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第七章
シャルロッテ王女という人
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第7章 シャルロッテ王女という人
「いい気持ち~美味しいのね。ローゼリアの赤ワイン最高!」
侍女のアデル、もとい本物のシャルロッテは盃を重ねる。
「いい加減にしないと。明日も仕事があるんでしょ。侍女に朝寝坊は許されないわよ」
「そうね。ここじゃあなたが王女さまでわたくしは使用人だから、ご命令には従わなくてはね」と言って、彼女は笑顔になった。
お姫さまと言ってもまだ若い女の子だ。位の高い人間ほど、気さくで、親しみやすいとも聞いたことがあるし、彼女も、こんなふうに馬好きの仲間たちと冗談を言って笑うこともあったのだろう。
「ねえ、一つ聞きたいんだけど」
とわたしが言うと
「よくってよ、一つでも二つでも好きなだけご質問をどうぞ」と彼女はこたえた。
こうしてくつろいでいる彼女を見ると、悪い人ではないのはわかる。やっぱり「世間知らず」という言葉に集約されるとしか言いようがない。
なんだか、すっかり友だちになった気分になるのが不思議だ。
年の近い女の子、というだけで、母親のような年齢のエリン頼みだったわたしの生活に日が射したようにさえ感じる。
「ねえ、あなた、あんな男のどこがよかったの?あのドクター」
「今となっては苦い思い出なのだけれど・・・長い話になるけど、聞いてくださる?」
「もちろん。深い事情を知りたくて質問したのだし、話が長くなるのはむしろ大歓迎よ」
「ありがとう」
「それにしても、今回のローゼリア訪問にも国王夫妻が、あの医者を同行させているのはなぜなのかしら?過去の 二人のいきさつを考えれば、他の医師を連れてくるべきなのに。いったいどうして?」
わたしが疑問を口にすると
「王宮の人たちは皆、国王の一人娘を死の淵から生還させた名医と思い込んでいるんだもの。彼が今回の同行を申し出れば拒否できるわけはないわ」
と、本物のシャルロッテは言った。
「先代の陛下、つまりわたくしの祖父が一命を取りとめたのも彼のお陰だし」
「おじいさまを助けた、って言うけど、そもそも、お倒れになったのは、あなたとその侍医のせいなんだけど」
と、わたしが言うと
「言葉を遮らないでちょうだい」
彼女は言い返した。
「わかったわよ。どうぞ続けて」
「彼は、当然ながら、わたくしの健康管理もしてくれていたわ。ある朝、彼が聴診器を当ててわたくしの胸の音を聞いていたの。それは毎朝の習慣みたいなものだったの。けれどね」
彼女はワインのおかわりを自分で注いで
「その朝、突然、それが恥ずかしくてたまらなくなったの。お医者さまとは言え、男性に胸を見られていることが。十三になったばかりだったわ」
「それくらいの年頃になれば、体も変化するし、異性に見られて恥じらうのは普通のことよ。その時のドキドキをどうして恋と勘違いしたの?バカなの?」
とわたしは思わず、きつい言い方をしてしまった。
わたしと彼女との間にしばらく沈黙が下りた。
「ごめんなさい。バカだなんて失礼なことを言ってしまって」
「いいの。あなたがわたくしをバカだと思うのは仕方のないことよ。でもね。今となっては愚かな行為と思えることでも、当時のわたくし自身には理由があったの。彼を必要だと感じた理由が。あのとき、わたくしが恥ずかしがっていることにライヒナムは気づいて」
「それで?」
「はだけたガウンを寄せたわたしに、『もう着ていただいていいですよ』と言ったの。その声を聞いたら急に涙があふれてきて」
「あなたが泣いたのはわかるわ。わたしも両親がいなくなってから、時々、急に涙があふれて止まらないことがあったから」
「ありがとう。あのとき、ライヒナムはわたくしに、お母さまを亡くされて悲しいでしょう。我慢は不要です。お泣きなさい。そう言って彼はわたくしを抱きしめて、腕の中で泣かせてくれたの。人前で声をあげて泣いたのは、たぶんそのときが初めてだったと思うわ。お母さまがいなくなってから初めて」
シャルロッテはそう言った。
「それは本来、父親の役割よね。娘の心に寄り添うのは父親であるべきだったってこと。そのことに庶民も国王もないわよ」
わたしはため息をつくと同時に、怒りを覚えた。いたいけな少女の悲しみを包み込むようなふりをしながら、心の中では野心の道具にしようと企んでいたであろうライヒナムという男に。
「わたくし、お葬式でも泣かなかったのよ。世界中の王族や政府の要人が弔いに来ていたし、心のままに涙を流してはいけないと思ったの」
「亡き母を思って涙を流す王女に、批判的な参列者なんていないでしょう。みんな人の子よ」
わたしが言うと、彼女は静かに首を振って
「見送る時くらい、お母さまの望むわたしでいたかったのよ。お母さまはいつも『王女は常に毅然としていなさい』っておっしゃっていたから。優しい方だったけれど、公私のけじめには厳しくて」
母を亡くした人間の悲しさ、母の愛情と支えを失った子供の心細さに身分の貴賤はないはずなのに。人前で泣かなかった彼女には幼いながらも王女としての矜持があったのだ。涙で浄化される感情だってあるのに、心を抑えねばならなかったとは。
「よく頑張ったわよ、あなた」
彼女にかける言葉も思いつかず、月並みなことしか言えなかった。
「ありがとう。あなたに、身勝手なことをしたわたくしを褒めてくれるのね」
「ねえ、今はわかるでしょう?ドクターに本当の愛情なんてなかったことが。王妃の姪と婚約していながら、この国の皇太子妃になる予定のシャルロッテに抱きつくような男よ。卑怯な言い訳てんこ盛りでね」
「そうね。今ならわかるわ。でもあのときは、彼の腕の中にいたかったのよ。抱きしめてずっと背中を撫でて欲しかったの」
彼女は、グラスにワインを注ぎ足した。
「お姫さまなのに、わたしに注げっていわないのね」とわたしが笑うと
「ド・ブロア夫人の下で侍女をやってきたんですもの。労働がどれほどたいへんで、気遣いがどれほど疲れるか、わたくしも学んだわ。同時に自分が今までどれだけわがままだったかもわかったつもりよ。人々の献身をごく当然だと思っていたことを申し訳なく思っていてよ。今では」
と明るく言って
「気遣い、って言えばね」
彼女は話を続ける
「あのとき一緒にいたナースが、わたくしがドクターに抱きしめられて泣いたことを医務局の上司に言ったみたい。翌日からわたしの担当医は女性になったの」
と言った。
「急すぎる侍医の変更に、あなた、意地になったんじゃない?」
とわたしが水を向けると
「そうよ。わたくしと彼を引き離すなんて、と激しい怒りが湧いたわ。わたくしを受け止めてくれるたった一人の人と、もう会えなくなるなんて、そのことが耐えられなかったのよ。だから彼と結婚したいって言ったわ」
「また会いたい、が、どうして結婚したい、になったのよ。ほんとわからないわ」
「あの頃のわたくしは、彼に会いたいっていう気持ちを、そのまま『愛』だと思い込んでしまったわ。愛しているなら結婚しなくては、と、そう思ったの。結婚すればずっと一緒にいられると・・・当然ながら誰も許してはくれなかったわ。年齢のこともそうだけど、王家の第一王女が爵位もない侍医と結婚するなんて」
「そうでしょうね。誰だって反対すると思うわ。でもまあ十三歳のあなたとすぐどうこうではなくて、とりあえず十八歳まで待つと言ったのはドクターもある程度の良識があったってことかしらね」
(仮に当時すでに彼女が十八だったとしても、年の差が離れすぎているのは同じだし、とんだエロジジイだとわたしは思うけど)
今夜はワインが進む。彼女も同様でまたグラスを空にしていた。
「毎朝やってくる女性医師や、ナースたちにたずねても誰も彼がどうしているか教えてはくれなかったの。わたくしたちは会えなくなったのよ。そのことが日を重ねるにつれてつらくてたまらなくなって。それがある時、彼にばったり会ったの。図書室に本を探しに言ったときのことだったわ。書庫におりたら、彼の銀色の髪が目に入ったの。彼も気づいてくれて・・・」
「会いたかったーって言って、互いに駆け寄り、ひしと抱き合ったってわけ?」
わたしが茶化すも彼女は笑わなかった。
「そうよ。彼は言ったわ。愛は身分の隔たりも年の差も越えられるって。わたくしが成人したら、親の合意はいらなくなるから二人は結婚できるって。わたくしが十八になったら、あらためてプロポーズするからイエスと言ってほしいと、彼は言ってくれたわ。成人に達すれば、貴族院の議決より、王位継承権を持つわたくしの決意のほうが優先されるとも、そのとき聞いたわ。近い将来、晴れて一緒になろうって。だから、今日からは王女と侍医じゃなくて、シャルロッテとクラウスだって、そう言われたの」
「愛読していたロマンス小説そのままね。身分の違う男と、愛を誓ったお姫様の話。エリンが本を見せてくれたわよ。『二人の旅立ち』だったっけ」
わたしが言うと
「そう、それよ。物語と同じことが、このわたくしに起こるなんて、って、あの頃とっても幸せだったのよ」
「物語に出てきた男も、姫の命を救った年上のご典医だったわね」
わたしはため息をつく。
彼女は我に返ることなく
「そうよ。愛は身分も年の差も越えられるっていうお話よ」
と、目に星を入れてキラキラさせたままわたしを見た。
(思えば、あの本を見せたのも、エリン、いえ、国王夫妻の賭けだったのかもしれないわ。ご典医と姫の恋物語を読んでもライヒナムを思い出さなかったから、隣国との縁談を再び検討できたのよね、きっと)
