【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

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店の真ん中に置かれた土鍋で、ただひたすらに粥を炊いた。

米はもちろん「玉響」。
水は今朝一番に汲んできた、清らかな井戸水。

米の一粒一粒が熱い湯の中でゆっくりと花開き、互いに寄り添い、とろりと溶け合っていく。
立ち上る湯気はまるで絹のように柔らかく、米の甘く、そして気高い香りが店の中に満ちていく。

味付けはしない。
ただ火から下ろす寸前に、ほんの少しだけ天然の塩を加えるだけ。
米の持つ本来の甘みを最大限に引き出すためだ。

私はその炊き立ての白粥を、温めておいた素朴な土物の椀にそっとよそった。
そして、添えるのはただ一つ。
私が今年の春に漬けた、美しい紅色の小梅の梅干し。
ただそれだけだった。

私はその粥の膳を、自らの手でおとき様の前に運んだ。
そして何も言わずに、彼女の隣の席にそっと腰を下ろした。

言葉は要らない。
ただ静かに、同じ時間を過ごす。
それこそが今の彼女に寄り添う唯一の方法だと、私は確信していた。

おとき様は目の前に置かれた、あまりにも素朴な一膳をただじっと見つめていた。
湯気の立つ真っ白な粥。
そしてその脇にちょこんと添えられた、一粒の赤い梅干し。
何の飾り気もない、あまりにも簡素な食事が、彼女の心の奥底に眠っていた何かを揺り動かしているようだった。

やがて、その大きな瞳から、はらりと一筋、大粒の涙がこぼれ落ちた。
そして、また一筋。
それはとめどなく、彼女の皺の刻まれた頬を伝っていく。

「……主人が……」

おとき様は声を詰まらせながら、ぽつりと呟いた。

「……亡くなる日の朝に最後に口にしたのが……これと同じお粥でございました」

その言葉に、私は息をのんだ。

「……もう何も喉を通らなかったあの人が……。私が作ったこのお粥だけは『美味い、美味い』とそう言って、ほんの少しだけ口にしてくれて……。そして私の手を握って『ありがとう』と……。それが、あの人の最後の言葉に……」

おとき様は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
長年心の奥底に押し込めていた深い悲しみと、そして夫への尽きせぬ愛情。
その全てが涙と共に溢れ出していく。

一杯の白粥が、ついに彼女の凍てついていた心をゆっくりと温かく溶かし始めたのだ。
私は何も言わずに、ただその小さな背中を優しく、優しくさすり続けた。

その、あまりにも静かで、しかし魂を揺さぶるような光景を。
店の前を偶然通りかかった一人の男が、息をのんで見ていた。

『風のま』の店主、剣心だった。
自分の店に客が来ないのをいぶかしみ、様子を見に来たのかもしれない。

彼の目に映ったのは、信じられない光景だった。
自分のあの完璧な料理では決して動かすことのできなかった、あのご婦人の心が。
たった一杯の何の変哲もない白粥によって、今、確かに救われようとしている。

料理とは、一体何なのだろうか。
技を尽くし美を追求することだけが、全てではないのか。
人の心に寄り添うとは、どういうことなのか。

剣心は、料理の真の意味を垣間見た気がした。
彼はただその場に立ち尽くし、やわらぎ亭の中から漏れる温かい光と、人の心の雪解けの音を、呆然と聞き入っていることしかできなかった。

やわらぎ亭の小さな灯りは今日もまた、一つの魂を静かに、そして確かに温かく照らし出していた。

それから数日が過ぎた、昼下がりのことだった。
店の賑わいも少し落ち着き、私と良太が昼餉の片付けをしていると、店の戸がからりと開いた。

そこに立っていたのは、『風のま』の店主、剣心だった。
彼はもはや、ライバルとしてではなく、一人の料理人として、深々と頭を下げた。

「女将殿。……いや、おし乃殿。……先日のお姿、見事であった。……どうか、私にあなたの料理を、一膳ご教授願いたい」

その声には、以前のような傲慢な響きは微塵もなかった。
ただひたすらに、料理の道を求める者の、真摯な響きだけがあった。

「まあ、剣心様。どうぞ、お上がりくださいな」

私はにっこりと微笑み、彼を店の中へと招き入れた。
良太は、どんな豪華な料理が出てくるのかと身構えているようだった。向かいの店の主に、やわらぎ亭の真髄を見せつけるのだ。きっと、あの「宝寄せ」のような、特別な一品に違いない。彼の顔には、そんな緊張と期待が浮かんでいた。

