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第7夜(前編)
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半年前、僕は離婚して、10年間の結婚生活は幕を下ろした。
「部長、頼まれていた資料を作成しておきました。確認して頂いて、何かあれば仰ってください。それから次の会議で必要になりそうな補足資料をまとめておきましたので、こちらもよろしければご一読ください。」
離婚が決まった日、直前まで一緒にいた直属の部下である彼女と、僕はたった一度だけ一線を越えた。彼女はあの時以来例外なく、今でも何事もなかったかのような態度を一貫している。
「助かる、ありがとう。両方とも休憩前には確認しておくよ。」
ただの上司と部下。彼女が何を思ってあの時僕と夜を共にしたのか、今でもわからない。
「先輩、今日ランチご一緒してもいいですか?」
書類を置いて僕の席から離れた彼女に、すかさず声をかける今年の新入社員。どうやら彼女に好意を寄せているらしく、アプローチをかけているようだった。
「私に合わせていたら、休憩を取り損ねますよ。」
が、そのアプローチは彼女によって見事に玉砕され、しゅん・・・と項垂れている。最近ではこれに似た一連のやり取りが、この部署の日課となっていた。
「じゃあ、今日上がったら飲みにいきましょう!それだったら、定時で上がって一緒にいけますよね?」
いつもは項垂れて諦めるのに、今日はやけに食い下がっている。ふいに、別れた妻に言われた、早く捕まえないと誰かに取られるわよ、という言葉を思い出した。
「・・・はい、そこまで。今は業務時間中だし、プライベートなお誘いは時間外にしなさい。」
彼の近くまで行き、やんわりと静止をかける。そんな僕に一瞬瞳を揺らした彼女と、慌てて、すみません、と素直に謝る彼。
「わかってくれればいいよ。」
そういって彼に微笑んで、デスクに戻ろうと踵を返す。が、あぁそうだ、と思い出したように振り返って。
「今日は彼女、僕との先約があるから誘うならまたの機会にしてくれるかな?」
驚いて僕を見る2人に、苦笑いを零す。それもそのはず、実際は先約なんてしていないわけで。彼はもちろん、彼女だって寝耳に水だろう。
「・・・冗談、ただの残業だよ。」
「なんだ、残業ですか。やだなぁ、部長・・・驚かせないでくださいよ~!」
そういって彼は、今日のところは諦めるので今度是非ご飯行きましょうね!と彼女に声をかけて、そのまま、書類出しに行ってきます、と部署を出て行った。
「・・・残業なんて、聞いてません。」
困ったように僕を見る彼女に、肩を竦めて、ごめん、と一言。
「君が困っているように見えたから、つい。」
余計なお世話だったかな、と苦笑する僕。
「・・・悪い人ではないこともわかってはいるんでんすが・・・助かりました、ありがとうございます。」
少しきまりが悪そうな彼女を見て、珍しい姿だなと心のなかで小さく笑った。
「いや・・・、こういうのも上司の務めだからね。」
その言葉に、彼女の瞳がまた微かに揺れて、首を傾げる。でも彼女はすぐに何もなかったみたいに、じゃあ今日は少しだけ残業していきますね、と微笑んで。
「何かお手伝いできることがあれば仰ってください。」
いつもどおりの調子でそう言い残して、彼女はデスクに戻って行った。
‐ ‐ ‐ ‐ ‐
「終わりそうかい?」
19時。定時より1時間ほど残業をしてくれた彼女に、いつかのように声をかける。
「今印刷をかけているので、それを部長が確認してくだされば。」
僕の声に振り返った彼女が、座ったまま僕を見上げて。無意識であろうその上目遣いに、ぐっ、と喉が鳴る。それを悟らせないようにひとつ咳払いをして、何事もないように言葉を返した。
「そうか。・・・たまには一緒に食事でもどうだい?」
うちの部署は僕と彼女を入れて5人で成り立っていて。そのうちの1人は新入社員の彼、あとの2人は子育て中の時短社員だ。年に1回忘年会兼新年会として部署のみんなで飲みに行くことあっても、僕がこうして彼女を食事に誘うことは一度もなかった。
「いや・・・これじゃあセクハラになるかな・・・?」
驚いたように目を見開いた彼女に、少しだけ怖気づいて、思わず弱腰になってしまう。
「いえ、・・・是非ご一緒させてください。」
半年前のあの一件があるまでは、彼女が終電を逃せば上司として最寄りのコンビニまで車で送っていたけれど、あれ以来彼女は何かと理由をつけて、タクシーで帰るようになっていた。だからこそ、彼女のその返事は意外で。
「あ、あぁ・・・じゃあすぐ書類の確認をしてくるよ。」
少し狼狽えてしまった僕を気にも留めず、お願いします、と彼女が微笑んだ。
「・・・よし。流石だね、完璧だ。」
「ありがとうございます。」
帰り支度をして、じゃあ行こうか、と彼女に声をかける。
「はい。」