「身分も年齢差も越えようってことは、二人で一緒に生きようって話でしょ?それが、どうして天国で会おう、になるの?あの本、わたしも退屈しのぎに読ませてもらったけど、ちゃんと恋を貫いてハッピーエンドになったじゃない。ご典医は王配殿下の称号など欲しがらなくて、姫が王女の位を捨てたラストだったはずよ。それがどうして、死んであの世で一緒になろう、なんて極東の浄瑠璃みたいな考えになったのよ」
「ジョールリって何?」
「極東の芸能の一つよ。三味線や和太鼓で奏でられる音楽に合わせて、人形を動かすの。すごい技術がいるのよ。世界一の人形劇だと思うわ」
「人形劇って子供相手の?」
「違うわよ。大人の鑑賞にも耐え得る芸術なの」
そこから、わたしは浄瑠璃の話を始めた。一つの人形を操るのに三人必要なこと。右手に一人、左手に一人、そして下半身を動かすのに一人。黒子と呼ばれる人形の使い手の動きで、人形に魂が宿るのだ。
「女性の人形が、手で顔を覆っただけで、涙を拭っているように見えるのよ」
わたしの説明に、シャルロッテは、コク、コクと何度も首を縦に振っていた。
真剣に相手の言葉に耳を傾けている姿を見て、ああ、彼女のこういうところに野心家の男は付け込んだのだ、と手に取るように理解できた。
「でね、わたしは『曽根崎心中』を見たのだけれど、これはこの世では結ばれることを許されぬ男女があの世で一緒になろう、と、ともに死を選ぶ話なの。極東も昔は、身分差のある二人が結ばれることが許されなかったから。わたし、高校の課外授業でこの演目を見て、すっかり感動しちゃって」
人形浄瑠璃の魅力についてもっと深く語りたいのに、的確な言葉が出てこず、自分が見た時の感動をうまく彼女に伝えられないのがもどかしい。こういう時、自分の教養の無さ、知識の薄っぺらさ、表現する言語能力の乏しさ、に 失望させられる。
他国の人と話すときは、相手の国の文化に精通することよりもむしろ、自分の祖国の国情や歴史、文化について深く知っていなければならないということが身に滲みてわかる。自国をアピールする力、というのは国際親善に不可欠なのだ。やっぱり自分には王女は無理だ、とあらためて思った。
「見てみたいわ。浄瑠璃を。あなたが言う世界一の人形劇というものを」
「あなたは、王族だから望めば可能なはずよ。極東国を訪問するのも、極東から演者を招くのも」
「洋の東西を問わず、身分違いの恋を成就させたい願いは一緒なのね」と、彼女はうっとりしてから
「わたくしと彼は、ともに天の国で幸せになろう、なんて話はしなかったわ。むしろ、わたくしは両親や周囲の人たちに二人の関係を認めさせたかったのよ」
「だったら、なおさら慎重にならなきゃ。いきなり結婚したい、なんて勇み足にも程があるわ」
「あなたの言うとおりよ。わたくしが夕食会で焦った発言をしたばかりに、王宮は大混乱で・・・それに担当医が変更になってから、わたくしは彼と会えなくなってしまって・・・ずっと一緒にいたいと思って『結婚』という言葉を出したのに、裏目に出てしまったことを悔いたわ」
「二度と会えなくなってしまったことで、想いに火がついたのね。いきなりの担当医変更のせいで、あなたは彼のことしか考えられなくなった、そういうことね」
彼女は、こっくりとうなずいて
「だから、書庫で会えた時とっても嬉しかったの。書庫で、彼と話している時、わたしは幸せだったわ。母を忘れ去ったかのように継母と楽しげに話している父への不満や、産油国から贈られた金色の馬のこと、わたしの話を彼はにこにこしながら聞いてくれたの。こんなふうに、やっと、書庫という秘密の場所を見つけたと喜んだのも束の間、二人で密かに話していたつもりでも、わたくしには監視の目が光っていたのよ」
(王族が密かに自分の時間を持てるはずないじゃないの。この人と言い、リシャールと言い、誰にも監視されていない秘密の時間があるなんて、どうして思えるのかしら)
と、わたしは思ったが、言葉にはしなかった。
見えない人間を「いない」と考えないと、王女も王子もやってられないのかもしれない。ずっと監視されているなんて思ったら、誰だって頭がおかしくなる。脳内で人を消す、のは王族の精神的自己防衛なのだろう。そういう思考が出来る二人、リシャールとシャルロッテはお似合いだな、とわたしは思った。
「あのね、あなたとドクターの動向には、城中の家臣たちが目を光らせていたはずよ。だから、むしろ書庫で二人が会ったこと自体が罠みたいなものだと思うわ。あなたがずっと彼を思い続けて、こそこそと人目を避けて会い、二人で過ごしていたことは、すぐに側近たち周知の事実になったはずよ」
と言ってから
「それにしても、誰にもわからないように連絡を取る方法を、あのお医者さんは思いつかなかったのね。あなたたち二人の間に入って連絡係になってくれるような味方もいなかったようだし、私室を貸してくれるような使用人もいなかったんでしょう」
「ええ、この恋に関しては二人の味方は誰もいなかったわ、あなたの言う通りよ。ある朝、法務大臣がわたくしの部屋にやってきて、ライヒナムは王室の侍医を辞めて、王宮を去ったと告げられたわ。実質は解雇だと言うことだったけれど、そこは情けをかけて退職金をはずんでやったと、そう言ったの。王女に対する邪心は、反逆罪に値する、投獄か辞職かどちらかを選べ、と大臣は迫ったそうよ」
言葉を切って、彼女はぐっと唇を噛んだ。
「そんなに悲しそうな顔をすることないじゃない。わたしが男で、本気で王女を愛したのなら、むしろ投獄を選ぶ わ。逃げ出すなんてあり得ない。あの男にしてみれば、王女と結婚できず、罪人扱いされるなら、王宮にいても仕方ない、ってところかしら。だから退職金を上乗せしてもらって、王宮から出て行くことを選んだんでしょう。結局のところ保身しかないのよ」
「まあまあ。そこまで言わなくても」
王女は笑みを浮かべた。どこか寂しそうな笑いだった。
「で、最後の情け、ということで、法務大臣は彼からの手紙を渡してくれたわ。そこには『罪人として獄に繋がれるくらいなら、自らの手で命を断つ』と書いてあったわ。そして、『あなたは命をまっとうして幸福になって欲しい。いつか天国で会おう。そしてそのときは添い遂げよう』って書いてあったの。そして翌日、彼の遺体がサントロワ湖で見つかったって聞いて」
「その後のあなたは絶望して、馬から落ちて天国と言うわけね」
「まあ、そういうことではあるのだけれど。ただ、すぐに後追いを考えたわけじゃなくて、彼が死んだと聞かされた直後は、むしろ呆然としていただけ。実感がなくて何をする気にもならなかったの・・・それに、わたくし自身が葬儀に出たわけでもないし」
彼女は言葉を切って、ワインを飲んだ。
「わたしに彼のことを諦めさせるために周囲が嘘を言っているかもしれないって不信感を持ってもいたのよ。死んだと言えば、忘れて立ち直るしかないと考えて・・・だから、わたくし、最初は彼の死を否定しつづけていたのよ。でも、一年二年と年が過ぎていくたびに、もし彼が生きていたら、絶対に何らかの手段で連絡をくれるはずだと考えるようになったわ。彼は絶対にわたしを一人にしないって信じていたのよ、で、ある日、ああ彼はもういないんだ、って、思えるようになったわ。それを認めるのに五年かかったけれど」
「実際にはドクターは生きていたんでしょう?王宮を辞しても医者なら食べていけるものね。黙って出て行けばいいのに、法務大臣とやらに手紙を持たせるとか、いずれは天国で添い遂げようか、芝居くさいやつだわ。ほんと、徐瑠璃みたいなことマジでやってどうするのよ。そもそもよ、医師であるあの男が、溺死なんて苦しい死に方を選ぶと思う?眠るように楽に死ねる薬だって、簡単に手に入るはずよ」
「あの頃のわたくしは、今のあなたみたいには思えなかったわ。職を追われた彼がかわいそうで、王室侍医の地位を剥奪され、そのうえ反逆者の汚名を着せられて王宮から追放されたなんて、わたくしのために悲しい最期を迎えたことを思うたびに胸が痛んだのよ。彼がどんな気持ちで湖の底へ沈んでいったのかと考えると、いても立ってもいられなくて・・・ずっと後悔していたわ。なにもかも、わたくしのわがままのせいですもの」
「彼の野心に利用された、とは考えもしなかったのね」
と、わたしは言ってから、アーモンドを口の中へ放り込んでガリガリと音をたてて噛んだ。
「ウエディングドレスが入らなくなるから、あまりナッツやチーズを食べないでちょうだい」
と、さらに、おつまみにパクついているわたしの手を押さえて彼女は笑った。
「美しさを保つのも、王女としての立派な仕事よ。今のスタイルを崩すようなことはやめてね。それから、お茶のたびに食べているチョコレート菓子もニキビの原因だから控えてくださる?」 と言った。好きなものを好きなだけ食べて「ちょっと太っちゃった(テヘペロ)」は庶民の特権だったのか。
「いきなり彼と結婚したいなんて言わずに、時を待てばよかったのよ。成人したら王位継承者であるあなたの意思に異議を唱える者などいなくなるんでしょ?法にのっとって解決するのが一番だったのに。国王と王妃でさえも成人したあなたの選択に心で反対はしても、法的にはどうにもできなかったはずよ」
「そうなの。親族の夕食会で唐突にライヒナムと結婚したい、なんて言う前に、よく考えるべきだったわ」
彼女は憂い顔になった。その時々の感情が顔色に出る、その素直さは彼女の長所だろうとわたしは思う。でも、王族の一員としてはどうだろうか。側近たちはそんな彼女の素直さを欠点と見ていたのかもしれない。だからこそ、彼女の亡き母親は、「常に毅然としていなさい」と躾けたような気がした。
