1 / 5
*
しおりを挟む
憤慨している時の怒りの大きさは、長いため息とも、強い鼻息ともとれる、空気が漏れる音の程度で測れる。今、話をしているワタシは、鼻が鳴るくらいの鼻息を発しているはずだから、相当なレベルだ。
「それでなんて言ったと思う?」
焦らす必要はまったくなく、話したくてたまらないというのに、鼻息とともに出て来たのは質問だった。
「なんて言われたの?」
ワタシの勢いに気圧されることなく、ゆったりとした間合いの後に、カノジョは問い返した。ワタシは大きく息を吸い込んで答える。
「チームなんだから当たり前だろう、って」
「ああ……、それはムカッとくるね」
「わかる?」
「わかるよ」
「まったく、なにがチームよ。ワタシがおじいちゃん役員に、どうしてクリップアートはなくなっちゃったんだ、すぐに戻せ、なんて理不尽なことを怒られて放してもらえなくなっていても助け出そうとすらしてくれないのに、都合のいいときばっかり力を貸せとか言っちゃってさ」
思い出すと余計に腹が立つ。
第一、あんなデータ入力、せいぜい一日、見直しに一日、念のため二度目の確認をしたって三日でできるだろうに。それを一週間も寝かせちゃって、挙句、期限に間に合わないとか、アンタは入社何年目の先輩の社員だったっけ、って訊いてやりたいくらいだ。
ああ、腹が立つ。自分でもわかるくらいに強い鼻息がこぼれ出て鼻が鳴った。
「たいへんだったね」
カノジョは言葉は少ないのに、いたわりや優しさがたっぷり含まれているとわかる口調で言った。
「ありがとう。そう言ってもらえると癒される」
目頭がじんとなるくらい、本当に嬉しい言葉だった。
「それはよかった。それにしてもあなた、ここの店、ほんと好きだよね」
「うん、好き」
さりげなく楽しい話題にリードしてくれたのだとわかって、これもまた嬉しい。そんなカノジョとのランチが楽しいのはあたりまえだ。
普段の昼休みは自席でお弁当を食べることが多い。ビルの休憩室でササッと食べて戻ることもある。いずれにせよ、電話番も兼ねなければならないような、つまらないランチタイムが続くのだ。たまに外で食べるときくらい、好きなところで好きなものを好きなだけ、美味しく食べたい。
この店のランチは、店自慢の大皿のサラダにパスタかピザと飲み放題のオーガニックドリンクがついて、ちょうど千円。すこぶる美味しいときている。おまけに、テーブルとテーブルのあいだがゆったりしていて、窮屈な感じがしない。白い空間にオレンジや黄色や緑の、かわいらしいイスの背もたれがちりばめられ、ところどころにポップな陶器の小物がさりげなくディスプレイされていたりして、北欧の香りがする。それなのに場所がらゆえか、昼時でも入れなくなるくらいに混むことはない。大きな窓から柔らかい光の射す店内は、一人でランチを楽しむ人や待ち合わせらしき人たちで適度に席が埋まり、ゆったりと時間が流れていくのが見えるようだ。
ここはカノジョと出会う前からのワタシのお気に入りの店だった。会社の誰にも教えたくはない店だったけれど、カノジョならば、と連れて来て、以来、月に一度はここでのランチを共にしている。
おなじ会社で働く人ではあったけれど単にそれだけの間柄というのではなく、カノジョのことは友達だと思っていた。
大人になると友だちを作るのが難しくなる。人づきあいの範囲が広がり、知り合いはかなり増えるけれど、知り合いは知り合いだ。友達となると難しい。
一緒に働いたり、会えば言葉を交わし、ときには飲みに行ったりすることもあるけれど、仕事を抜かしてもつきあえるかどうか、個人的なことを話してもかまわないか、一歩踏み込むことも踏み込まれることも許せるか、そういうハードルを越え、友だちとなれるのはまれなことだった。
