頬を撫でる唇

咲 カヲル

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十四話

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山崎さんは、鼻から溜め息のように、大きく息を吐き、私の頭を優しく撫でた。

「あほ…」

「はいはい」

「ばか…」

「はいはい」

「いじわる…」

「すみませんね」

山崎さんが、私の体を持ち上げ、布団に寝せて、枕に頭を乗せると、首に回した腕を押し上げた。

「もうほどいてよ…」

山崎さんにネクタイで、縛られた手を突き付けると、山崎さんは、意地悪な微笑みで、縛られた手を押し返した。

「ちょっと、ほどいてってば」

「イヤですよ」

「なんで」

山崎さんは、体を起こして、布団に膝を外に向けて、お尻を着いて座り、ティッシュを取って、股間を拭き始めた。

「ねえ!!」

拭き終わったティッシュをゴミ箱に投げ入れ、新しく、ティッシュを取ると、私に向き直った。
山崎さんの微笑みが、悪魔のように見え、私は、お尻を擦りながら、後退りした。

「何するつもり?」

「拭かなきゃないでしょ?」

「いっいいよ。自分でやるから」

「その手で、どうやって拭くんですか?」

「だからほどいてって」

「イヤです」

「いやって…ちょっと!!いや!!いや!!」

窓の下の壁に貼り付くように、背中を着け、両膝を掴んで、広げようとするのを足に力を入れて阻止した。
必死に縛られた手で、山崎さんの手の甲を掴んで、押し返そうと腕にも力を入れた。

「それじゃ、拭けませんよ」

「自分で…拭くから」

必死になって、山崎さんは、広げようとして、私は、広げないようにする。
暫く、そうしていたが、山崎さんは、溜め息をついて、私の膝から手を離した。
黙って見つめていると、山崎さんは、私から離れて、布団に座った。
それを確認して、足から力を抜いた私の視線が、天井に向いたのは一瞬だった。
山崎さんの手が、足首を掴んで、一気に引き寄せられ、山崎さんの太ももの上に、太ももを乗せ、寝転がったまま、山崎さんに股がるような形になった。

「やめ…ひぃ!!ん…んん…」

変な声を出し、体を捩りながら、床を足裏で蹴って、股間を拭く山崎さんの手から逃げようとした。

「ダメですよ?ちゃんと、拭かなきゃ」

「じ…ぶんで…ふく…ぅ…」

「そんなんで、拭けないでしょ?」

「ほ…どい…てん…」

「そんな声出されたら、したくなっちゃいます」

「でも…ぅ…ん…」

「我慢して下さい」

ティッシュ越しに、落ち着いた蕾に山崎さんの指が触れ、体を震わせて、縛られた手を噛んで、声を殺した。
山崎さんが、股間を拭き終わるまで、体を震わせながら、必死に絶えた。

「はい。終わりましたよ」

山崎さんが手を離し、そう言って、上半身だけを後ろに向け、使い終わったティッシュをゴミ箱に投げた。
グッタリしながら、ティッシュがゴミ箱に入るのを見て、天井に顔を向けて、目を閉じた。

「あのさ」

「はい」

私に覆い被さるように、のし掛かって、私の肩に腕を回して抱えると、布団に寝かせた。
山崎さんは、隣にうつ伏せに寝転んだ。

「いい加減、これほどいてよ」

「イヤですよ」

「だからなんで」

山崎さんに視線を向け、横向きになると、掛け布団を引き上げ、私を抱き寄せようと、手を伸ばしてきた。

「待て」

私の肩を掴んだまま、止まった山崎さんのはだけたYシャツを指差して、睨むように言った。

「着替えな」

山崎さんは、納得したように上半身を起こすと、Yシャツを脱ぎ捨てて、そのまま、仰向けに寝転んだ。

「ちょっと。シワになるでしょ」

そう言って、上半身を起こして、寝転んだ山崎さんの腹の布団を軽く叩いた。

「別にいいですよ。安物ですから」

「なんで、そんな投げやりなのよ」

「あの人。いいスーツでしたね」

「あの人?」

「今日、一緒にいた人です」

「一緒いたって。どっちのこと言ってんのよ」

「両方ともです」

イライラしたように、ため息混じりに言った山崎さんの態度が、イラッとした。

「そらそうよ。私がプレゼントしたんだから」

そう言うと、山崎さんの目が見開かれ、驚いたような顔をした。

「両方ですか?」

「片方は知らん」

「えっと…知り合いですか?」

「清彦さん」

「どっどっちですかね?」

「白髪」

「…嘘ですよね?」

「ホントよ」

天井に顔を向けたまま、目元を片手で覆った。

「ほどいて」

縛られた手首を山崎さんに差し出すと、山崎さんは、少し悩むような仕草をしてから、やっとネクタイをほどいてくれた。

「痕残ったじゃん」

ネクタイが擦れ、はっきりと残った痕を擦りながら、布団から立ち上がり、脱ぎ捨てられたスーツとYシャツを拾った。
ネクタイを抜き取ろうと、山崎さんの手を滑るように離れた時、手首を掴まれた。