こうして彼女と2人で駐車場に向かうのも久々だな、とぼんやり思いながら、車に向かって。助手席に回ってドアを開ければ、彼女がお礼を言って車に乗り込んだ。
「何系が食べたい?」
運転席に乗り込んで、エンジンをかけながら彼女に聞く。
「・・・どこか部長のおすすめのお店ってありますか?」
少し考えてから、遠慮がちに彼女が口を開いて。僕はいくつか候補を思い浮かべて、そのうちのひとつを提案した。
「そうだなぁ・・・じゃあイタリアンとかどうだい?」
いいですね、と彼女。
「行ってみたいです。」
じゃあそうしよう、と車を走らせて、着いた先はこじんまりとした一軒家。この隠れ家のようなイタリアンは、僕のお気に入りだった。
「わ、お洒落なお店ですね。」
案内された席に、彼女をエスコートする。
「たまに、ひとりで来るんだ。」
そういえばここに誰かを連れてきたのは初めてだな、とぼんやり考えて。意識を目の前の彼女に戻した。
「折角の金曜日だし、アルコール頼んでもいいよ?」
「いえ・・・私だけ、というのは申し訳ないので・・・そうだ、ノンアルコールのシャンパンにしませんか?」
変わらず律儀な彼女に小さく笑って。君がいいならそうしようか、とノンアルコールのシャンパンのほかに、ピザやアヒージョ、チーズの盛り合わせなどをいくつか注文する。
「美味しそう・・・。」
お待たせしました、とすぐに運ばれてきたシャンパンとチーズの盛り合わせ。それぞれグラスを手にして、乾杯、とグラスを軽く合わせた。
「部長、最近社内で人気急上昇してますよ。」
他愛のない話で談笑しながら料理を堪能して、デザートを待っているとき、おもむろに彼女が口を開いた。
「半年前から、指輪、外されてるじゃないですか。」
首を傾げた僕に、彼女が控え目な声で言葉を続ける。
「それまでももちろん人気はあったんですけど・・・」
そうして口淀む彼女に、あぁ、と思い至る。
「僕が独身になったから、か。・・・いやでも僕、結構なオジサンだよ?もうすぐ43歳になるし。」
そう言って笑えば、彼女も曖昧に笑って。そんなことないですよ、と一言。そこへ丁度デザートが運ばれてきて、その話は打ち切られた。
「すみません・・・ごちそうさまでした。」
「いいのいいの、上司に奢られるのも部下の務めだよ。」
食事を終えて彼女が化粧室に行っている間に会計を済ませておいた僕に、戻ってきた彼女は慌てて自分の分を払おうとしてきていたのだけれど。ここは僕にかっこつけさせてよ、と笑えば、彼女は渋々引き下がってくれた。
「・・・あの、お礼にコーヒーでもどうですか?」
彼女のマンションについて、じゃあ、と言いかけた僕を、彼女はいつかのような緊張した面持ちで自室へと誘った。
「部長、頼まれていた資料を作成しておきました。確認して頂いて、何かあれば仰ってください。それから次の会議で必要になりそうな補足資料をまとめておきましたので、こちらもよろしければご一読ください。」
離婚が決まった日、直前まで一緒にいた直属の部下である彼女と、僕はたった一度だけ一線を越えた。彼女はあの時以来例外なく、今でも何事もなかったかのような態度を一貫している。
「助かる、ありがとう。両方とも休憩前には確認しておくよ。」
ただの上司と部下。彼女が何を思ってあの時僕と夜を共にしたのか、今でもわからない。
「先輩、今日ランチご一緒してもいいですか?」
書類を置いて僕の席から離れた彼女に、すかさず声をかける今年の新入社員。どうやら彼女に好意を寄せているらしく、アプローチをかけているようだった。
「私に合わせていたら、休憩を取り損ねますよ。」
が、そのアプローチは彼女によって見事に玉砕され、しゅん・・・と項垂れている。最近ではこれに似た一連のやり取りが、この部署の日課となっていた。
「じゃあ、今日上がったら飲みにいきましょう!それだったら、定時で上がって一緒にいけますよね?」
いつもは項垂れて諦めるのに、今日はやけに食い下がっている。ふいに、別れた妻に言われた、早く捕まえないと誰かに取られるわよ、という言葉を思い出した。
「・・・はい、そこまで。今は業務時間中だし、プライベートなお誘いは時間外にしなさい。」
彼の近くまで行き、やんわりと静止をかける。そんな僕に一瞬瞳を揺らした彼女と、慌てて、すみません、と素直に謝る彼。
「わかってくれればいいよ。」
そういって彼に微笑んで、デスクに戻ろうと踵を返す。が、あぁそうだ、と思い出したように振り返って。
「今日は彼女、僕との先約があるから誘うならまたの機会にしてくれるかな?」
驚いて僕を見る2人に、苦笑いを零す。それもそのはず、実際は先約なんてしていないわけで。彼はもちろん、彼女だって寝耳に水だろう。
「・・・冗談、ただの残業だよ。」
「なんだ、残業ですか。やだなぁ、部長・・・驚かせないでくださいよ~!」
そういって彼は、今日のところは諦めるので今度是非ご飯行きましょうね!と彼女に声をかけて、そのまま、書類出しに行ってきます、と部署を出て行った。
「・・・残業なんて、聞いてません。」
困ったように僕を見る彼女に、肩を竦めて、ごめん、と一言。
「君が困っているように見えたから、つい。」
余計なお世話だったかな、と苦笑する僕。
「・・・悪い人ではないこともわかってはいるんでんすが・・・助かりました、ありがとうございます。」
少しきまりが悪そうな彼女を見て、珍しい姿だなと心のなかで小さく笑った。
「いや・・・、こういうのも上司の務めだからね。」
その言葉に、彼女の瞳がまた微かに揺れて、首を傾げる。でも彼女はすぐに何もなかったみたいに、じゃあ今日は少しだけ残業していきますね、と微笑んで。
「何かお手伝いできることがあれば仰ってください。」
いつもどおりの調子でそう言い残して、彼女はデスクに戻って行った。
‐ ‐ ‐ ‐ ‐
「終わりそうかい?」
19時。定時より1時間ほど残業をしてくれた彼女に、いつかのように声をかける。
「今印刷をかけているので、それを部長が確認してくだされば。」
僕の声に振り返った彼女が、座ったまま僕を見上げて。無意識であろうその上目遣いに、ぐっ、と喉が鳴る。それを悟らせないようにひとつ咳払いをして、何事もないように言葉を返した。
「そうか。・・・たまには一緒に食事でもどうだい?」
うちの部署は僕と彼女を入れて5人で成り立っていて。そのうちの1人は新入社員の彼、あとの2人は子育て中の時短社員だ。年に1回忘年会兼新年会として部署のみんなで飲みに行くことあっても、僕がこうして彼女を食事に誘うことは一度もなかった。
「いや・・・これじゃあセクハラになるかな・・・?」
驚いたように目を見開いた彼女に、少しだけ怖気づいて、思わず弱腰になってしまう。
「いえ、・・・是非ご一緒させてください。」
半年前のあの一件があるまでは、彼女が終電を逃せば上司として最寄りのコンビニまで車で送っていたけれど、あれ以来彼女は何かと理由をつけて、タクシーで帰るようになっていた。だからこそ、彼女のその返事は意外で。
「あ、あぁ・・・じゃあすぐ書類の確認をしてくるよ。」
少し狼狽えてしまった僕を気にも留めず、お願いします、と彼女が微笑んだ。
「・・・よし。流石だね、完璧だ。」
「ありがとうございます。」
帰り支度をして、じゃあ行こうか、と彼女に声をかける。
「はい。」
こうして彼女と2人で駐車場に向かうのも久々だな、とぼんやり思いながら、車に向かって。助手席に回ってドアを開ければ、彼女がお礼を言って車に乗り込んだ。
「何系が食べたい?」
運転席に乗り込んで、エンジンをかけながら彼女に聞く。
「・・・どこか部長のおすすめのお店ってありますか?」
少し考えてから、遠慮がちに彼女が口を開いて。僕はいくつか候補を思い浮かべて、そのうちのひとつを提案した。
「そうだなぁ・・・じゃあイタリアンとかどうだい?」
いいですね、と彼女。
「行ってみたいです。」
じゃあそうしよう、と車を走らせて、着いた先はこじんまりとした一軒家。この隠れ家のようなイタリアンは、僕のお気に入りだった。
「わ、お洒落なお店ですね。」
案内された席に、彼女をエスコートする。
「たまに、ひとりで来るんだ。」
そういえばここに誰かを連れてきたのは初めてだな、とぼんやり考えて。意識を目の前の彼女に戻した。
「折角の金曜日だし、アルコール頼んでもいいよ?」
「いえ・・・私だけ、というのは申し訳ないので・・・そうだ、ノンアルコールのシャンパンにしませんか?」
変わらず律儀な彼女に小さく笑って。君がいいならそうしようか、とノンアルコールのシャンパンのほかに、ピザやアヒージョ、チーズの盛り合わせなどをいくつか注文する。
「美味しそう・・・。」
お待たせしました、とすぐに運ばれてきたシャンパンとチーズの盛り合わせ。それぞれグラスを手にして、乾杯、とグラスを軽く合わせた。
「部長、最近社内で人気急上昇してますよ。」
他愛のない話で談笑しながら料理を堪能して、デザートを待っているとき、おもむろに彼女が口を開いた。
「半年前から、指輪、外されてるじゃないですか。」
首を傾げた僕に、彼女が控え目な声で言葉を続ける。
「それまでももちろん人気はあったんですけど・・・」
そうして口淀む彼女に、あぁ、と思い至る。
「僕が独身になったから、か。・・・いやでも僕、結構なオジサンだよ?もうすぐ43歳になるし。」
そう言って笑えば、彼女も曖昧に笑って。そんなことないですよ、と一言。そこへ丁度デザートが運ばれてきて、その話は打ち切られた。
「すみません・・・ごちそうさまでした。」
「いいのいいの、上司に奢られるのも部下の務めだよ。」
食事を終えて彼女が化粧室に行っている間に会計を済ませておいた僕に、戻ってきた彼女は慌てて自分の分を払おうとしてきていたのだけれど。ここは僕にかっこつけさせてよ、と笑えば、彼女は渋々引き下がってくれた。
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