そしてむしろ友だちは減る。学生ではなくなり、恋人を、家庭を持ち、環境が変わり、だいじなものが変わり。それはお互いさまだった。いつのまにか連絡を取り合う回数は減り、音信不通となる。連絡を取ろうと思えば、関係を続けたいと努力すれば、減ることなどないのかもしれないけれど、なかなかそうはいかず、気付いたときにはもう減ってしまっていて、友達はほとんどいなくなっていた。
だからといって友だちができないわけではない。難しいだけだ。カノジョとの出会いがまさにそれで、カノジョとワタシはここ数年のつきあいになる。
どうして受けなければならないのかわからない社外研修に出掛けたことがあった。社で一日最低一人の出席が義務付けられていたというのを理由に、体よく受講を押し付けられた気がして、納得できずに参加をした。
やけに白い光の点いた、広さのわりに暖房が効きすぎた会議室にはマイクを通して話す講師の抑揚のない声だけが響いていた。業務とも結びつかず、興味もない、宗教にも似た精神論の講和が続く。質疑応答もディスカッションもない、とわかっていて真剣に話を聞く人はどれくらいいるのだろう。そんなふうに研修の流れに疑問を持つ以外に、ワタシの頭に浮かぶことはない。
午前中だけで妙に疲れ、眠気すら隠せなくなるであろう午後に憂鬱を募らせていた昼休憩のトイレの洗面所で、ワタシはカノジョに話しかけられた。
「こんな研修、疲れるだけよね、大丈夫?」
確かそんな感じの言葉だったと思う。とっさに返事ができずにいたワタシに、
「こういうのは鈴木さんとか、田口さんとか、時間の有り余ってる人に参加させて欲しいよね」
カノジョは社内でも屈指の給料泥棒の名前をあげて笑った。
おなじ会社の人は来ていないと思っていたから驚いた。そしてワタシも、まさにおなじことを思っていたから。
今にして思えば、時間にしてほんの1、2分の会話で、なぜかカノジョには気を許してしまったのだと思う。小さな同意と類似の化学反応が、人間関係の土台を急速構築した。
「それでなんて言ったと思う?」
焦らす必要はまったくなく、話したくてたまらないというのに、鼻息とともに出て来たのは質問だった。
「なんて言われたの?」
ワタシの勢いに気圧されることなく、ゆったりとした間合いの後に、カノジョは問い返した。ワタシは大きく息を吸い込んで答える。
「チームなんだから当たり前だろう、って」
「ああ……、それはムカッとくるね」
「わかる?」
「わかるよ」
「まったく、なにがチームよ。ワタシがおじいちゃん役員に、どうしてクリップアートはなくなっちゃったんだ、すぐに戻せ、なんて理不尽なことを怒られて放してもらえなくなっていても助け出そうとすらしてくれないのに、都合のいいときばっかり力を貸せとか言っちゃってさ」
思い出すと余計に腹が立つ。
第一、あんなデータ入力、せいぜい一日、見直しに一日、念のため二度目の確認をしたって三日でできるだろうに。それを一週間も寝かせちゃって、挙句、期限に間に合わないとか、アンタは入社何年目の先輩の社員だったっけ、って訊いてやりたいくらいだ。
ああ、腹が立つ。自分でもわかるくらいに強い鼻息がこぼれ出て鼻が鳴った。
「たいへんだったね」
カノジョは言葉は少ないのに、いたわりや優しさがたっぷり含まれているとわかる口調で言った。
「ありがとう。そう言ってもらえると癒される」
目頭がじんとなるくらい、本当に嬉しい言葉だった。
「それはよかった。それにしてもあなた、ここの店、ほんと好きだよね」
「うん、好き」
さりげなく楽しい話題にリードしてくれたのだとわかって、これもまた嬉しい。そんなカノジョとのランチが楽しいのはあたりまえだ。
普段の昼休みは自席でお弁当を食べることが多い。ビルの休憩室でササッと食べて戻ることもある。いずれにせよ、電話番も兼ねなければならないような、つまらないランチタイムが続くのだ。たまに外で食べるときくらい、好きなところで好きなものを好きなだけ、美味しく食べたい。
