元売れない小説家、海辺の町で“手紙の先生”になる

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月詠堂の「小さな弟子」になってから、僕の日常はさらに彩りを増していた。子供たちの手紙相談に乗るだけでなく、時々は志筑さんの店番を手伝うようにもなった。と言っても、商品を並べたり店先を掃除したりするくらいのことだ。それでも、あの静かで美しい空間の一部になれることが、僕には大きな喜びだった。

インクの匂いに包まれながら、お客さんと文房具の話をする。それは、僕が失っていた世界との繋がりを取り戻すための、優しいリハビリテーションのようだった。

そんなある日の午後、店番をしていた僕の目に一人の老婦人の姿が留まった。佐藤さんというその人は、時々店に顔を出す常連さんの一人だ。いつも上品な和服をきちんと着こなしていて、物静かで優しい人だった。でも、その笑顔にはどこか、いつも薄い影が差しているように見えた。

佐藤さんは決まって、絵葉書の棚の前で長い時間立ち尽くす。色とりどりの絵葉書を一枚一枚、愛おしそうに眺めるのだが、結局何も買わずに、寂しそうに微笑んで帰っていくのだ。

その日も彼女は、椿の花が描かれた絵葉書をじっと見つめていた。

「何かお探しですか」

僕は思い切って声をかけてみた。

佐藤さんは僕の声に、はっとしたように顔を上げた。

「ああ、いえ……ただ、綺麗だなと思って見ていただけですの」

彼女はそう言って力なく笑うと、会釈をして店を出て行ってしまった。その寂しげな後ろ姿が、どうにも僕の心に引っかかった。

その時だった。

カウンターの下で眠っていたはずのホシマルがすっくと立ち上がると、店の隅にある古い在庫を置いた棚の方へ歩いていった。そして前足で、一つの埃をかぶった木箱を、ちょい、とつついた。

「おっと、ホシマル。そこはもう何年も開けていない箱だぞ」

僕が言うと、ホシマルは「にゃあ」と鳴いて、もう一度箱を前足で叩いた。まるで、これを調べろとでも言っているかのようだ。この猫の不思議な行動には、もう慣れている。

僕はホシマルの導きに従い、その古い木箱をカウンターの上に下ろした。蓋を開けると、古い紙の匂いと共に忘れ去られた時間が蘇る。中に入っていたのは、書き損じの便箋や売れ残った古い葉書だった。

その中に、一枚の描きかけの絵手紙が混じっていた。和紙の葉書に墨で、一輪の赤い椿の花が見事に描かれている。その隣には、たどたどしいけれど心のこもった文字で、こう書かれていた。

『千代さんへ。あなたの好きな椿が咲きました。お元気ですか』

そこで文章は途切れている。宛名はあるが、差出人の名前はない。投函されることのなかった、届かなかった手紙。

僕はその絵手紙を見た瞬間、なぜか先ほどの佐藤さんの姿を思い出していた。彼女が見つめていたのも、椿の絵葉書ではなかったか。

「……志筑さん、これ」

夕方、店に戻ってきた志筑さんに、僕はその絵手紙を見せた。志筑さんはそれを手に取ると、懐かしそうに目を細めた。

「ああ、これは……。もう十年以上前になるかな。よく店に来ていたお客さんが、店先で書いていたものだ。確か、遠くに引っ越してしまったお友達に出すのだと言っていたが……」

「その方って、もしかして……」

「ああ。今、君が考えている通りだよ。佐藤さんだ」

やはり、そうだったのか。

志筑さんの話によると、佐藤さんとその千代さんという方は、大の親友だったらしい。若い頃からずっとこの町で、姉妹のように過ごしてきた。絵手紙を送り合うのが、二人の楽しみだった。しかし、ある些細な誤解から二人は喧嘩をしてしまった。仲直りできないまま、千代さんはご主人の仕事の都合で遠くへ引っ越してしまったのだという。

佐藤さんは何度も手紙を書こうとしたが、結局送れないまま、十年以上の時が過ぎてしまったのだ。この絵手紙は、その頃に書かれた彼女の後悔の欠片だった。

話を聞いて、僕は居ても立ってもいられなくなった。このままこの手紙を、忘れられた過去にしてはいけない。僕に何かできることはないだろうか。

翌日、僕はそらちゃんとユキちゃんにこの話をした。二人は僕の話を、真剣な顔で聞いていた。

「それって、ユキちゃんがミオちゃんにお手紙書いた時と、少し似てるね」

そらちゃんが言うと、ユキちゃんもこくりと頷いた。

「……うん。気持ち、分かる。なんて書けばいいか、分からなくなっちゃうんだよね」

「よし、決めた! 私たちで佐藤さんのお手伝いをしよう!」

そらちゃんの提案に、僕とユキちゃんは力強く頷いた。

僕たちはまず、香月先生に相談することにした。あのカリグラフィーの達人なら、きっと良い知恵を貸してくれるはずだ。事情を話すと、香月先生は「まあ、なんて切ないお話なの」と目に涙を浮かべた。

「ええ、もちろん協力させていただきますわ。言葉にならない想いを形にするのが、私たちの役目ですもの」

僕たちの「届かなかった絵手紙を完成させる会」は、月詠堂の一角で秘密裏に始まった。

まず、僕たちが佐藤さんにそれとなく声をかけた。

「この椿の絵手紙、とても素敵ですね。もしよろしければ、続きを書いてみませんか」

佐藤さんは初めは驚き、戸惑っていた。「もう、今さら……」と、何度も首を横に振った。でも、そらちゃんとユキちゃんが「私たちも、一緒にお手伝いします!」と真っ直ぐな瞳で言うと、彼女の頑なだった心が少しずつ解けていくのが分かった。

香月先生は、佐藤さんの震える手を優しく取った。

「大丈夫ですよ。まずは千代さんのことを、思い出してお話してくださるだけでいいんですの」

佐藤さんは、ぽつり、ぽつりと千代さんとの思い出を語り始めた。二人で笑い転げたこと。一緒に泣いたこと。そして、些細なことですれ違ってしまった、最後の日のこと。話しながら、佐藤さんの瞳からは大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。それは、十年以上も彼女の心の中に溜まっていた、後悔と寂しさの涙だった。

僕たちはただ黙って、その話に耳を傾けた。

一通り話し終えた後、佐藤さんの顔は不思議なほどすっきりとしていた。

「ありがとう。あなたたちに話を聞いてもらって、なんだか楽になったわ」

彼女はそう言うと、筆を手に取った。香月先生が隣で優しく墨をする。

『あなたの好きな椿が咲きました。お元気ですか』

その言葉の続きを、佐藤さんは迷いなく書き始めた。謝罪の言葉はなかった。言い訳もなかった。ただ、こう綴られていた。

『この町も少しずつ変わりました。でも、あの頃に二人で見た海の夕焼けは、今も変わらず綺麗です。私もずいぶん、おばあさんになりました。千代さん。私は今でも、あなたのことを時々思い出します』

書き終えた絵手紙を、僕たちはみんなで囲んで眺めた。それは決して完璧な文章ではなかったかもしれない。でも、そこには佐藤さんの十年分の想いが、確かに込められていた。

「これを送るんですか?」

僕が尋ねると、佐藤さんは静かに首を横に振った。

「いいえ。これは送りません。もう千代さんの住所も分からないから」

彼女は、その絵手紙を大切そうに胸に抱いた。

「でも、これでいいんです。これで私の心の中の時間は、やっと前に進むことができます。本当に、ありがとう」

佐藤さんは僕たち一人一人に、深く頭を下げた。その笑顔には、もう影はなかった。まるで長い冬を越えて咲いた一輪の椿のように、凛として美しかった。

僕の仕事は、誰かのために言葉を紡ぐ喜びを思い出すことだった。でも、今は少し違う。言葉にならない想いにそっと寄り添い、それが形になるのを見守ること。それもまた、この町で僕が見つけた大切な役割なのだと思った。
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