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釜の湯気が高く立ち上り、その香りに紛れて、町のざわめきがふわりと入ってきた。昼を過ぎて、陽の光が真上に差し込みはじめたころ。私は蓋を開けたままの釜にしゃもじを入れ、軽く米をほぐす。炊きたての飯がきれいに立ち上がり、湯気と一緒に艶がのる。
「よく炊けましたね」
良太が囲炉裏の脇から覗き込んできた。
「ここまでくれば、もう手を出す必要はありません。米の力に任せるだけです」
「力、ですか」
「ええ。水を吸って、火に抱かれて、自分で立ち上がる。それを信じて、待ってあげるんです」
「料理って、待つ時間が多いんですね」
「何を急いでも、うまくはなりません。手も火も、黙って見守るのが一番です」
「じゃあ、俺の包丁も……そのうち握らせてもらえるようになりますか?」
「それは火が決めます」
良太が笑った。その顔がすっかり炊き場に馴染んできて、私は気づかないうちに、手間を任せることが増えていた。次の釜の仕込みも、彼が研いだ米だ。水の具合を見て、火の加減を確かめて、昨日よりも少し自信が出てきている。
「おし乃さん、表に誰か来てます」
戸の方から、お初の声がした。午前中に帰ったはずのお初が、戻ってきたのだろうか。私は炊き場の手を止めて、表へ向かう。
のれんの下から顔を覗かせていたのは、お初ではなく、お初の母親だった。
「おし乃さん、お邪魔してごめんなさいね」
「いえ、どうぞお入りください」
「今日のお昼も、とても美味しかったって、娘が。……それで、ちょっとお願いがあって」
「なんでしょう」
「このお弁当箱、うちの主人に持たせてやりたいんです。明日は朝早くから、築地の方に出向くって言っていて。普段は家で握るんですけど、ここのご飯が恋しいって言い出して」
「承知しました。では、何か一品、添えますね」
「いいんですか?」
「弁当は中身より、気配りの方が味になりますから」
「じゃあ、甘めの玉子焼きなんか……」
「お好みですか?」
「はい。あの人、酒も呑まないし、おかずはあっさり、甘いものが好きで。だけど、煮物ばかりだと飽きるんですって」
「では、玉子焼きと、芋がらの煮つけを」
「うれしい……ありがとうございます」
小さな折に飯を詰めて、冷ましておく。その間に卵を割り、だしをひいて、甘味を加えて焼く。香りが立ちすぎないよう、火加減をほんの少し落とす。
「いい香り……これは、誰が食べてもほっとするわね」
「懐かしさと新しさの間を行ったり来たりできれば、いい玉子焼きになります」
「なるほど、さすがだわ」
折の蓋を閉じ、布で包んで手渡すと、母親は深々と頭を下げて帰っていった。
私はそのまま裏口に回り、干してあった漬物を一つつまんだ。香りと塩気の具合を確かめてから、それを味見と称して良太の方に差し出す。
「これ、食べてみて」
「はい。……あっ、これ、すごく柔らかいのに、味はしっかりしてます」
「一晩水に浸けておいた後、塩を洗い流して、出汁に漬け直してるんです」
「二段仕込み……」
「一段目で抜いて、二段目で入れる。料理はその繰り返しです」
「なるほど……」
良太が小さく頷いていたところへ、戸が開いた。再び音もなく、慎重な足取りの誰かが入ってきた。目をやると、昼前に来ていた、あの男だった。
「今日は、昼のうちにもう一度来てみた」
「いらっしゃいませ」
「うちの母が、こちらで食べてみたいと申していてな」
入ってきたのは、艶のある白髪を一つに結った、着物姿の女だった。目元はきつく、けれど姿勢がすっと伸びていて、ただ者ではないと一目でわかった。
「こちらが、噂のやわらぎ亭ですか」
「はい。煮売り屋です。どうぞ、火のそばへ」
「随分と落ち着いた佇まいですね。香りも上品。……今日は、何があります?」
「切り干し大根の炊き合わせに、筍の煮物。あとは、炊きたての白飯と味噌汁をご用意できます」
「では、その一式で」
「かしこまりました」
私は小鉢を並べ、順に盛りつけていく。視線の圧を感じながらも、いつも通りに。筍はまだ温かく、出汁を含んでつやがある。切り干し大根はふわりと広げて盛り、炊き立ての飯は椀にふっくらとよそった。
「どうぞ」
女は黙って箸を取った。筍をひと口、咀嚼し、切り干しも静かに味わう。そして、ご飯を一膳。
「なるほど」
それだけ言って、また箸を進めた。
良太が釜の方から、気配を殺して見守っていた。客の動きを、じっと見る目になっていた。
「お見事」
女は箸を置いて、そう言った。
「見た目に派手さはないけれど、舌に入るとすぐに記憶に残る。……味覚というより、身体で覚えるような味」
「そういう風に届いたなら、何よりです」
「こういう店、今の江戸には少なくなりました」
「江戸が広がって、人が増えましたから」
「でも、こういう店こそ、残さなくてはいけない」
女は立ち上がり、しっかりと私の目を見て言った。
「近いうちに、また参ります。うちの主人も、ぜひ連れて」
私は頭を下げた。女は一礼し、付き添いの男とともに去っていった。
炊き場に戻ると、良太がしゃもじを手に、湯気に包まれていた。
「すごい人ですね……あの女の人」
「舌がいい人は、言葉も的確です」
「褒められたのに、おし乃さん、少しだけ顔がこわばってました」
「人は、褒められるよりも見抜かれる方が緊張するんです」
「じゃあ、あの人に見抜かれたってことですか?」
「それは……私にはわかりません」
私は火のそばにしゃがみ、囲炉裏の炭を少し寄せた。ぱちん、と乾いた音がして、静かに灰が舞った。良太が手元の鍋を覗き込み、蓋を少しだけずらした。
「おし乃さん、これ……もう火、止めていいですか?」
「ええ。うまく炊けてます」
彼は火ばさみで炭をよけ、鍋を囲炉裏の脇へ寄せた。その動きには、もう迷いがなかった。私は新しい釜の仕込みを始めた。今日のうちにもう一度、米を炊いておかねば、明日が間に合わない。
炊き場の空気にまた、湯気が満ちてきた。次の一膳の準備が始まる。火は、まだまだ消せそうになかった。
「よく炊けましたね」
良太が囲炉裏の脇から覗き込んできた。
「ここまでくれば、もう手を出す必要はありません。米の力に任せるだけです」
「力、ですか」
「ええ。水を吸って、火に抱かれて、自分で立ち上がる。それを信じて、待ってあげるんです」
「料理って、待つ時間が多いんですね」
「何を急いでも、うまくはなりません。手も火も、黙って見守るのが一番です」
「じゃあ、俺の包丁も……そのうち握らせてもらえるようになりますか?」
「それは火が決めます」
良太が笑った。その顔がすっかり炊き場に馴染んできて、私は気づかないうちに、手間を任せることが増えていた。次の釜の仕込みも、彼が研いだ米だ。水の具合を見て、火の加減を確かめて、昨日よりも少し自信が出てきている。
「おし乃さん、表に誰か来てます」
戸の方から、お初の声がした。午前中に帰ったはずのお初が、戻ってきたのだろうか。私は炊き場の手を止めて、表へ向かう。
のれんの下から顔を覗かせていたのは、お初ではなく、お初の母親だった。
「おし乃さん、お邪魔してごめんなさいね」
「いえ、どうぞお入りください」
「今日のお昼も、とても美味しかったって、娘が。……それで、ちょっとお願いがあって」
「なんでしょう」
「このお弁当箱、うちの主人に持たせてやりたいんです。明日は朝早くから、築地の方に出向くって言っていて。普段は家で握るんですけど、ここのご飯が恋しいって言い出して」
「承知しました。では、何か一品、添えますね」
「いいんですか?」
「弁当は中身より、気配りの方が味になりますから」