この店のランチは、店自慢の大皿のサラダにパスタかピザと飲み放題のオーガニックドリンクがついて、ちょうど千円。すこぶる美味しいときている。おまけに、テーブルとテーブルのあいだがゆったりしていて、窮屈な感じがしない。白い空間にオレンジや黄色や緑の、かわいらしいイスの背もたれがちりばめられ、ところどころにポップな陶器の小物がさりげなくディスプレイされていたりして、北欧の香りがする。それなのに場所がらゆえか、昼時でも入れなくなるくらいに混むことはない。大きな窓から柔らかい光の射す店内は、一人でランチを楽しむ人や待ち合わせらしき人たちで適度に席が埋まり、ゆったりと時間が流れていくのが見えるようだ。
ここはカノジョと出会う前からのワタシのお気に入りの店だった。会社の誰にも教えたくはない店だったけれど、カノジョならば、と連れて来て、以来、月に一度はここでのランチを共にしている。
おなじ会社で働く人ではあったけれど単にそれだけの間柄というのではなく、カノジョのことは友達だと思っていた。
大人になると友だちを作るのが難しくなる。人づきあいの範囲が広がり、知り合いはかなり増えるけれど、知り合いは知り合いだ。友達となると難しい。
一緒に働いたり、会えば言葉を交わし、ときには飲みに行ったりすることもあるけれど、仕事を抜かしてもつきあえるかどうか、個人的なことを話してもかまわないか、一歩踏み込むことも踏み込まれることも許せるか、そういうハードルを越え、友だちとなれるのはまれなことだった。
そしてむしろ友だちは減る。学生ではなくなり、恋人を、家庭を持ち、環境が変わり、だいじなものが変わり。それはお互いさまだった。いつのまにか連絡を取り合う回数は減り、音信不通となる。連絡を取ろうと思えば、関係を続けたいと努力すれば、減ることなどないのかもしれないけれど、なかなかそうはいかず、気付いたときにはもう減ってしまっていて、友達はほとんどいなくなっていた。
だからといって友だちができないわけではない。難しいだけだ。カノジョとの出会いがまさにそれで、カノジョとワタシはここ数年のつきあいになる。
どうして受けなければならないのかわからない社外研修に出掛けたことがあった。社で一日最低一人の出席が義務付けられていたというのを理由に、体よく受講を押し付けられた気がして、納得できずに参加をした。
やけに白い光の点いた、広さのわりに暖房が効きすぎた会議室にはマイクを通して話す講師の抑揚のない声だけが響いていた。業務とも結びつかず、興味もない、宗教にも似た精神論の講和が続く。質疑応答もディスカッションもない、とわかっていて真剣に話を聞く人はどれくらいいるのだろう。そんなふうに研修の流れに疑問を持つ以外に、ワタシの頭に浮かぶことはない。
午前中だけで妙に疲れ、眠気すら隠せなくなるであろう午後に憂鬱を募らせていた昼休憩のトイレの洗面所で、ワタシはカノジョに話しかけられた。
「こんな研修、疲れるだけよね、大丈夫?」
確かそんな感じの言葉だったと思う。とっさに返事ができずにいたワタシに、
「こういうのは鈴木さんとか、田口さんとか、時間の有り余ってる人に参加させて欲しいよね」
カノジョは社内でも屈指の給料泥棒の名前をあげて笑った。
おなじ会社の人は来ていないと思っていたから驚いた。そしてワタシも、まさにおなじことを思っていたから。
今にして思えば、時間にしてほんの1、2分の会話で、なぜかカノジョには気を許してしまったのだと思う。小さな同意と類似の化学反応が、人間関係の土台を急速構築した。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる