奇妙な短編

岸根リョウ

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鳥頭のカズユキくん

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 カズユキくんは鳥頭だ。3歩歩いたら全て忘れてしまう。

 初めて会ったとき、彼は忘れてはいけないこと、両親や自分の名前なんかを書いたしわくちゃになってかすれたメモを手のひらに大事そうに握っていた。迷子になったらしい彼を交番に届けようにも歩かせなくてはいけなくて、3歩ごとに自分は誰か、私は誰か、今何をしているのかを説明した。たいそう骨が折れた。歩かせなければいいのかとおぶってみても、結局私が3歩歩いたら彼はちゃんと記憶をなくした。察するに、歩くごとに周りの景色や温度や匂いに強烈な興味を持って、全てを情報として受容する脳らしく、その情報を記憶として保持していられるのがせいぜい3歩分くらいなのだ。コンピュータに例えれば処理能力は高いが容量が雀の涙ほどしかないといったところか。

 幸い血相を変えてカズユキくんを探していた彼の両親に道中出くわし、無事カズユキくんを引き渡して私の苦労も終わった。しかし数日後、また迷子になっているカズユキくんを見つけてしまった。どうやら自分の記憶量を理解していないので、好奇心の赴くままに出歩いては記憶をなくしているようだ。ある種哀れみのようなものを感じた。前回のことでカズユキくんの家のだいたいの場所は分かっていたので、カズユキくんをおぶって歩いた。もう説明するのもめんどくさくて黙って歩いたが、別段カズユキくんはパニックを起こしたり怖がったりはせず、大人しく色んなものを感受しては記憶をなくしていた。この子はこの先どうして生きていくんだろう、そんなことを考えた。

 数年後、近所のスーパーで偶然カズユキくんの両親に再会した。彼らは私のことを覚えていた。その後カズユキくんはどうしているか尋ねると、彼らの家に招かれた。家に入ると同時に、強烈な悪臭が鼻を突いた。う、と声を漏らすと、「すみません、動かせないもので。」と彼の両親が言った。カズユキくんの部屋だと案内された狭い洋室に入ると、その言葉の意味が理解できた。

 最低限の情報しか得られない環境にカズユキくんを置けば、彼は記憶を無くさずに済むのだ。つまり全く刺激を与えずに彼の容量を超えないようにすれば、彼はいつまでも同じ記憶を保持していられる。

 洋室の真ん中に、目隠しと耳栓をしたカズユキくんが仰向けになっていた。勝手に歩き回らないようにか、手と足の親指同士を結束バンドで止められていた。どうやらおむつをあてられているようだが、収まりきらなかったらしいものたちがカズユキくんの近くに散らばっていた。なるほど、情報を与えないとはこういうことか。せいぜい匂いしか分からないであろう彼は、起き上がるか寝ているかしか出来ないから、容量内に収まる程度の記憶しか持っていない。知らない何かが身の回りの世話をしているらしいこと、自分は動けないらしいこと、それだけ覚えてここまで生きてきたのだ。

 呆気に取られている私をよそに、彼の両親は手分けして部屋を掃除してカズユキくんのおむつをかえた。カズユキくんは何も言わなかった。その光景は凄惨とも言えるほど私には衝撃的で、人権、という言葉が絶えず頭をよぎっていた。

 「ああするしかなかったんです。」

 居間でお茶をだしてくれた彼の母親が言った。あの光景を見たあとでは、お茶すら喉を通らなかった。

 「カズユキは大きくなっていくけど、私たちは年老いていくだけ……いつの日かあの子を探しにも行けなくなる。そうなったらあの子はどうなってしまうかと思うと、あれもあの子のためなんです。」

 そう言うだろうと思った。あれはおよそ人間としての尊厳を認めているとは言えない扱いだ。そしてこの両親はそれに気がついているが、あれ以外の解決策が思いつかなかったのだろう。あの子のためだと自分たちに言い聞かせていなければ、とても我が子にできる仕打ちではない。それは私にも分かった。