「じゃあ、甘めの玉子焼きなんか……」
「お好みですか?」
「はい。あの人、酒も呑まないし、おかずはあっさり、甘いものが好きで。だけど、煮物ばかりだと飽きるんですって」
「では、玉子焼きと、芋がらの煮つけを」
「うれしい……ありがとうございます」
小さな折に飯を詰めて、冷ましておく。その間に卵を割り、だしをひいて、甘味を加えて焼く。香りが立ちすぎないよう、火加減をほんの少し落とす。
「いい香り……これは、誰が食べてもほっとするわね」
「懐かしさと新しさの間を行ったり来たりできれば、いい玉子焼きになります」
「なるほど、さすがだわ」
折の蓋を閉じ、布で包んで手渡すと、母親は深々と頭を下げて帰っていった。
私はそのまま裏口に回り、干してあった漬物を一つつまんだ。香りと塩気の具合を確かめてから、それを味見と称して良太の方に差し出す。
「これ、食べてみて」
「はい。……あっ、これ、すごく柔らかいのに、味はしっかりしてます」
「一晩水に浸けておいた後、塩を洗い流して、出汁に漬け直してるんです」
「二段仕込み……」
「一段目で抜いて、二段目で入れる。料理はその繰り返しです」
「なるほど……」
良太が小さく頷いていたところへ、戸が開いた。再び音もなく、慎重な足取りの誰かが入ってきた。目をやると、昼前に来ていた、あの男だった。
「今日は、昼のうちにもう一度来てみた」
「いらっしゃいませ」
「うちの母が、こちらで食べてみたいと申していてな」
入ってきたのは、艶のある白髪を一つに結った、着物姿の女だった。目元はきつく、けれど姿勢がすっと伸びていて、ただ者ではないと一目でわかった。
「こちらが、噂のやわらぎ亭ですか」
「はい。煮売り屋です。どうぞ、火のそばへ」
「随分と落ち着いた佇まいですね。香りも上品。……今日は、何があります?」
「切り干し大根の炊き合わせに、筍の煮物。あとは、炊きたての白飯と味噌汁をご用意できます」
「では、その一式で」
「かしこまりました」
私は小鉢を並べ、順に盛りつけていく。視線の圧を感じながらも、いつも通りに。筍はまだ温かく、出汁を含んでつやがある。切り干し大根はふわりと広げて盛り、炊き立ての飯は椀にふっくらとよそった。
「どうぞ」
女は黙って箸を取った。筍をひと口、咀嚼し、切り干しも静かに味わう。そして、ご飯を一膳。
「なるほど」
それだけ言って、また箸を進めた。
良太が釜の方から、気配を殺して見守っていた。客の動きを、じっと見る目になっていた。
「お見事」
女は箸を置いて、そう言った。
「見た目に派手さはないけれど、舌に入るとすぐに記憶に残る。……味覚というより、身体で覚えるような味」
「そういう風に届いたなら、何よりです」
「こういう店、今の江戸には少なくなりました」
「江戸が広がって、人が増えましたから」
「でも、こういう店こそ、残さなくてはいけない」
女は立ち上がり、しっかりと私の目を見て言った。
「近いうちに、また参ります。うちの主人も、ぜひ連れて」
私は頭を下げた。女は一礼し、付き添いの男とともに去っていった。
炊き場に戻ると、良太がしゃもじを手に、湯気に包まれていた。
「すごい人ですね……あの女の人」
「舌がいい人は、言葉も的確です」
「褒められたのに、おし乃さん、少しだけ顔がこわばってました」
「人は、褒められるよりも見抜かれる方が緊張するんです」
「じゃあ、あの人に見抜かれたってことですか?」
「それは……私にはわかりません」
私は火のそばにしゃがみ、囲炉裏の炭を少し寄せた。ぱちん、と乾いた音がして、静かに灰が舞った。良太が手元の鍋を覗き込み、蓋を少しだけずらした。
「おし乃さん、これ……もう火、止めていいですか?」
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