【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

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良太が薪を割る音が、炊き場の湯気の向こうで小気味よく響いた。音のひとつひとつに、迷いがなかった。昨日の朝は、まだ指に力が入っていなかったのに、人の手というものは、一晩あればすぐに変わる。

釜の火が安定したので、私は芋がらと干し椎茸の鍋を弱火にして、昆布の出汁に切り干し大根を加える。汁気を吸ってふっくらと戻ったそれが、やさしく鍋の底で揺れる。火が穏やかな音を立てて、ああ、今日も悪くない、と私に教えてくれた。

「おし乃さん、薪、もう一束いりますか?」

「ええ。あと二束あれば、夕方までもちます」

「かしこまりました」

かしこまりました、という言い回しが、どうにも良太らしくて、私はふと口元が緩んだ。武家の娘だったころには、そういう物言いが日常だった。でも、いまの私には、囲炉裏の火を保つためのやりとりの方が、よほど馴染んでいた。

外の方から、荷車の軋む音が聞こえてきた。聞き覚えのある節回しだったので、私は手を止め、釜から首を出した。

「おし乃さーん、今日はちょいと変わったもん、持ってきたよ」

八百屋の忠吉だった。いつもは菜っ葉ばかりの籠に、今日は丸々と太った筍が頭を出していた。

「まあ……今年はまだ早いと思ってましたけれど」

「南の方の竹林で、陽の入りがいいとこがあってね。そこからの“初もの”。やわらぎ亭の釜に入れたいと思って、先に持ってきたよ」

「ありがとうございます。では、三本だけいただきます」

「三本でいいの?」

「初ものはね、多すぎると香りがぼやけます」

「さすがおし乃さん。わかってる」

忠吉は大げさにうなずいて、筍を手渡してくれた。殻のなかに残る土の香りが、朝の空気に溶けていく。

「味噌で煮るのかい?」

「いいえ。今日はあっさり、出汁で含めます。塩と酒だけで」

「なるほど、粋だねぇ。じゃあ、その味を想像しながら、今日一日頑張るよ」

「がんばってください。体を使ったあとに効く味にしておきますから」

「楽しみにしてるよ」

忠吉が帰ると、良太が釜のそばまで来て、私の手元をじっと見つめていた。

「……それ、筍ですよね?」

「ええ。皮ごと煮ます。あくが出ますから、それを取りながら、ゆっくりと柔らかくするんです」

「筍って、こうして使うのか……初めて見ました」

「旬のものは、火に預ける時間が一番大切です。急いではいけません」

「じゃあ、俺、あく取りします」

「任せられますか?」

「はい」

良太に鍋を任せている間に、私は糠と鷹の爪を出して、別の鍋を支度した。筍は炊く前に一度、ぬかで煮る。それが基本。下ごしらえの音だけが台所に響き、私は火加減と泡の音で、頃合いを読む。

「……泡が、変わってきた気がします」

「鋭いですね。最初の泡はとんがっていて、後の泡は丸くなります」

「面白い……音が違う」

「鍋の音を覚えれば、目を使わずとも味が見えます」

「すごい……本当に料理って、五感全部使うんですね」

「いえ、六感です。心で、最後を決める」

良太は目を丸くして頷いた。その顔を見ながら、私は心のなかで、またひとつ手を渡せたと思った。

外では、町の音がだんだんと賑やかになってきた。表通りを走る駕籠の足音、豆腐屋の木鉦の音、遠くからは祭りの準備か、笛の音がかすかに聞こえる。

「……今日は、祭りですか?」

「ええ。富岡八幡の月次祭です」

「行きますか?」

「行きません。うちは飯屋です。人の腹が空くときに、ここを開けておかなくては」

「じゃあ……俺、夜まで残っていいですか? 昼を出し終えたら、少しだけ様子見に行って、戻ってきます。屋台の味を見てきたいんです」

「味を?」

「はい。あっちには、早くて派手な味がある。それがわかれば、ここの静かな味の意味も、もっとちゃんとわかる気がして」

「……面白い考え方ですね。では、行ってきてください」

「ありがとうございます」

その時、ちょうど戸が開いた。入ってきたのは、普段は来ない客だった。背が高く、体は痩せているが、着物の襟元だけがやけに立派だった。

「ここが……やわらぎ亭か」

「いらっしゃいませ」

男は辺りをぐるりと見回し、炊き場や囲炉裏の様子までじっくり見た。何かを計っているような目だった。

「食事を。あっさりしたものを頼みたい」

「かしこまりました。筍の煮物と、切り干し大根の炊き合わせ。あと、白飯に味噌汁でよろしいですか?」

「うむ。それで」

私は小鉢を取り出し、筍を切る。さっき下ゆでしたばかりのそれは、包丁の入りがすこぶる良かった。香りを逃さないよう、切り口は少しだけ斜めにする。

男は黙って膳を受け取り、箸を取った。ひと口、筍を含んでから、箸を止める。

「……なるほど」

「何か、お気づきでしたか?」

「いや……ただ、思ったより“濃い”味だった」

「塩と酒だけです」

「それで、この香りか……」

良太が隅で立ち止まって聞いていた。男の目が、ちらりと良太に向いた。

「そこの彼、料理人か?」

「まだ、見習いです」

「見習い……にしては、手の動きが整っている」

「飯を食べてくれる人を見ているからです」

男は箸を置き、手拭で口を拭った。

「良い店だ。……静かなのがいい。味も、香りも」

「ありがとうございます」

「また来よう。……今度は、誰かを連れてくる」

男はそう言って、去っていった。名前も名乗らず、目的も曖昧なまま。けれど、こういう客のあとには、何かが変わることが多い。

良太がそっと口を開いた。

「……あの人、なんだったんでしょうか」

「客です。ただ、それだけです」

「でも、何か……ただの人じゃないような」

「どんな人であれ、飯を食べに来た時点で、うちでは“ただの人”です」

「なるほど……」

良太が呟きながら、囲炉裏の火を見つめた。その横顔が、いつのまにか、“店の人間”の顔をしていた。私はまた、火の加減を見て、釜の蓋を開けた。湯気が高く立ち上がり、次の一膳の支度を始めるだけだった。
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