「わたくしってね、とても面倒な立場と言うか、今までは自分の置かれた地位を理解しようとは思わなかったんだけど・・・使用人の立場を経験して見えてきたものがあって。ずっと王女のままだったら何もわからなかった、って思うのよ。あなたに体を譲って侍女の立場になって見えてきたものもあるの」
「それはわたしも同じよ。お姫さまだなんて柄にもない立場になって、いろいろ大変だったんだから」
とわたしが言うと
「まあ、あなたもそうなのね」
と彼女は、明るい表情になった。
「そりゃそうよ。目覚めたら『姫』って呼ばれるとはね。ほんと、びっくりしたわ。まさか自分が王女として生きることになるなんて」
彼女が侍女と言っているアデルでさえ王宮に出入りを許された貴族令嬢なのだ。極東の一庶民のわたしにとってはアデルも雲の上の人である。
「聞いてくださる?わたくしのやることって、他の人たちにとって、とても影響力があるんだってことを、わたくしやっと知ったのよ」
(何を今さら・・・)
と思いはしたが、わたしは彼女の言葉を遮ることなく耳を傾けようと思った。
「この前の落馬もそうなのだけれど、わたくしが落ちたら馬を扱う人たちが責任を問われるし、現に、ノワールだって処分が決まってしまったわ。ノワールが犠牲になると聞くまで、わたくしは自分の行動の余波で他の人たちにどれだけ迷惑がかかるか、なんて考えたこともなかったわ。あなたが、ノワールの命を助けてくれたと知った時、どれだけ嬉しかったか。ありがとう」
(お気に入りの馬の命が危機にさらされるまで、気がつかなかったということに、むしろ、こっちはドン引きなんだけど)
と思いつつも
「もういいのよ。そんなに自分を責めないで。自分のしでかしたことの大きさや、他人にかけた迷惑に一生気がつかない人も世の中にはたくさんいるわ。あなた反省するだけえらいわよ」
と、いたわってあげた。おいしいワインのお陰で機嫌がよかったせいでもあるが。
「ううん、わたくしを褒めて甘やかしちゃだめよ。誰一人知る人もいない世界で、どれほどあなたが戸惑ったか。ほんとうに申し訳ないわ」
と言うと、涙をこぼした。
「いいのよ。何もわからなくて困惑したのは事実だけど、姫さま、って呼ばれて、みんなから丁重な態度で接してもらえて、きれいなドレスを着て、高級なお料理をいただいて・・・悪いことばかりじゃなかったわ」
わたしはそう言って、彼女の涙を拭いた。
「ありがとう、優しいのね。あなた」
と言ってから、「そういえば・・・ずっとお名前も聞かなくてごめんなさい。今さらだけど教えていただけて?」と頭を下げた。
「田中凛子って言います。浄瑠璃の話でわかったと思うけど、極東人よ。あなたが生きるこの時代よりほんの少し未来の人間なの」
わたしが言うと、リンコと呼んでいいかと、彼女はたずねてから
「あなたのほうが本物の王女みたい。自信があって堂々としていて。両親や養育係の人たちは、きっとわたくしに今のあなたのようになってほしかったのね。わたくしの代わりに、ローゼリアへ来てくれたのが、リンコ、あなたで、本当によかったわ」と言った。
「こっちは目が覚めてから、驚きの連続よ。ご両親、とくに、父上のほうは、娘のことは使用人にまかせっきりで、お見舞いにもこないんだもの。こんなに冷たい親っているんだ、ってわたしは戸惑ったわ。無事を確認したら、結婚話を勧めるのも、庶民のわたしの目からみると無茶苦茶よ。だけど、あなたの意識が戻らないときは、なりふりかまわずライヒナムを復職させて、主治医にしていたから、やっぱり娘が可愛かったんでしょうね」
「もうだめだ、と思って、父は、せめて最後をライヒナムに看取らせようとしたんじゃないかしら」
「呼ばれてすぐに来たなんて、更迭されて姿を消したはずのドクターをずっと見張って、居場所も知っていた人が王宮内にいるってことよね。どこにも逃げられないって怖いわ。隠密みたいな人が暗躍してる世界。魑魅魍魎っていうのね。こういうの」
宮廷ドラマを思い出してわたしは言うと、沈みきった顔をしている彼女に向かって声をかけた。
「ねえ、この先どうする?あなた自身の魂をあなたの体に戻すべきだと思うんだけど」
「死ぬってことかしら?わたくしたち二人とも、もう一度」
「この前みたいに、スッと天国へ行ければいいんだけど・・・」
「そうね。わたくしも、プールに落ちた侍女の体を本人にそろそろ返したくはあるのですけど」
と、庭のほうを見て言った。
本人の意識がここにあるのに、このまま彼女の体にわたしの魂が入ったままでいいはずはない。
わたしは
「この体はあなたのものなのよ」
と言ったが、本物のシャルロッテのほうは
「わたくしは、まだしばらく今のままで大丈夫よ。あなたのほうが姫と呼ばれるにふさわしいもの。いつも落ち着いていて、まわりの人を気遣っていて、決して人を困らせるようなことはしないわ。本物より本物っぽいプリンセス、それはリンコよ」
そう言ったあとで、彼女はわたしの顔をまじまじと見つめて
「それにしても、わたくしって本当に美人だったのねえ」
と実感をこめて言った。
そして、うっとりとこちらを見つめている。その様子がかわいらしくて笑みがこみあげる。彼女には、自分の本来の肉体に戻らなくてはという焦りがないみたいだ。
「ずっとこのままというわけにはいかないわ。結婚式まであっという間、にわかプリンセスの化けの皮が剥がれるのは時間の問題よ」
わたしが言うと
「フィアンセのリシャール殿下は、見た目も中身も立派な良い方でしてよ。リンコ、あなたは、彼と一緒になればいいの。きっと幸福になれてよ。わたくしには今さら、その体と王女の人生を返してほしいなどと言う気持ちはありません」と、こともなげに言った。
「即位式のときに一緒に踊っただけのリシャール皇太子の人間性がどうしてわかるの?男を見る目のないあなたが彼の人間性を受け合うなんて、悪い冗談だわ」
「あのね、ド・ブロア夫人がなぜ姿を見せないかおわかり?」
と、彼女はわたしを見つめてきた。
「あなたがド・ブロア夫人に『あなたを認めません。わたくしは国へ帰ります』って言った夜のこと覚えてて?あのあと、皇太子さまのご両親、リシャール二世陛下と皇后さま、それに皇太子殿下のお三方から呼ばれて、ド・ブロア夫人はあなたに対する印象を聞かれていたわ。ド・ブロア夫人があなたのことを良い方と言うはずはないわよね」
「そりゃそうでしょう。当然、わたしの悪口を言ったでしょうね。わたしには破談になってもいいという気持ちがあったから、相当、強気で言ったもの」
「その強気の発言が彼女を怒らせたのよ。生意気だとか、ローゼリアのしきたりに従う謙虚さが全くないとか、皇太子さまのためになるお相手ではないと言っていたわ。婚約を解消して、シャルロッテ王女を隣国に送り返すべきとまで言っていたの。ほんと腹立たしい女よ。それを皇帝皇后両陛下は黙ってお聞きになられた・・・お二人がどう思われていたのか胸の内はわからないけど、聞くだけ聞いて夫人を下がらせたの。夫人のあとについてわたくしも部屋を出ようとした時、わたくしに、皇太子殿下が残るように言われて、先ほどの夫人の話は真実かとご下問があったの」
「なんて答えたの?」
「ド・ブロア夫人は明らかに失礼だったと言ったわ。でもシャルロッテ王女は言い返したりせず、ドーチェから一緒に来た侍女のエリンを返してくれと言われただけです、って、わたくしはそう言ったのよ。リシャール皇太子殿下は、よく話してくれた、とおっしゃって。ご自分もシャルロッテ王女を信じていたと、そう仰せになったの。そして、あらためてド・ブロア夫人を呼ばれると、侍女長からの降格をお告げになったわ。その毅然としたお姿に、わたくし・・・」と頬を赤らめたあと
「皇太子リシャール殿下は素晴らしい方だわ」
と言った。
わたしには、リシャール殿下の人間性など今さらどうでもよかったので、話題を変えることにした。
「そもそもどうして、エリンを洗濯場で働かせるようなことをしたのよ。彼女はシャロッテ王女の側近、つまり、この国の未来の皇太子妃の側近なのよ」
「ああ、あれはしきたりよ」
「しきたり?」
「ええ。花嫁側は、母国の側近を大勢連れて来ない、婚礼馬車を守る警護隊は、ローゼリアから派遣する、っていうのがしきたりなの。お妃の出身地の影響を極力排除してきた歴史のせいね。王族の姫だろうが、大貴族の娘だろうが、この国の皇室に母国や実家のやり方を持ち込まないというのがルールになっているの。身一つで嫁いで、ローゼリアに染まること。今回の婚儀にあたってもそれが踏襲されているってこと」
「だから、馬車一台と侍女一人で来る羽目になったのね。婚礼馬車というにはお粗末だったわよ。お尻が痛かったし」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?このしきたりは、別にあなたのせいじゃないわ」
「でも、その馬車に乗って移動する羽目になったのは、わたくしのせいですもの」
「もういいわよ。済んだことだし」
とわたしは言ってから
「じゃあ、シャルロッテ王女は、しきたりどおりにこの国へ来たにすぎないじゃない。なのに、侍女一人がお供とか、護衛もローゼリアから差し向けたとか、蔑んだような言い方をしてたわよ。あの女」
と怒りをこめて、ド・ブロア夫人を「あの女」と呼んだ。
「この縁談にまつわるしきたりを、姫がちゃんと理解して、この国に染まる覚悟があるかを試したのではないかしら。それなのに、あなたが本気で言い返したりするから、面食らったと思うわよ。ド・ブロアさん」
本物のシャルロッテは笑っていた。ホホホ、という軽やかで柔らかい笑い声は、わたしには何年かかっても習得できそうにない。