しかし、私が剣心の前に出したのは、特別な料理ではなかった。
今日の常連たちに出したのと同じ、「秋鮭の塩焼き」、大根と油揚げの味噌汁、お涼さんの糠漬け、そして玉響で炊いた、つやつやの白いご飯。
やわらぎ亭の、ありふれた日常の昼餉だった。

剣心は、そのあまりに素朴な膳に、一瞬戸惑いの表情を浮かべる。彼の店で出される、絵画のように美しい料理とは、あまりにもかけ離れていたからだ。
無理もない。彼の料理は、非日常の輝きを放つ「点」の料理。対して、私の料理は日々の暮らしに寄り添う「線」の料理なのだから。

「さあ、どうぞ。冷めないうちに召し上がってくださいな」

私は静かにそう促した。
剣心は、おずおずと焼き魚に箸をつける。一口食べた瞬間、彼ははっとする。
完璧な塩加減。
ただ塩を振っただけではない。振る塩の量、振る高さ、そして振る時間。その全てが計算され尽くしている。だからこそ、鮭の持つ豊かな脂の甘みが、最大限に引き出されているのだ。

皮はぱりっと香ばしく、身はふっくらと瑞々しい。
炭火の香りが、鼻腔を心地よくくすぐる。
彼は理解する。
この一見、何でもない塩鮭に、どれほどの心と技が注がれているのかを。

次に、味噌汁を一口。
出汁の、なんと深く、そして優しいことか。大根は柔らかく煮含められ、油揚げにはその出汁がじゅわりと染み込んでいる。それぞれの具材が、互いの持ち味を殺すことなく、見事な調和を生み出している。
お涼さんが丹精込めて漬けた糠漬けの、絶妙な塩加減と歯触り。
そして、何よりもこの、玉響で炊いたご飯の、一粒一粒が輝くような美味さ。

彼は、ようやく全てを理解した。
やわらぎ亭の真髄は、特別な料理にあるのではない。
この、何でもない日常の一膳一膳に、一切の妥協なく、食べる人への深い愛情と想いが込められていることなのだと。
それは、客の舌を唸らせるための料理ではない。客の明日を、その先の人生を、そっと支えるための料理なのだ。

「……参りました。……私の料理には、この温かさがなかった」

食べ終えた剣心は、深々と頭を下げた。
その顔には、一点の曇りもない、晴れやかな色が浮かんでいた。

「どうか、私を弟子にしてください!
このやわらぎ亭で、あなた様の下で、料理の心を、一から学び直したいのです!」

その、あまりにも真摯な申し出。
良太は、驚きと、そして少しの嫉妬が入り混じったような、複雑な顔で二人を見つめている。

私は、そんな剣心に、にっこりと微笑み、そして静かに首を横に振った。

「私が教えられることなど、何もありませんわ」

「……え?」

「答えは、剣心様のお客様が、教えてくださいます。あなたが作るべき料理の答えは、あなたの店の暖簾をくぐる、一人一人のお客様の心の中にこそ、あるのですから」

その言葉に、剣心は何かを悟ったように、晴れやかな顔で頷く。
彼は、私が言わんとすることを、心の底から理解してくれたようだった。
二人の間に、ライバル関係を超えた、料理人としての温かい絆が生まれた瞬間だった。

剣心が、晴れやかな顔で帰っていった後。
良太が、ぽつりと呟いた。
「おし乃さんは、やっぱりすごいです。俺、一生ついていきます」
その、あまりにも真っ直ぐな言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
「まあ、大袈裟ね。さあ、私たちも賄いにしましょうか。お腹が空いては、良い仕事もできませんから」
私はそう言って笑い、良太と共に、今日の客たちに出したのと同じ、素朴な昼餉の膳に向かう。

やわらぎ亭の日常は、これからも変わらない。
江戸の片隅で、温かい湯気と共に、人の心を温め続ける。
そして、今日生まれたこの新たな縁が、またどんな温かい物語を紡いでくれるのか。
私の胸は、大きな期待で満たされていた。
この小さな飯屋の物語は、まだ始まったばかりなのだから。
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感想 8

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みんなの感想(8件)

ねむたん
2025.07.26 ねむたん

読みやすくて楽しいです。
ご飯の描写がおいしそう(*´Д`*)

解除
りか28
2025.07.20 りか28

70話は63話から65話までのエピソードを繰り返しているような…卵焼きと相馬の武士の人探し。

2025.07.23 ☆ほしい

コメントありがとうございます!改訂しました。

解除
メロディー
2025.07.06 メロディー

55話と56話 同じお話に見えます。

2025.07.06 ☆ほしい

ありがとうございます!修正しました。

解除

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