな一歩だった。
モニターの明かりが、暗い部屋の中で、まるで夜明けの光のように見えた。
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