「じ、じゃあ、エリンを洗濯場でコキ使った件はどうなのよ?」
たじろいで、うわずった声で言い返す自分が情けない。
「ああ、そのことね」
と彼女は、またも笑顔になって
「ある日、庭園を散歩していた皇后が落としたハンカチを、嫁となる姫が拾って、それをお付きの侍女に渡したの。格下の洗濯係に渡さず、王女の首席侍女みずからが手洗いしてお持ちした故事に由来するのよ。属国は永久に皇国の配下として尽くします、という忠誠のあらわれね」
「知らなかったわ」
「この大陸の王家に生まれた姫なら、知っていて当然のことだから、あなたにわざわざ説明する人はいなかったってことかしら」
「ひどいわよ。頭を打って記憶を失くしているはずの王女を、フォローなしで他国に送り出すなんて」
「事細かに説明するより、送り届けてしまえば何とかなる、って思ったのではないかしら?エリンも付いていることだし」
「そのエリンがいなくなって、こっちはパニックだったんですけど」
わたしが言うと、本物のシャルロッテは
「エリンを返して、ってド・ブロア夫人を怒らなくも、もともと戻ってくる手筈だったのに、ね」
と言って微笑んだ。
「それよ・・・まずいことをしたわ。どうしよう」
「今さら、なによ」
と、本物のシャルロッテは笑った。
「それに、あなたが怒ったのは当然でしてよ。しきたりどおりなら、洗うハンカチは一枚のはず。エリンに何枚ものハンカチを手洗いさせたなんて、完全なイジメだわ。ド・ブロア夫人の性格の悪さを知って、わたくしも驚いたもの」
「だから庇ってくれたのね。わたしが不快をあらわにして、国に帰ると言ったことは伝えずに」
とわたしが言うと
「わたくしは、ずっと、あなたの味方よ。わたくしの無茶なお願いを聞いて、ここまで来てくれて、ドーチェの名誉を傷つけるどころか、立派に姫として過ごしてくれて・・・どれだけ感謝しているか」
「ちっとも立派じゃないわよ。いきなり侍女長のド・ブロア夫人とやりあっちゃってさ」
「あの人には、一度、きちんと叱る人間が必要だったわ。そういうことも含めて、あなたが王女として立派だと、わたくしは言っているのよ」
彼女は、ここまで言って
「わたくし、侍女も楽しんでいてよ。王宮の裏話をいろいろ聞けたし。ずいぶん馴染んでしまって、少し下世話になってしまった気もするけれど、物事の表面しか知らなかったお姫さまの時代とは違う自分になれたわ。髪を梳くのもうまくなったし」
そう言って笑うと「使用人の本音って面白いわよ」と、わたしの耳元であることを囁いた。
「えっ?それ本当なの?ド・ブロア夫人が収賄って・・・」
「シーッ。声が高いわ」
「宮中では、壁に耳あり、だったわね」
わたしが言うと、彼女は、そっと目くばせしてくる。
「出入りの商人からの献上品を自分で持って帰ったり、皇帝皇后両陛下に取り次いであげると言って、怪しげな成金から多額のお金を受け取ったり・・・」
「でもそれは噂でしょう?」
「良くない噂が立つような人には、きちんと釘を刺しておかないといけないわ。だから、リシャール殿下は、両陛下のお耳に入る前にド・ブロア夫人を更迭なさったのよ。ド・ブロア夫人は古い家柄の貴族ですもの。皇帝から処罰の勅命が下るという不名誉が起きる前に、皇太子の配慮で侍女長を辞めるだけで済んだなんて、運が良かったわ。彼女はむしろ殿下に感謝しなければならないわね」と言った。
「それで、だったのね。エリンが翌日帰ってきてくれて、ド・ブロア夫人が姿を見せなくなったのは」
「ね、リシャール殿下って良い方でしょ?」
「そうかしら。わたしの職場にもいたわよ、オバサンには冷たくて、若い女の言うことは全部信じる男が」
「ああ言えばこう言う・・・あなたって、素直じゃないわねえ。リシャール殿下のこと信じられないのはどうしてなの?」
「リシャール殿下を信じていない、というわけじゃないわ。ただ、人は上に立つほど、下の者の現状が見えにくくなるものよ。側近の『ご注進』ってやつだけを鵜吞みにすると、とんでもないことになるってこと。それは歴史が証明しているわ。ド・ブロア夫人はいけ好かない女だけど、賄賂の噂が本当だったかどうか、言い分を聞いてやってもよかった気がするけどね」とわたしが言っても、彼女はそれには耳を貸さず、
「良い方よ。妃となる女性は自分が守る、って、殿下はきっと心に決めておられるのよ。それに証拠もないのに侍女長を罷免されたわけではないと思うわ。側近に命じて夫人の身辺を調べるくらいのことはされていたはずよ」
と、うっとりとした表情になった。
(この人、惚れっぽいんだ・・・たった一度、話を聞いてもらっただけで、今度はリシャール殿下に夢中とは)
彼女がこの性格で庶民だったら、いろんな男と次から次へと面倒ごとを起こして、親や、友人、同僚など、周囲の人間に迷惑をかけるタイプだったかもしれない。
それにしても、女のわたしの目から見ると、近寄り難い美しさ、神々しささえ感じるのに、男の人はそんな感じを受けてないのが意外だ。図々しく抱きついた侍医と言い、子作りしましょうの皇太子と言い、侵しがたいこの美貌の前に少しはひれ伏せ、と思ったが、たぶん彼女の内面の危うさが、わかる男にはわかるのだろう。
こういう人は、周囲の人々の助言を聞いて動ける、高貴な立場が一番生きやすいのかもしれない。自分で何かを決めたり、行動したりするのは危なっかしすぎる。
「本物さん、あなたがこの体に戻って、リシャール殿下と結婚すれば万事うまくいくじゃないの。彼のこと素敵だと思ってるなら、そうしましょうよ」
わたしの言葉に、彼女は首を、大きく左右に振った。
「ダメよ、そんなこと。強引に頼んであなたに自分の体に入ってもらっておきながら、わたくしが今さらその体に戻って殿下と結婚するなんて、あまりにも自分勝手だわ。あなたのお陰でライヒナムの本性にも気づけたし、ドーチェ現王妃のことも、真実がわかったのに」
「現王妃、って何なの?ちゃんと、お母さまとおっしゃいませ。お・ひ・め・さ・ま」
とわたしは笑った。
照れて「母」と呼べない彼女が可愛かったのもあるし、わたしを天国から引き戻して自分の体に入れたことも深く反省しているようだから、許してあげてもいいかもしれない。
「そうね。お母さまね」
と、彼女は小さな声でつぶやいたあとで
「でも、ダメよ。あなたが納得してくれていても、わたくしが今さらその体に戻るなんて・・・それに」
「それに?」
とわたしが問うと、魂だけがうまく抜け出して、肉体のダメージが回復可能な「絶妙な死に方」なんて、どうすればいいのかわからない、と彼女は言った。
「自分の一方的なわがままで、あなたの魂に入ってもらったんですもの。今になって体を返せなんて、そんな身勝手なお願いできなくってよ。だいいち、リンコ、あなただって、リシャール皇太子のことを愛しているんでしょう?」
と言うと、今度は急に涙目になった。そして、両手で顔を覆って声を押し殺している様子を、わたしはかける言葉もなく見ていた。
「ああ、あの方の美しい黒髪に触れたい。でもわたくしにはそれが許されないのですわ」
とため息とともに彼女は言った。
(この人、許されない愛、ってのに燃えるタイプなんだ。でしょうね、ライヒナムのときだって周囲の反対のお陰で、かえって想いが強くなった、って言ってたし)
やっかいな性格だな、と思いつつも、
「あのね、わたし、別に殿下のこと好きじゃないから。いえ、むしろ、苦手なタイプと言うか、とにかく結婚なんて無理すぎると思ってるくらいだし」
とちゃんと伝えた。それなのに彼女は涙を流し続けて
「そんな嘘、いけないわ。わたくしをかわいそうに思って心にもないことを言ったりして。そんな気遣いなど必要なくってよ。あの方に惹かれない女性なんているものですか。わたくしを哀れまないでちょうだい」
その思い込みの激しさにあきれ返って、慰めの言葉をかける気にもなれない。そんなわたしに、本物の王女は言った。
「殿下の黒髪、ノワールと同じ。真っ黒でとっても美しいわ。それにあなたも。門に立っていたとき、美しい黒髪の女性だな、って思ってあなたに決めたのですもの」
(まさかの黒髪フェチ?こんなことで、わたしの運命が変わったなんて)
全身から力が抜けた。
「アデル、もう寝るから部屋に戻ってちょうだい」
主人風を吹かせてそう言ってみた。
「お隣で寝ていいかしら?長い廊下を歩いて、使用人棟へ戻るのが面倒なの」
「いいわよ。このベッド広すぎるくらい広いから」
「ねえ、お父さまの即位式のとき、あなた、リシャール殿下に会ったのでしょう?そのときに好きにならなかったの?今みたいに」
そう聞いたわたしに彼女は返事をせず、急にガバっと起き上がって
「とにかくね、ここで生き残るには、ド・ブロア夫人よりも殿下付きの爺やさんに気に入られることよ。彼は優しいお爺ちゃんに見えるけど、今の陛下にも帝王学を授け、皇帝に何かあればリシャール殿下を補佐して国務に関わることの出来る唯一の人なのよ。皇帝の親せきの公爵たちを刺激しないために、爵位は敢えて伯爵どまりになっているらしいわ」
「そうなんだ。まさか、殿下のお世話係に、そういう逸話があったとは」
「宮廷の人間模様なんか、全く関心ないんでしょ?リンコってば・・・爺やさんは、ご自分の出自をとても誇りに思われているの。代々皇帝に仕えてきた古い家柄ですもの。だから、ちゃんと家名で呼んであげて。ドーチェ王女がそうしたら感動されると思うわ。仲良くなって、六百年前に手柄を立てたご先祖さまの自慢を聞いてあげるのよ。さあ、今から特訓しましょ。リンコ起きて」