 「もうどれくらい、ああしているんですか。」

 意を決して尋ねると、「5年くらいです。」と答えられた。

 5年。5年間カズユキくんは身動きせずに何も見えず聞こえない状態で、食事は勝手に口からいれられ、出すものはそのまま垂れ流しでいるのか。何より一番恐ろしいのは、本当に彼は5年分の記憶を持っているのかということだ。一度ああして情報をシャットアウトしてしまうと、おそらく目隠しをとっただけでもそれまでの記憶を失うほどの情報量に達するはずだ。つまり、5年間同じ記憶を持ち続けているのかすら、もう確かめる術はないのだ。ひょっとするとカズユキくんは、今も数分ごとに記憶を失い続けているかもしれないし、知らぬ間に突然変異かなんかで鳥頭ではなくなっているかもしれない。その場合の方が、両親にとっては恐ろしいだろう。なぜならそれは、何一つ彼のためになっていないのに、彼の自由を奪い続けていたことになるからだ。しかし彼は何も喋らず、起きあがったり寝転がったりしかしない。彼が何らかの学習を得てそれを繰り返してでもいなければ、客観的に見て同じ記憶を保持し続けているという判断はできない。思ったより話は複雑なようだ。

 トイレをお借りします、と言って居間を出た。階段を上がり、悪臭の漂う二階を進む。カズユキくんの部屋のドアを開けると、さっきと何も変わらず彼は横たわったままだった。これでは生死の判別すらつかない。以前会った時より、少しだけ体つきが変わっていることに気がついた。それで彼の将来を思わずにはいられなかった。彼はこの先どうなってしまうのだろう。彼は今の状態をどう感じているんだろう。居た堪れず踵を返そうとした時、背後に彼の両親が立っているのに気がついた。

 「何をなさってるんですか?」

 彼の両親は真っ黒な目を私に向けてそう言った。背筋がぞくりとした。彼らは自分たちのしていることが非難されることを恐れて5年間生きてきたが、同時に誰かに責められた方が気が楽だったのかもしれない。お前は間違っていると、誰かがそう言ってくれれば、考えを改める機会も、公然と言い訳をする機会も与えられたのだ。しかし現実にはそんな機会はなく、彼らは思考停止のまま、臭いものに蓋をするような形で家族という集団を維持してきた。いまさら部外者が何を言っても、もう遅いのだと悟った。

 「ねえ」

 不意に誰かがそう言った。私は咄嗟には誰の声だか分からなかった。しかし向かい合っている私たちは誰一人口を開いていない。彼の両親は私より先に気がついたらしく、目を見開いてカズユキくんを見つめていた。私もカズユキくんを振り返った。今のは、カズユキくんの声だ。

 「お母さんたち、何でこんなこと、するの?」

 カズユキくんの口が動いてそう言った。私は未だ彼が喋った事実についていけずにいた。しかし彼の両親はただちに泣き崩れた。

 「ずっと聞こえてるよ。」

 耳栓は意味をなしていなかったらしい。スポンジ製のものらしく、たしかに遮音性はあまりなさそうだと思ったが。彼の言う「ずっと」は、この5年間を指しているのだろうか。とすれば彼は、5年間同じ記憶を保持していたのか。耳栓が役に立っていなかったのに、出来たのか。視界を奪うだけでも、情報量の大部分はカットできていたということか。とにかく彼は両親の存在と、少なくとも長期間自分が受けている扱いを理解し、覚えていたらしい。それなら彼の両親がしてきたことは、少なからず彼の為になっていたかもしれない。

 「カズユキ!」

 彼の両親は駆け寄って彼を抱きしめた。床には未だ汚物が散らばっていたが、そんなことに構っている場合ではないようだ。両親は泣きながら、カズユキくんに向かって謝罪しはじめた。5年間自由を奪ったこと、不衛生な環境に置いたこと、なにより人としての尊厳を奪うような扱いをしたこと。彼らは号泣しながらカズユキくんの結束バンドを切断し、耳栓と目隠しを外した。カズユキくんの言葉は猛烈に両親の罪悪感を刺激したらしかった。

 目隠しを外されたカズユキくんは、眩しそうに目を細めたあと部屋中を見渡した。自分に縋り付いて泣いている両親を見て、怪訝な顔をした。そこで両親たちより先に私は悟った。ああ、やってしまったと思った。それはそうなるよなと思った。そしてカズユキくんが口を開いた。

 「誰?」


 数ヶ月後、私はまた迷子になっているカズユキくんを見つけた。手を引いて彼の家まで連れて行ってやった。カズユキくんは何も言わずに着いてきた。新しくなったらしいメモをやはり大事そうに握っていて、道中何度か見返していた。

 笑顔で家に入っていくカズユキくんと彼の両親を見て、私はどこか虚しさを感じた。あの5年間は、もうすっかり無かったことにされてしまったらしい。

 
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