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その日の夜、やわらぎ亭の炊き場では、卯月さんが一人、懸命に菓子作りに励んでいた。
「おし乃さん。……私、どうすれば……。梅軒様のような、素晴らしいお菓子、私なんかに作れるはずが……」
昼間の威勢はどこへやら、すっかり弱気になっている卯月さんに、私は静かに語りかけた。
「卯月さん。あなたは、梅軒様と同じものを作る必要はないのですよ」
「え……?」
「大切なのは、あなたが誰のために、どんな想いでお菓子を作るのか、ということ。……あなたの心の中にある、一番温かくて、優しい思い出は何ですの?」
私の言葉に、卯月さんははっとしたように顔を上げた。
そして、ぽつりぽつりと、故郷の母親の話をし始めた。
貧しい家だったけれど、母はいつも、山で採れた自然薯と米粉で、ふんわりとした優しい甘さの蒸し菓子を作ってくれたこと。
その菓子を食べると、どんなに辛いことがあっても、心が温かくなって、また頑張ろうと思えたこと。
その菓子こそが、彼女の菓子作りの原点なのだと。
「……それですわ、卯月さん」
私は、にっこりと微笑んだ。
「あなたが作るべきは、それです。あなたの、お母様の心がこもった、世界でたった一つの、そのお菓子を」
私の言葉に、卯月さんの瞳に、再び強い光が宿った。
彼女は、何度も何度も頷くと、迷いのない手つきで、菓子作りを再開した。
その顔はもう、ただの菓子職人の卵ではなく、一人の作り手としての誇りに満ち溢れていた。
一方その頃。
梅軒様もまた、自宅の仕事場で、久しぶりに菓子作りの道具を引っ張り出していた。
その目は、現役時代を彷彿とさせる、鋭い職人のものに戻っている。
「ふん、小娘に負けてたまるか」
そう呟きながらも、その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
彼もまた、この勝負を心から楽しんでいるのだ。
翌日。やわらぎ亭は、この異色の菓子対決の噂を聞きつけた常連さんたちで、朝からごった返していた。
約束の昼。
卯月さんと梅軒様が、それぞれに自信作を携えて、店にやってきた。
店の空気に、心地よい緊張感が走る。
まずは、梅軒様の番だ。
彼が、漆塗りの重箱から取り出したのは……。
誰もが、息をのんだ。
それは、見事な菊の花を模した、寸分の狂いもない、完璧な「練り切り」だった。
白餡と求肥で作られた、繊細で、気品のある上生菓子。
その花びら一枚一枚に至るまで、熟練の技が光る、まさに芸術品のような一品だ。
「……美しい……」
店のあちこちから、ため息のような声が漏れる。
卯月さんの顔も、そのあまりの完成度の高さに、青ざめていた。
次に、卯月さんの番だ。
彼女が、竹の皮の包みから取り出したのは……。
真っ白で、ふんわりとした、素朴な蒸し菓子だった。
梅軒様の練り切りと比べると、あまりにも地味で、飾り気がない。
店の客たちからも、「なんだ、ただの蒸しパンか?」という、少しがっかりしたような声が聞こえてくる。
「これは、『かるかん』と申します。私の、故郷の菓子でございます」
卯月さんは、震える声で、しかし凛としてそう言った。
勝負の行方は、一体どうなるのか。
私と良太は、固唾をのんで、その様子を見守っていた。
「では、梅軒様。まずは、卯月さんのその『かるかん』とやらを、お味見くださいな」
私の言葉に、梅軒様はふんと鼻を鳴らしながら、かるかんを一切れ、無造作に口に運んだ。
その瞬間。
頑なだった梅軒様の表情が、ふっと崩れた。
皺だらけの目元から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
「……なんじゃ、この味は……」
それは、ほとんど声にならないような、か細い呟きだった。
「……温かい。……どこまでも、優しくて、温かい味がする……。自然薯の豊かな風味と、米のほのかな甘み……。小手先の技など、何もない。じゃが……この菓子には、まことの『心』がこもっておるわ……」
梅軒様は、子供のようにしゃくり上げながら、夢中でかるかんを頬張っていた。
その一椀に込められた、卯月の母親への愛情、そして故郷への想いが、彼の頑なだった心を、じんわりと溶かしてくれたのだ。
「……小娘」
梅軒様は、涙で濡れた顔を上げた。
「……わしの、負けじゃ」
その、潔い敗北宣言。
店の誰もが、あっけにとられていた。
卯月さんもまた、信じられないといった顔で、ただ呆然と立ち尽くしている。
「わしは、いつの間にか忘れておった。一番大切なことを。……菓子とは、技で作るものではない。心で、作るものなのじゃと。……おぬしのこのかるかんが、わしに思い出させてくれたわい」
梅軒様は、すっくと立ち上がると、卯月さんの前に、深々と頭を下げた。
「……小娘。……いや、卯月殿。……よろしければ、わしの技、おぬしに教えてやってもよい。……いや、教えてはくれまいか。おぬしのその温かい心と、わしの技が合わされば、きっと、日ノ本一の菓子が作れるはずじゃ」
その、思いがけない言葉。
卯月さんの大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……はい……! はい……! よろしく、お願いいたします、お師匠様!」
頑固な老師と、内気な少女。
一杯の素朴な菓子が結んだ、温かい師弟の縁。
やわらぎ亭に、また一つ、忘れられない物語が生まれた瞬間だった。
卯月さんは、その後、梅軒様の元で厳しいながらも愛情のこもった指導を受け、めきめきと腕を上げていった。
そして、一年後。
日本橋に、小さな、しかし江戸中の評判となる菓子屋が、開店したという。