本物のシャルロッテに、寝入りばなの気持ち良いところを起こされ、わたしはぼんやりとした頭で、彼女が言う爺やさんの長い家名を明け方まで繰り返させられた。
「いい気持ち~美味しいのね。ローゼリアの赤ワイン最高!」
侍女のアデル、もとい本物のシャルロッテは盃を重ねる。
「いい加減にしないと。明日も仕事があるんでしょ。侍女に朝寝坊は許されないわよ」
「そうね。ここじゃあなたが王女さまでわたくしは使用人だから、ご命令には従わなくてはね」と言って、彼女は笑顔になった。
お姫さまと言ってもまだ若い女の子だ。位の高い人間ほど、気さくで、親しみやすいとも聞いたことがあるし、彼女も、こんなふうに馬好きの仲間たちと冗談を言って笑うこともあったのだろう。
「ねえ、一つ聞きたいんだけど」
とわたしが言うと
「よくってよ、一つでも二つでも好きなだけご質問をどうぞ」と彼女はこたえた。
こうしてくつろいでいる彼女を見ると、悪い人ではないのはわかる。やっぱり「世間知らず」という言葉に集約されるとしか言いようがない。
なんだか、すっかり友だちになった気分になるのが不思議だ。
年の近い女の子、というだけで、母親のような年齢のエリン頼みだったわたしの生活に日が射したようにさえ感じる。
「ねえ、あなた、あんな男のどこがよかったの?あのドクター」
「今となっては苦い思い出なのだけれど・・・長い話になるけど、聞いてくださる?」
「もちろん。深い事情を知りたくて質問したのだし、話が長くなるのはむしろ大歓迎よ」
「ありがとう」
「それにしても、今回のローゼリア訪問にも国王夫妻が、あの医者を同行させているのはなぜなのかしら?過去の 二人のいきさつを考えれば、他の医師を連れてくるべきなのに。いったいどうして?」
わたしが疑問を口にすると
「王宮の人たちは皆、国王の一人娘を死の淵から生還させた名医と思い込んでいるんだもの。彼が今回の同行を申し出れば拒否できるわけはないわ」
と、本物のシャルロッテは言った。
「先代の陛下、つまりわたくしの祖父が一命を取りとめたのも彼のお陰だし」
「おじいさまを助けた、って言うけど、そもそも、お倒れになったのは、あなたとその侍医のせいなんだけど」
と、わたしが言うと
「言葉を遮らないでちょうだい」
彼女は言い返した。
「わかったわよ。どうぞ続けて」
「彼は、当然ながら、わたくしの健康管理もしてくれていたわ。ある朝、彼が聴診器を当ててわたくしの胸の音を聞いていたの。それは毎朝の習慣みたいなものだったの。けれどね」
彼女はワインのおかわりを自分で注いで
「その朝、突然、それが恥ずかしくてたまらなくなったの。お医者さまとは言え、男性に胸を見られていることが。十三になったばかりだったわ」
「それくらいの年頃になれば、体も変化するし、異性に見られて恥じらうのは普通のことよ。その時のドキドキをどうして恋と勘違いしたの?バカなの?」
とわたしは思わず、きつい言い方をしてしまった。
わたしと彼女との間にしばらく沈黙が下りた。
「ごめんなさい。バカだなんて失礼なことを言ってしまって」
「いいの。あなたがわたくしをバカだと思うのは仕方のないことよ。でもね。今となっては愚かな行為と思えることでも、当時のわたくし自身には理由があったの。彼を必要だと感じた理由が。あのとき、わたくしが恥ずかしがっていることにライヒナムは気づいて」
「それで?」
「はだけたガウンを寄せたわたしに、『もう着ていただいていいですよ』と言ったの。その声を聞いたら急に涙があふれてきて」
「あなたが泣いたのはわかるわ。わたしも両親がいなくなってから、時々、急に涙があふれて止まらないことがあったから」
「ありがとう。あのとき、ライヒナムはわたくしに、お母さまを亡くされて悲しいでしょう。我慢は不要です。お泣きなさい。そう言って彼はわたくしを抱きしめて、腕の中で泣かせてくれたの。人前で声をあげて泣いたのは、たぶんそのときが初めてだったと思うわ。お母さまがいなくなってから初めて」
シャルロッテはそう言った。
「それは本来、父親の役割よね。娘の心に寄り添うのは父親であるべきだったってこと。そのことに庶民も国王もないわよ」
わたしはため息をつくと同時に、怒りを覚えた。いたいけな少女の悲しみを包み込むようなふりをしながら、心の中では野心の道具にしようと企んでいたであろうライヒナムという男に。
「わたくし、お葬式でも泣かなかったのよ。世界中の王族や政府の要人が弔いに来ていたし、心のままに涙を流してはいけないと思ったの」
「亡き母を思って涙を流す王女に、批判的な参列者なんていないでしょう。みんな人の子よ」
わたしが言うと、彼女は静かに首を振って
「見送る時くらい、お母さまの望むわたしでいたかったのよ。お母さまはいつも『王女は常に毅然としていなさい』っておっしゃっていたから。優しい方だったけれど、公私のけじめには厳しくて」
母を亡くした人間の悲しさ、母の愛情と支えを失った子供の心細さに身分の貴賤はないはずなのに。人前で泣かなかった彼女には幼いながらも王女としての矜持があったのだ。涙で浄化される感情だってあるのに、心を抑えねばならなかったとは。
「よく頑張ったわよ、あなた」
彼女にかける言葉も思いつかず、月並みなことしか言えなかった。
「ありがとう。あなたに、身勝手なことをしたわたくしを褒めてくれるのね」
「ねえ、今はわかるでしょう?ドクターに本当の愛情なんてなかったことが。王妃の姪と婚約していながら、この国の皇太子妃になる予定のシャルロッテに抱きつくような男よ。卑怯な言い訳てんこ盛りでね」
「そうね。今ならわかるわ。でもあのときは、彼の腕の中にいたかったのよ。抱きしめてずっと背中を撫でて欲しかったの」
彼女は、グラスにワインを注ぎ足した。
「お姫さまなのに、わたしに注げっていわないのね」とわたしが笑うと
「ド・ブロア夫人の下で侍女をやってきたんですもの。労働がどれほどたいへんで、気遣いがどれほど疲れるか、わたくしも学んだわ。同時に自分が今までどれだけわがままだったかもわかったつもりよ。人々の献身をごく当然だと思っていたことを申し訳なく思っていてよ。今では」
と明るく言って
「気遣い、って言えばね」
彼女は話を続ける
「あのとき一緒にいたナースが、わたくしがドクターに抱きしめられて泣いたことを医務局の上司に言ったみたい。翌日からわたしの担当医は女性になったの」
と言った。
「急すぎる侍医の変更に、あなた、意地になったんじゃない?」
とわたしが水を向けると
「そうよ。わたくしと彼を引き離すなんて、と激しい怒りが湧いたわ。わたくしを受け止めてくれるたった一人の人と、もう会えなくなるなんて、そのことが耐えられなかったのよ。だから彼と結婚したいって言ったわ」
「また会いたい、が、どうして結婚したい、になったのよ。ほんとわからないわ」
「あの頃のわたくしは、彼に会いたいっていう気持ちを、そのまま『愛』だと思い込んでしまったわ。愛しているなら結婚しなくては、と、そう思ったの。結婚すればずっと一緒にいられると・・・当然ながら誰も許してはくれなかったわ。年齢のこともそうだけど、王家の第一王女が爵位もない侍医と結婚するなんて」
「そうでしょうね。誰だって反対すると思うわ。でもまあ十三歳のあなたとすぐどうこうではなくて、とりあえず十八歳まで待つと言ったのはドクターもある程度の良識があったってことかしらね」
(仮に当時すでに彼女が十八だったとしても、年の差が離れすぎているのは同じだし、とんだエロジジイだとわたしは思うけど)
今夜はワインが進む。彼女も同様でまたグラスを空にしていた。
「毎朝やってくる女性医師や、ナースたちにたずねても誰も彼がどうしているか教えてはくれなかったの。わたくしたちは会えなくなったのよ。そのことが日を重ねるにつれてつらくてたまらなくなって。それがある時、彼にばったり会ったの。図書室に本を探しに言ったときのことだったわ。書庫におりたら、彼の銀色の髪が目に入ったの。彼も気づいてくれて・・・」
「会いたかったーって言って、互いに駆け寄り、ひしと抱き合ったってわけ?」
わたしが茶化すも彼女は笑わなかった。
「そうよ。彼は言ったわ。愛は身分の隔たりも年の差も越えられるって。わたくしが成人したら、親の合意はいらなくなるから二人は結婚できるって。わたくしが十八になったら、あらためてプロポーズするからイエスと言ってほしいと、彼は言ってくれたわ。成人に達すれば、貴族院の議決より、王位継承権を持つわたくしの決意のほうが優先されるとも、そのとき聞いたわ。近い将来、晴れて一緒になろうって。だから、今日からは王女と侍医じゃなくて、シャルロッテとクラウスだって、そう言われたの」
「愛読していたロマンス小説そのままね。身分の違う男と、愛を誓ったお姫様の話。エリンが本を見せてくれたわよ。『二人の旅立ち』だったっけ」
わたしが言うと
「そう、それよ。物語と同じことが、このわたくしに起こるなんて、って、あの頃とっても幸せだったのよ」
「物語に出てきた男も、姫の命を救った年上のご典医だったわね」
わたしはため息をつく。
彼女は我に返ることなく
「そうよ。愛は身分も年の差も越えられるっていうお話よ」
と、目に星を入れてキラキラさせたままわたしを見た。
(思えば、あの本を見せたのも、エリン、いえ、国王夫妻の賭けだったのかもしれないわ。ご典医と姫の恋物語を読んでもライヒナムを思い出さなかったから、隣国との縁談を再び検討できたのよね、きっと)
「身分も年齢差も越えようってことは、二人で一緒に生きようって話でしょ?それが、どうして天国で会おう、になるの?あの本、わたしも退屈しのぎに読ませてもらったけど、ちゃんと恋を貫いてハッピーエンドになったじゃない。ご典医は王配殿下の称号など欲しがらなくて、姫が王女の位を捨てたラストだったはずよ。それがどうして、死んであの世で一緒になろう、なんて極東の浄瑠璃みたいな考えになったのよ」
