元売れない小説家、海辺の町で“手紙の先生”になる

☆ほしい

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田中さんへ葉書を出してから、僕の心は驚くほど軽くなっていた。
何かが劇的に変わったわけではない。
相変わらず小説を書くことはできないままだし、将来への不安が消えたわけでもない。
それでも僕の世界を覆っていた分厚い霧が、少しだけ晴れたような気がしていた。

月詠堂へ通う足取りも、以前とは少し違っていた。
今まではどこか縋るような、逃げ込むような気持ちがあった。
でも今は純粋な好奇心と、楽しさを感じている。

ガラスケースに並んだ万年筆の、一本一本の違い。
壁一面のインクが持つ、それぞれの物語。
それらを知ることが、単純に楽しかった。

「海斗さん、最近いい顔をするようになったね」

ある日の午後、カウンターでインクの色見本帳を眺めている僕に、志筑さんが不意に言った。

「沼に、足を踏み入れる覚悟ができた顔だ」

「沼、ですか?」

「そう、インク沼。一度ハマると二度と抜け出せない、深く、美しく、そして恐ろしい沼さ」

志筑さんは、悪戯っぽく笑う。
その隣で、ホシマルが「にゃあ」と相槌を打った。
その言葉を証明するかのように、店の扉がカランと鳴り香月先生がにこやかに入ってきた。

「志筑さん、約束のものは届いているかしら?」

「ええもちろん。お待ちしておりましたよ、先生」

二人の間には、僕の知らない約束があったらしい。
志筑さんがカウンターの下から取り出したのは、海外から届いたと思しき小さな小包だった。
香月先生は嬉しそうにその包みを開けると、中から出てきたいくつかの小さなインク瓶を、カウンターの上に並べた。

「まあ、なんて素敵な色なの!」

先生はまるで宝石を眺めるように、目を輝かせている。
それは僕が今まで見たこともないような、不思議な色合いのインクばかりだった。

「海斗さんも、いかがかな。今日はささやかなインクの観賞会だよ」

志筑さんに誘われるまま、僕は二人の輪に加わった。

「これはね、ドイツの小さな工房で作られているインクなのよ」

香月先生は、僕に説明してくれる。

「書くと、色が二つに分離するの。デュアルカラーインクって言うのよ」

彼女はガラスペンの先に、淡い紫色のインクをつけた。
そして試し書きの紙に『紫陽花』と書く。
すると、信じられないことが起きた。
インクが乾くにつれて、紫色の文字の縁がふわりと水色に変わっていく。
まるで雨に濡れた紫陽花の花が、日の光を浴びて色を変えるようだ。

「すごい……」

僕の口から、感嘆のため息が漏れた。

「こっちは金色の粒子が入ったインク。書いた文字が、キラキラ光るの」
「こっちは乾くと、チョコレートの香りがするのよ」

次から次へと現れる、魔法のようなインクたち。
僕は夢中になって、その一つ一つを試させてもらった。

インクの沼。
その言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
これは、ただの筆記用具じゃない。
一つ一つが独立した、小さな芸術作品なのだ。

僕たちは、時間を忘れてインク談義に花を咲かせた。
インクの「sheen(シーン)」と呼ばれる、金属的な光沢の話。
色の濃淡、「shading(シェーディング)」が出やすい紙の話。
万年筆のペン先の太さによって、インクの表情がどう変わるかの話。
二人の会話は僕にとって知らないことばかりだったが、聞いているだけで胸が躍った。

書くことの、なんと豊かで奥深い世界。
僕はその入り口に、ようやく立てたのかもしれない。

その中で僕の心は、ある一つのインクに強く惹きつけられていた。
それは香月先生が持ってきたものではなく、月詠堂の棚に以前からあったインクだった。
名前は『曇り空の海』。
緑と青と灰色が混じり合ったような、複雑で静かな色。
晴れた日の、きらきらした海じゃない。
嵐の前の、静寂をたたえた曇り空の下の海の色。
今の僕の心の色に、一番近い気がした。

「その色が、気になるかい」

僕の視線に気づいた志筑さんが、優しく尋ねた。
僕は、こくりと頷く。

「ガラスペンで試すのもいいが、インクの本当の良さを味わうなら万年筆を使ってみるといい」

彼はそう言うとガラスケースから、一本の万年筆を取り出した。
それは、高価な装飾が施されたものではない。
透明な樹脂でできたシンプルな作りの、スケルトンタイプの万年筆だった。

「これは初心者のための一本だ。だが、侮ってはいけない。値段以上に、滑らかな書き心地を約束してくれる」

彼はその万年筆の使い方を、丁寧に教えてくれた。
インクカートリッジではなく、コンバーターという器具を使って瓶から直接インクを吸入する方法。
ペン先の、正しい角度。
紙にインクが染みていく、心地よい感触。

「……僕、これを買います」

気づけば、僕はそう口にしていた。
そして、『曇り空の海』のインク瓶も一緒に。
それは僕にとって、大きな決断だった。
誰かに頼まれたわけじゃない。
自分のために、書く道具を買う。
小説家を目指していた頃以来の、久しぶりの感覚だった。
でもあの頃のような、悲壮な覚悟はない。
そこにあるのはただ、静かで確かな喜びだけだった。

アパートに帰り僕はさっそく、買ってきたばかりの万年筆にインクを吸入した。
透明な軸の中に、『曇り空の海』の色がゆっくりと満たされていく。
それを見ているだけで、心が満たされるようだった。

僕は新しいノートの、最初のページを開いた。
何か物語を書こうと思ったわけじゃない。
ただこのペンで、何かを書いてみたかった。

ペン先を、そっと紙に下ろす。
カリカリ、というガラスペンの硬質な音とは違う。
サラサラと、流れるようにペンが滑る。
インクが生命を得たかのように、紙の上に言葉を描き出す。
僕は夢中で、思いつくままに言葉を書き連ねた。

インクの色について。
海の匂いについて。
ホシマルの瞳の色について。
僕は書くことが、こんなに楽しかったのだということを思い出していた。

誰かに評価されるためじゃない。
お金のためでもない。
ただ自分の心の中にあるものを、形にする喜び。
長い間忘れていた、創作の原点。

しばらく書き続けた後、僕はふとノートの一番下に、ある一文を書いていた。
『海の色は、ひとつじゃない』
それは、小説の一節ではなかった。
詩でも、物語でもない。
でも僕にとっては、どんな名作の一文よりも価値のある言葉だった。

曇り空の海もあれば、凪の海もある。
夕焼けの海もあれば、星屑の海もある。
僕の心も、きっと同じだ。
絶望だけじゃない。
これからは違う色の心も、描いていけるかもしれない。

僕は、そっと万年筆のキャップを閉めた。
窓の外は、すっかり夜になっていた。
でも僕の部屋は、不思議なほどの明るさと静かな熱気に満ちているような気がした。
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