その店の名は、『甘味処 卯月堂』。
店の看板菓子は、もちろん、師弟の絆を結んだ、あの温かい『かるかん』だった。
「おし乃さん。……私、どうすれば……。梅軒様のような、素晴らしいお菓子、私なんかに作れるはずが……」
昼間の威勢はどこへやら、すっかり弱気になっている卯月さんに、私は静かに語りかけた。
「卯月さん。あなたは、梅軒様と同じものを作る必要はないのですよ」
「え……?」
「大切なのは、あなたが誰のために、どんな想いでお菓子を作るのか、ということ。……あなたの心の中にある、一番温かくて、優しい思い出は何ですの?」
私の言葉に、卯月さんははっとしたように顔を上げた。
そして、ぽつりぽつりと、故郷の母親の話をし始めた。
貧しい家だったけれど、母はいつも、山で採れた自然薯と米粉で、ふんわりとした優しい甘さの蒸し菓子を作ってくれたこと。
その菓子を食べると、どんなに辛いことがあっても、心が温かくなって、また頑張ろうと思えたこと。
その菓子こそが、彼女の菓子作りの原点なのだと。
「……それですわ、卯月さん」
私は、にっこりと微笑んだ。
「あなたが作るべきは、それです。あなたの、お母様の心がこもった、世界でたった一つの、そのお菓子を」
私の言葉に、卯月さんの瞳に、再び強い光が宿った。
彼女は、何度も何度も頷くと、迷いのない手つきで、菓子作りを再開した。
その顔はもう、ただの菓子職人の卵ではなく、一人の作り手としての誇りに満ち溢れていた。
一方その頃。
梅軒様もまた、自宅の仕事場で、久しぶりに菓子作りの道具を引っ張り出していた。
その目は、現役時代を彷彿とさせる、鋭い職人のものに戻っている。
「ふん、小娘に負けてたまるか」
そう呟きながらも、その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
彼もまた、この勝負を心から楽しんでいるのだ。
翌日。やわらぎ亭は、この異色の菓子対決の噂を聞きつけた常連さんたちで、朝からごった返していた。
約束の昼。
卯月さんと梅軒様が、それぞれに自信作を携えて、店にやってきた。
店の空気に、心地よい緊張感が走る。
まずは、梅軒様の番だ。
彼が、漆塗りの重箱から取り出したのは……。
誰もが、息をのんだ。
それは、見事な菊の花を模した、寸分の狂いもない、完璧な「練り切り」だった。
白餡と求肥で作られた、繊細で、気品のある上生菓子。
その花びら一枚一枚に至るまで、熟練の技が光る、まさに芸術品のような一品だ。
「……美しい……」
店のあちこちから、ため息のような声が漏れる。
卯月さんの顔も、そのあまりの完成度の高さに、青ざめていた。
次に、卯月さんの番だ。
彼女が、竹の皮の包みから取り出したのは……。
真っ白で、ふんわりとした、素朴な蒸し菓子だった。
梅軒様の練り切りと比べると、あまりにも地味で、飾り気がない。
店の客たちからも、「なんだ、ただの蒸しパンか?」という、少しがっかりしたような声が聞こえてくる。
「これは、『かるかん』と申します。私の、故郷の菓子でございます」
卯月さんは、震える声で、しかし凛としてそう言った。
勝負の行方は、一体どうなるのか。
私と良太は、固唾をのんで、その様子を見守っていた。
「では、梅軒様。まずは、卯月さんのその『かるかん』とやらを、お味見くださいな」
私の言葉に、梅軒様はふんと鼻を鳴らしながら、かるかんを一切れ、無造作に口に運んだ。
その瞬間。
頑なだった梅軒様の表情が、ふっと崩れた。
皺だらけの目元から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
「……なんじゃ、この味は……」
それは、ほとんど声にならないような、か細い呟きだった。
「……温かい。……どこまでも、優しくて、温かい味がする……。自然薯の豊かな風味と、米のほのかな甘み……。小手先の技など、何もない。じゃが……この菓子には、まことの『心』がこもっておるわ……」
梅軒様は、子供のようにしゃくり上げながら、夢中でかるかんを頬張っていた。
その一椀に込められた、卯月の母親への愛情、そして故郷への想いが、彼の頑なだった心を、じんわりと溶かしてくれたのだ。
「……小娘」
梅軒様は、涙で濡れた顔を上げた。
「……わしの、負けじゃ」
その、潔い敗北宣言。
店の誰もが、あっけにとられていた。
卯月さんもまた、信じられないといった顔で、ただ呆然と立ち尽くしている。
「わしは、いつの間にか忘れておった。一番大切なことを。……菓子とは、技で作るものではない。心で、作るものなのじゃと。……おぬしのこのかるかんが、わしに思い出させてくれたわい」
梅軒様は、すっくと立ち上がると、卯月さんの前に、深々と頭を下げた。
「……小娘。……いや、卯月殿。……よろしければ、わしの技、おぬしに教えてやってもよい。……いや、教えてはくれまいか。おぬしのその温かい心と、わしの技が合わされば、きっと、日ノ本一の菓子が作れるはずじゃ」
その、思いがけない言葉。
卯月さんの大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……はい……! はい……! よろしく、お願いいたします、お師匠様!」
頑固な老師と、内気な少女。
一杯の素朴な菓子が結んだ、温かい師弟の縁。
やわらぎ亭に、また一つ、忘れられない物語が生まれた瞬間だった。
卯月さんは、その後、梅軒様の元で厳しいながらも愛情のこもった指導を受け、めきめきと腕を上げていった。
そして、一年後。
日本橋に、小さな、しかし江戸中の評判となる菓子屋が、開店したという。
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