「ジョールリって何?」
「極東の芸能の一つよ。三味線や和太鼓で奏でられる音楽に合わせて、人形を動かすの。すごい技術がいるのよ。世界一の人形劇だと思うわ」
「人形劇って子供相手の?」
「違うわよ。大人の鑑賞にも耐え得る芸術なの」
そこから、わたしは浄瑠璃の話を始めた。一つの人形を操るのに三人必要なこと。右手に一人、左手に一人、そして下半身を動かすのに一人。黒子と呼ばれる人形の使い手の動きで、人形に魂が宿るのだ。
「女性の人形が、手で顔を覆っただけで、涙を拭っているように見えるのよ」
わたしの説明に、シャルロッテは、コク、コクと何度も首を縦に振っていた。
真剣に相手の言葉に耳を傾けている姿を見て、ああ、彼女のこういうところに野心家の男は付け込んだのだ、と手に取るように理解できた。
「でね、わたしは『曽根崎心中』を見たのだけれど、これはこの世では結ばれることを許されぬ男女があの世で一緒になろう、と、ともに死を選ぶ話なの。極東も昔は、身分差のある二人が結ばれることが許されなかったから。わたし、高校の課外授業でこの演目を見て、すっかり感動しちゃって」
人形浄瑠璃の魅力についてもっと深く語りたいのに、的確な言葉が出てこず、自分が見た時の感動をうまく彼女に伝えられないのがもどかしい。こういう時、自分の教養の無さ、知識の薄っぺらさ、表現する言語能力の乏しさ、に 失望させられる。
他国の人と話すときは、相手の国の文化に精通することよりもむしろ、自分の祖国の国情や歴史、文化について深く知っていなければならないということが身に滲みてわかる。自国をアピールする力、というのは国際親善に不可欠なのだ。やっぱり自分には王女は無理だ、とあらためて思った。
「見てみたいわ。浄瑠璃を。あなたが言う世界一の人形劇というものを」
「あなたは、王族だから望めば可能なはずよ。極東国を訪問するのも、極東から演者を招くのも」
「洋の東西を問わず、身分違いの恋を成就させたい願いは一緒なのね」と、彼女はうっとりしてから
「わたくしと彼は、ともに天の国で幸せになろう、なんて話はしなかったわ。むしろ、わたくしは両親や周囲の人たちに二人の関係を認めさせたかったのよ」
「だったら、なおさら慎重にならなきゃ。いきなり結婚したい、なんて勇み足にも程があるわ」
「あなたの言うとおりよ。わたくしが夕食会で焦った発言をしたばかりに、王宮は大混乱で・・・それに担当医が変更になってから、わたくしは彼と会えなくなってしまって・・・ずっと一緒にいたいと思って『結婚』という言葉を出したのに、裏目に出てしまったことを悔いたわ」
「二度と会えなくなってしまったことで、想いに火がついたのね。いきなりの担当医変更のせいで、あなたは彼のことしか考えられなくなった、そういうことね」
彼女は、こっくりとうなずいて
「だから、書庫で会えた時とっても嬉しかったの。書庫で、彼と話している時、わたしは幸せだったわ。母を忘れ去ったかのように継母と楽しげに話している父への不満や、産油国から贈られた金色の馬のこと、わたしの話を彼はにこにこしながら聞いてくれたの。こんなふうに、やっと、書庫という秘密の場所を見つけたと喜んだのも束の間、二人で密かに話していたつもりでも、わたくしには監視の目が光っていたのよ」
(王族が密かに自分の時間を持てるはずないじゃないの。この人と言い、リシャールと言い、誰にも監視されていない秘密の時間があるなんて、どうして思えるのかしら)
と、わたしは思ったが、言葉にはしなかった。
見えない人間を「いない」と考えないと、王女も王子もやってられないのかもしれない。ずっと監視されているなんて思ったら、誰だって頭がおかしくなる。脳内で人を消す、のは王族の精神的自己防衛なのだろう。そういう思考が出来る二人、リシャールとシャルロッテはお似合いだな、とわたしは思った。
「あのね、あなたとドクターの動向には、城中の家臣たちが目を光らせていたはずよ。だから、むしろ書庫で二人が会ったこと自体が罠みたいなものだと思うわ。あなたがずっと彼を思い続けて、こそこそと人目を避けて会い、二人で過ごしていたことは、すぐに側近たち周知の事実になったはずよ」
と言ってから
「それにしても、誰にもわからないように連絡を取る方法を、あのお医者さんは思いつかなかったのね。あなたたち二人の間に入って連絡係になってくれるような味方もいなかったようだし、私室を貸してくれるような使用人もいなかったんでしょう」
「ええ、この恋に関しては二人の味方は誰もいなかったわ、あなたの言う通りよ。ある朝、法務大臣がわたくしの部屋にやってきて、ライヒナムは王室の侍医を辞めて、王宮を去ったと告げられたわ。実質は解雇だと言うことだったけれど、そこは情けをかけて退職金をはずんでやったと、そう言ったの。王女に対する邪心は、反逆罪に値する、投獄か辞職かどちらかを選べ、と大臣は迫ったそうよ」
言葉を切って、彼女はぐっと唇を噛んだ。
「そんなに悲しそうな顔をすることないじゃない。わたしが男で、本気で王女を愛したのなら、むしろ投獄を選ぶ わ。逃げ出すなんてあり得ない。あの男にしてみれば、王女と結婚できず、罪人扱いされるなら、王宮にいても仕方ない、ってところかしら。だから退職金を上乗せしてもらって、王宮から出て行くことを選んだんでしょう。結局のところ保身しかないのよ」
「まあまあ。そこまで言わなくても」
王女は笑みを浮かべた。どこか寂しそうな笑いだった。
「で、最後の情け、ということで、法務大臣は彼からの手紙を渡してくれたわ。そこには『罪人として獄に繋がれるくらいなら、自らの手で命を断つ』と書いてあったわ。そして、『あなたは命をまっとうして幸福になって欲しい。いつか天国で会おう。そしてそのときは添い遂げよう』って書いてあったの。そして翌日、彼の遺体がサントロワ湖で見つかったって聞いて」
「その後のあなたは絶望して、馬から落ちて天国と言うわけね」
「まあ、そういうことではあるのだけれど。ただ、すぐに後追いを考えたわけじゃなくて、彼が死んだと聞かされた直後は、むしろ呆然としていただけ。実感がなくて何をする気にもならなかったの・・・それに、わたくし自身が葬儀に出たわけでもないし」
彼女は言葉を切って、ワインを飲んだ。
「わたしに彼のことを諦めさせるために周囲が嘘を言っているかもしれないって不信感を持ってもいたのよ。死んだと言えば、忘れて立ち直るしかないと考えて・・・だから、わたくし、最初は彼の死を否定しつづけていたのよ。でも、一年二年と年が過ぎていくたびに、もし彼が生きていたら、絶対に何らかの手段で連絡をくれるはずだと考えるようになったわ。彼は絶対にわたしを一人にしないって信じていたのよ、で、ある日、ああ彼はもういないんだ、って、思えるようになったわ。それを認めるのに五年かかったけれど」
「実際にはドクターは生きていたんでしょう?王宮を辞しても医者なら食べていけるものね。黙って出て行けばいいのに、法務大臣とやらに手紙を持たせるとか、いずれは天国で添い遂げようか、芝居くさいやつだわ。ほんと、徐瑠璃みたいなことマジでやってどうするのよ。そもそもよ、医師であるあの男が、溺死なんて苦しい死に方を選ぶと思う?眠るように楽に死ねる薬だって、簡単に手に入るはずよ」
「あの頃のわたくしは、今のあなたみたいには思えなかったわ。職を追われた彼がかわいそうで、王室侍医の地位を剥奪され、そのうえ反逆者の汚名を着せられて王宮から追放されたなんて、わたくしのために悲しい最期を迎えたことを思うたびに胸が痛んだのよ。彼がどんな気持ちで湖の底へ沈んでいったのかと考えると、いても立ってもいられなくて・・・ずっと後悔していたわ。なにもかも、わたくしのわがままのせいですもの」
「彼の野心に利用された、とは考えもしなかったのね」
と、わたしは言ってから、アーモンドを口の中へ放り込んでガリガリと音をたてて噛んだ。
「ウエディングドレスが入らなくなるから、あまりナッツやチーズを食べないでちょうだい」
と、さらに、おつまみにパクついているわたしの手を押さえて彼女は笑った。
「美しさを保つのも、王女としての立派な仕事よ。今のスタイルを崩すようなことはやめてね。それから、お茶のたびに食べているチョコレート菓子もニキビの原因だから控えてくださる?」 と言った。好きなものを好きなだけ食べて「ちょっと太っちゃった(テヘペロ)」は庶民の特権だったのか。
「いきなり彼と結婚したいなんて言わずに、時を待てばよかったのよ。成人したら王位継承者であるあなたの意思に異議を唱える者などいなくなるんでしょ?法にのっとって解決するのが一番だったのに。国王と王妃でさえも成人したあなたの選択に心で反対はしても、法的にはどうにもできなかったはずよ」
「そうなの。親族の夕食会で唐突にライヒナムと結婚したい、なんて言う前に、よく考えるべきだったわ」
彼女は憂い顔になった。その時々の感情が顔色に出る、その素直さは彼女の長所だろうとわたしは思う。でも、王族の一員としてはどうだろうか。側近たちはそんな彼女の素直さを欠点と見ていたのかもしれない。だからこそ、彼女の亡き母親は、「常に毅然としていなさい」と躾けたような気がした。
「わたくしってね、とても面倒な立場と言うか、今までは自分の置かれた地位を理解しようとは思わなかったんだけど・・・使用人の立場を経験して見えてきたものがあって。ずっと王女のままだったら何もわからなかった、って思うのよ。あなたに体を譲って侍女の立場になって見えてきたものもあるの」
「それはわたしも同じよ。お姫さまだなんて柄にもない立場になって、いろいろ大変だったんだから」
とわたしが言うと
「まあ、あなたもそうなのね」
と彼女は、明るい表情になった。
「そりゃそうよ。目覚めたら『姫』って呼ばれるとはね。ほんと、びっくりしたわ。まさか自分が王女として生きることになるなんて」
彼女が侍女と言っているアデルでさえ王宮に出入りを許された貴族令嬢なのだ。極東の一庶民のわたしにとってはアデルも雲の上の人である。
「聞いてくださる?わたくしのやることって、他の人たちにとって、とても影響力があるんだってことを、わたくしやっと知ったのよ」
(何を今さら・・・)
と思いはしたが、わたしは彼女の言葉を遮ることなく耳を傾けようと思った。
「この前の落馬もそうなのだけれど、わたくしが落ちたら馬を扱う人たちが責任を問われるし、現に、ノワールだって処分が決まってしまったわ。ノワールが犠牲になると聞くまで、わたくしは自分の行動の余波で他の人たちにどれだけ迷惑がかかるか、なんて考えたこともなかったわ。あなたが、ノワールの命を助けてくれたと知った時、どれだけ嬉しかったか。ありがとう」
(お気に入りの馬の命が危機にさらされるまで、気がつかなかったということに、むしろ、こっちはドン引きなんだけど)
と思いつつも
「もういいのよ。そんなに自分を責めないで。自分のしでかしたことの大きさや、他人にかけた迷惑に一生気がつかない人も世の中にはたくさんいるわ。あなた反省するだけえらいわよ」
と、いたわってあげた。おいしいワインのお陰で機嫌がよかったせいでもあるが。
「ううん、わたくしを褒めて甘やかしちゃだめよ。誰一人知る人もいない世界で、どれほどあなたが戸惑ったか。ほんとうに申し訳ないわ」
と言うと、涙をこぼした。
「いいのよ。何もわからなくて困惑したのは事実だけど、姫さま、って呼ばれて、みんなから丁重な態度で接してもらえて、きれいなドレスを着て、高級なお料理をいただいて・・・悪いことばかりじゃなかったわ」
わたしはそう言って、彼女の涙を拭いた。
「ありがとう、優しいのね。あなた」
と言ってから、「そういえば・・・ずっとお名前も聞かなくてごめんなさい。今さらだけど教えていただけて?」と頭を下げた。
「田中凛子って言います。浄瑠璃の話でわかったと思うけど、極東人よ。あなたが生きるこの時代よりほんの少し未来の人間なの」
わたしが言うと、リンコと呼んでいいかと、彼女はたずねてから
「あなたのほうが本物の王女みたい。自信があって堂々としていて。両親や養育係の人たちは、きっとわたくしに今のあなたのようになってほしかったのね。わたくしの代わりに、ローゼリアへ来てくれたのが、リンコ、あなたで、本当によかったわ」と言った。
「こっちは目が覚めてから、驚きの連続よ。ご両親、とくに、父上のほうは、娘のことは使用人にまかせっきりで、お見舞いにもこないんだもの。こんなに冷たい親っているんだ、ってわたしは戸惑ったわ。無事を確認したら、結婚話を勧めるのも、庶民のわたしの目からみると無茶苦茶よ。だけど、あなたの意識が戻らないときは、なりふりかまわずライヒナムを復職させて、主治医にしていたから、やっぱり娘が可愛かったんでしょうね」
「もうだめだ、と思って、父は、せめて最後をライヒナムに看取らせようとしたんじゃないかしら」
「呼ばれてすぐに来たなんて、更迭されて姿を消したはずのドクターをずっと見張って、居場所も知っていた人が王宮内にいるってことよね。どこにも逃げられないって怖いわ。隠密みたいな人が暗躍してる世界。魑魅魍魎っていうのね。こういうの」
宮廷ドラマを思い出してわたしは言うと、沈みきった顔をしている彼女に向かって声をかけた。
「ねえ、この先どうする?あなた自身の魂をあなたの体に戻すべきだと思うんだけど」
「死ぬってことかしら?わたくしたち二人とも、もう一度」
「この前みたいに、スッと天国へ行ければいいんだけど・・・」
「そうね。わたくしも、プールに落ちた侍女の体を本人にそろそろ返したくはあるのですけど」
と、庭のほうを見て言った。
本人の意識がここにあるのに、このまま彼女の体にわたしの魂が入ったままでいいはずはない。
わたしは
「この体はあなたのものなのよ」
と言ったが、本物のシャルロッテのほうは
「わたくしは、まだしばらく今のままで大丈夫よ。あなたのほうが姫と呼ばれるにふさわしいもの。いつも落ち着いていて、まわりの人を気遣っていて、決して人を困らせるようなことはしないわ。本物より本物っぽいプリンセス、それはリンコよ」
そう言ったあとで、彼女はわたしの顔をまじまじと見つめて
「それにしても、わたくしって本当に美人だったのねえ」
と実感をこめて言った。
そして、うっとりとこちらを見つめている。その様子がかわいらしくて笑みがこみあげる。彼女には、自分の本来の肉体に戻らなくてはという焦りがないみたいだ。
「ずっとこのままというわけにはいかないわ。結婚式まであっという間、にわかプリンセスの化けの皮が剥がれるのは時間の問題よ」
わたしが言うと
「フィアンセのリシャール殿下は、見た目も中身も立派な良い方でしてよ。リンコ、あなたは、彼と一緒になればいいの。きっと幸福になれてよ。わたくしには今さら、その体と王女の人生を返してほしいなどと言う気持ちはありません」と、こともなげに言った。
「即位式のときに一緒に踊っただけのリシャール皇太子の人間性がどうしてわかるの?男を見る目のないあなたが彼の人間性を受け合うなんて、悪い冗談だわ」
「あのね、ド・ブロア夫人がなぜ姿を見せないかおわかり?」
と、彼女はわたしを見つめてきた。
「あなたがド・ブロア夫人に『あなたを認めません。わたくしは国へ帰ります』って言った夜のこと覚えてて?あのあと、皇太子さまのご両親、リシャール二世陛下と皇后さま、それに皇太子殿下のお三方から呼ばれて、ド・ブロア夫人はあなたに対する印象を聞かれていたわ。ド・ブロア夫人があなたのことを良い方と言うはずはないわよね」
「そりゃそうでしょう。当然、わたしの悪口を言ったでしょうね。わたしには破談になってもいいという気持ちがあったから、相当、強気で言ったもの」
「その強気の発言が彼女を怒らせたのよ。生意気だとか、ローゼリアのしきたりに従う謙虚さが全くないとか、皇太子さまのためになるお相手ではないと言っていたわ。婚約を解消して、シャルロッテ王女を隣国に送り返すべきとまで言っていたの。ほんと腹立たしい女よ。それを皇帝皇后両陛下は黙ってお聞きになられた・・・お二人がどう思われていたのか胸の内はわからないけど、聞くだけ聞いて夫人を下がらせたの。夫人のあとについてわたくしも部屋を出ようとした時、わたくしに、皇太子殿下が残るように言われて、先ほどの夫人の話は真実かとご下問があったの」
「なんて答えたの?」
「ド・ブロア夫人は明らかに失礼だったと言ったわ。でもシャルロッテ王女は言い返したりせず、ドーチェから一緒に来た侍女のエリンを返してくれと言われただけです、って、わたくしはそう言ったのよ。リシャール皇太子殿下は、よく話してくれた、とおっしゃって。ご自分もシャルロッテ王女を信じていたと、そう仰せになったの。そして、あらためてド・ブロア夫人を呼ばれると、侍女長からの降格をお告げになったわ。その毅然としたお姿に、わたくし・・・」と頬を赤らめたあと
「皇太子リシャール殿下は素晴らしい方だわ」
と言った。
わたしには、リシャール殿下の人間性など今さらどうでもよかったので、話題を変えることにした。
「そもそもどうして、エリンを洗濯場で働かせるようなことをしたのよ。彼女はシャロッテ王女の側近、つまり、この国の未来の皇太子妃の側近なのよ」
「ああ、あれはしきたりよ」
「しきたり?」
「ええ。花嫁側は、母国の側近を大勢連れて来ない、婚礼馬車を守る警護隊は、ローゼリアから派遣する、っていうのがしきたりなの。お妃の出身地の影響を極力排除してきた歴史のせいね。王族の姫だろうが、大貴族の娘だろうが、この国の皇室に母国や実家のやり方を持ち込まないというのがルールになっているの。身一つで嫁いで、ローゼリアに染まること。今回の婚儀にあたってもそれが踏襲されているってこと」
「だから、馬車一台と侍女一人で来る羽目になったのね。婚礼馬車というにはお粗末だったわよ。お尻が痛かったし」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?このしきたりは、別にあなたのせいじゃないわ」
「でも、その馬車に乗って移動する羽目になったのは、わたくしのせいですもの」
「もういいわよ。済んだことだし」
とわたしは言ってから
「じゃあ、シャルロッテ王女は、しきたりどおりにこの国へ来たにすぎないじゃない。なのに、侍女一人がお供とか、護衛もローゼリアから差し向けたとか、蔑んだような言い方をしてたわよ。あの女」
と怒りをこめて、ド・ブロア夫人を「あの女」と呼んだ。
「この縁談にまつわるしきたりを、姫がちゃんと理解して、この国に染まる覚悟があるかを試したのではないかしら。それなのに、あなたが本気で言い返したりするから、面食らったと思うわよ。ド・ブロアさん」
本物のシャルロッテは笑っていた。ホホホ、という軽やかで柔らかい笑い声は、わたしには何年かかっても習得できそうにない。
「じ、じゃあ、エリンを洗濯場でコキ使った件はどうなのよ?」
たじろいで、うわずった声で言い返す自分が情けない。
「ああ、そのことね」
と彼女は、またも笑顔になって
「ある日、庭園を散歩していた皇后が落としたハンカチを、嫁となる姫が拾って、それをお付きの侍女に渡したの。格下の洗濯係に渡さず、王女の首席侍女みずからが手洗いしてお持ちした故事に由来するのよ。属国は永久に皇国の配下として尽くします、という忠誠のあらわれね」
「知らなかったわ」
「この大陸の王家に生まれた姫なら、知っていて当然のことだから、あなたにわざわざ説明する人はいなかったってことかしら」
「ひどいわよ。頭を打って記憶を失くしているはずの王女を、フォローなしで他国に送り出すなんて」
「事細かに説明するより、送り届けてしまえば何とかなる、って思ったのではないかしら?エリンも付いていることだし」
「そのエリンがいなくなって、こっちはパニックだったんですけど」
わたしが言うと、本物のシャルロッテは
「エリンを返して、ってド・ブロア夫人を怒らなくも、もともと戻ってくる手筈だったのに、ね」
と言って微笑んだ。
「それよ・・・まずいことをしたわ。どうしよう」
「今さら、なによ」
と、本物のシャルロッテは笑った。
「それに、あなたが怒ったのは当然でしてよ。しきたりどおりなら、洗うハンカチは一枚のはず。エリンに何枚ものハンカチを手洗いさせたなんて、完全なイジメだわ。ド・ブロア夫人の性格の悪さを知って、わたくしも驚いたもの」
「だから庇ってくれたのね。わたしが不快をあらわにして、国に帰ると言ったことは伝えずに」
とわたしが言うと
「わたくしは、ずっと、あなたの味方よ。わたくしの無茶なお願いを聞いて、ここまで来てくれて、ドーチェの名誉を傷つけるどころか、立派に姫として過ごしてくれて・・・どれだけ感謝しているか」
「ちっとも立派じゃないわよ。いきなり侍女長のド・ブロア夫人とやりあっちゃってさ」
「あの人には、一度、きちんと叱る人間が必要だったわ。そういうことも含めて、あなたが王女として立派だと、わたくしは言っているのよ」
彼女は、ここまで言って
「わたくし、侍女も楽しんでいてよ。王宮の裏話をいろいろ聞けたし。ずいぶん馴染んでしまって、少し下世話になってしまった気もするけれど、物事の表面しか知らなかったお姫さまの時代とは違う自分になれたわ。髪を梳くのもうまくなったし」
そう言って笑うと「使用人の本音って面白いわよ」と、わたしの耳元であることを囁いた。
「えっ?それ本当なの?ド・ブロア夫人が収賄って・・・」
「シーッ。声が高いわ」
「宮中では、壁に耳あり、だったわね」
わたしが言うと、彼女は、そっと目くばせしてくる。
「出入りの商人からの献上品を自分で持って帰ったり、皇帝皇后両陛下に取り次いであげると言って、怪しげな成金から多額のお金を受け取ったり・・・」
「でもそれは噂でしょう?」
「良くない噂が立つような人には、きちんと釘を刺しておかないといけないわ。だから、リシャール殿下は、両陛下のお耳に入る前にド・ブロア夫人を更迭なさったのよ。ド・ブロア夫人は古い家柄の貴族ですもの。皇帝から処罰の勅命が下るという不名誉が起きる前に、皇太子の配慮で侍女長を辞めるだけで済んだなんて、運が良かったわ。彼女はむしろ殿下に感謝しなければならないわね」と言った。
「それで、だったのね。エリンが翌日帰ってきてくれて、ド・ブロア夫人が姿を見せなくなったのは」
「ね、リシャール殿下って良い方でしょ?」
「そうかしら。わたしの職場にもいたわよ、オバサンには冷たくて、若い女の言うことは全部信じる男が」
「ああ言えばこう言う・・・あなたって、素直じゃないわねえ。リシャール殿下のこと信じられないのはどうしてなの?」
「リシャール殿下を信じていない、というわけじゃないわ。ただ、人は上に立つほど、下の者の現状が見えにくくなるものよ。側近の『ご注進』ってやつだけを鵜吞みにすると、とんでもないことになるってこと。それは歴史が証明しているわ。ド・ブロア夫人はいけ好かない女だけど、賄賂の噂が本当だったかどうか、言い分を聞いてやってもよかった気がするけどね」とわたしが言っても、彼女はそれには耳を貸さず、
「良い方よ。妃となる女性は自分が守る、って、殿下はきっと心に決めておられるのよ。それに証拠もないのに侍女長を罷免されたわけではないと思うわ。側近に命じて夫人の身辺を調べるくらいのことはされていたはずよ」
と、うっとりとした表情になった。
(この人、惚れっぽいんだ・・・たった一度、話を聞いてもらっただけで、今度はリシャール殿下に夢中とは)
彼女がこの性格で庶民だったら、いろんな男と次から次へと面倒ごとを起こして、親や、友人、同僚など、周囲の人間に迷惑をかけるタイプだったかもしれない。
それにしても、女のわたしの目から見ると、近寄り難い美しさ、神々しささえ感じるのに、男の人はそんな感じを受けてないのが意外だ。図々しく抱きついた侍医と言い、子作りしましょうの皇太子と言い、侵しがたいこの美貌の前に少しはひれ伏せ、と思ったが、たぶん彼女の内面の危うさが、わかる男にはわかるのだろう。
こういう人は、周囲の人々の助言を聞いて動ける、高貴な立場が一番生きやすいのかもしれない。自分で何かを決めたり、行動したりするのは危なっかしすぎる。
「本物さん、あなたがこの体に戻って、リシャール殿下と結婚すれば万事うまくいくじゃないの。彼のこと素敵だと思ってるなら、そうしましょうよ」
わたしの言葉に、彼女は首を、大きく左右に振った。
「ダメよ、そんなこと。強引に頼んであなたに自分の体に入ってもらっておきながら、わたくしが今さらその体に戻って殿下と結婚するなんて、あまりにも自分勝手だわ。あなたのお陰でライヒナムの本性にも気づけたし、ドーチェ現王妃のことも、真実がわかったのに」
「現王妃、って何なの?ちゃんと、お母さまとおっしゃいませ。お・ひ・め・さ・ま」
とわたしは笑った。
照れて「母」と呼べない彼女が可愛かったのもあるし、わたしを天国から引き戻して自分の体に入れたことも深く反省しているようだから、許してあげてもいいかもしれない。
「そうね。お母さまね」
と、彼女は小さな声でつぶやいたあとで
「でも、ダメよ。あなたが納得してくれていても、わたくしが今さらその体に戻るなんて・・・それに」
「それに?」
とわたしが問うと、魂だけがうまく抜け出して、肉体のダメージが回復可能な「絶妙な死に方」なんて、どうすればいいのかわからない、と彼女は言った。
「自分の一方的なわがままで、あなたの魂に入ってもらったんですもの。今になって体を返せなんて、そんな身勝手なお願いできなくってよ。だいいち、リンコ、あなただって、リシャール皇太子のことを愛しているんでしょう?」
と言うと、今度は急に涙目になった。そして、両手で顔を覆って声を押し殺している様子を、わたしはかける言葉もなく見ていた。
「ああ、あの方の美しい黒髪に触れたい。でもわたくしにはそれが許されないのですわ」
とため息とともに彼女は言った。
(この人、許されない愛、ってのに燃えるタイプなんだ。でしょうね、ライヒナムのときだって周囲の反対のお陰で、かえって想いが強くなった、って言ってたし)
やっかいな性格だな、と思いつつも、
「あのね、わたし、別に殿下のこと好きじゃないから。いえ、むしろ、苦手なタイプと言うか、とにかく結婚なんて無理すぎると思ってるくらいだし」
とちゃんと伝えた。それなのに彼女は涙を流し続けて
「そんな嘘、いけないわ。わたくしをかわいそうに思って心にもないことを言ったりして。そんな気遣いなど必要なくってよ。あの方に惹かれない女性なんているものですか。わたくしを哀れまないでちょうだい」
その思い込みの激しさにあきれ返って、慰めの言葉をかける気にもなれない。そんなわたしに、本物の王女は言った。
「殿下の黒髪、ノワールと同じ。真っ黒でとっても美しいわ。それにあなたも。門に立っていたとき、美しい黒髪の女性だな、って思ってあなたに決めたのですもの」
(まさかの黒髪フェチ?こんなことで、わたしの運命が変わったなんて)
全身から力が抜けた。
「アデル、もう寝るから部屋に戻ってちょうだい」
主人風を吹かせてそう言ってみた。
「お隣で寝ていいかしら?長い廊下を歩いて、使用人棟へ戻るのが面倒なの」
「いいわよ。このベッド広すぎるくらい広いから」
「ねえ、お父さまの即位式のとき、あなた、リシャール殿下に会ったのでしょう?そのときに好きにならなかったの?今みたいに」
そう聞いたわたしに彼女は返事をせず、急にガバっと起き上がって
「とにかくね、ここで生き残るには、ド・ブロア夫人よりも殿下付きの爺やさんに気に入られることよ。彼は優しいお爺ちゃんに見えるけど、今の陛下にも帝王学を授け、皇帝に何かあればリシャール殿下を補佐して国務に関わることの出来る唯一の人なのよ。皇帝の親せきの公爵たちを刺激しないために、爵位は敢えて伯爵どまりになっているらしいわ」
「そうなんだ。まさか、殿下のお世話係に、そういう逸話があったとは」
「宮廷の人間模様なんか、全く関心ないんでしょ?リンコってば・・・爺やさんは、ご自分の出自をとても誇りに思われているの。代々皇帝に仕えてきた古い家柄ですもの。だから、ちゃんと家名で呼んであげて。ドーチェ王女がそうしたら感動されると思うわ。仲良くなって、六百年前に手柄を立てたご先祖さまの自慢を聞いてあげるのよ。さあ、今から特訓しましょ。リンコ起きて」
本物のシャルロッテに、寝入りばなの気持ち良いところを起こされ、わたしはぼんやりとした頭で、彼女が言う爺やさんの長い家名を明け方まで繰り返させられた。
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