「痛かったですよね?」

山崎さんは、心配そうな、後悔してるような、複雑な顔をして、手首の痕に触れた。
私は、鼻で溜め息をついて、その場に屈み、手首に触れる山崎さんの手を見つめて言った。

「もういいよ。暫くすれば、消えるから」

手首を擦りながら見つめる山崎さんの視線を見つめ返す事が、私は、出来なかった。
互い様だと思いながらも、謝らなければ、ならないのだと分かってる。
急だったとは言え、何も言わずに出掛け、清彦さんに山崎さんのことを言わなかった。
付き合ってないのに、こんな事してるのが、後ろめたくて言えなかった。
それでも、山崎さんを裏切ったような形になったのは、私自身が悪いのも痛感してる。
なんて謝ればいいか分からず、視線を反らして、黙っていると、私の手首から山崎さん手が離れた。
私は、下を向いたまま、立ち上がり、クローゼットに向かうと、中から使ってないハンガーを取り出し、山崎さんのスーツを掛けて、クローゼットに仕舞った。

「Yシャツの替えってあるの?」

「一枚あります」

山崎さんのYシャツを持ったまま、床に脱ぎ捨てられた自分のスラックスと下着を拾い、洗面所に向かった。
持ってきたものとブラウスを洗濯カゴに入れ、ジャージに着替えてから、寝室に戻った。
布団には、山崎さんの姿はなくなっていた。
着替えに和室に行ったのだろうと思い、布団に座り、なんて言って謝ろうかと、膝を抱えて、山崎さんが戻るのを待っていた。
だが、いつまで待っても戻って来ない。
和室に向かい、そっと障子を開け、中を覗くと、山崎さんは、障子に背を向けて、布団にくるまっていた。
背中で拒絶されてるように感じで、私は、障子を締めて、寝室に戻り、布団を頭から被って目を閉じた。
瞼に山崎さんの作られた微笑みが浮かび、泣きたくなってきた。
悪気があったんじゃない。
下心なんてまるでなかった。
でも、私の軽率な行動が山崎さんを傷付けた。
そう思うと、清彦さんにちゃんと、言えばよかった。
完全に自己嫌悪に陥った私は、頭を抱えたまま寝てしまった。
後悔した。
拒絶されようが、嫌われようが、怒られようが、この時に謝ればよかった。
でも、後になってから、悔しいと思うのが後悔であって、何をどうしても、どう足掻いても、もう全てが遅かった。
お昼少し前に目が覚め、寝室から出て、和室の障子を少しだけ開けて、中を覗いた。
でも、そこには、私の期待していた山崎さんの姿はなかった。
布団は、綺麗にたたまれ、庭には、洗濯物がそよ風でなびいているだけだった。
障子を締め、リビングに向かい、ドアノブに手を掛けて、大きく深呼吸してから、そっとドアを開けた。
隙間から顔を出し、中を見渡したが、山崎さんはいなかった。
大きくドアを開け、見渡すと、カウンターに何か置かれているのが、視界に入り、それに近付いた。

出掛けます。
温めてからからどうぞ。

短い文章の書き置きと一緒にラップの掛かった食器には、だし巻き玉子やウィンナーが盛られていた。
私は、書き置きをカウンターに置いて、暖めずに、そのまま、朝食を一人で食べ始めた。
だが、食欲がないのに、淋しさで、更に、食欲を亡くし、ラップを掛け直して、冷蔵庫に仕舞った。
コーヒーを淹れ、換気扇の下で、タバコを吸い始めたがすぐに消した。
マグカップを持ち、仕事部屋に行き、パソコンの電源を入れ、点滅していたメールを開いた。

Dear.マコトさん。
お疲れ様です。
早速なのですが、テーマは、大人の恋で、五月十日までによろしくお願いします。

可奈さんからメールを読んで、たった、一言だけの返信を返した。

Dear .可奈さん
了解です。

メールの完了画面を確認せず、コピー用紙を取り出し、言われたテーマに合うように、設定や詳細を書いて、新しくフォルダを作り、読み切りを書き始めた。
どれくらい、読み切りを書いていたのか分からない。
私が気付いた時には、空が茜色に染まっていた。
私は、パソコンを点けっぱなしにして、仕事部屋を出て、和室に向かい、庭の洗濯を取り入れた。
たたんでから、洗面所や寝室に片付けて、リビングに行き、冷蔵庫を開け、食材を確認した。
サラダとナポリタンを作り、山崎さんが、帰ってくるのを椅子に座って待った。
だが、電気を点ける程に、外が暗くなっても山崎さんは、帰って来なかった。
時計を見ると、もう八時を回っている。
サラダとナポリタンにラップを掛け、和室に向かった。
窓から顔を出し、車があるのを確認して、窓を締めて、鍵を掛けると、カーテンを引いて、玄関先に向かい、電話機の横にあるメモ帳を一枚、破いて、リビングに戻った。

夜遅くまでお疲れ様。
夕飯作ったから、温めて食べてね。

メモ用紙にメッセージを書き、ラップの上に置いて、リビングの電気を消し、ドアを締めた。
洗面所に向かい、シャワーを頭から浴び、着替えて、仕事部屋に戻った。
冷たいコーヒーを一口、飲んでから、また、仕事を再開した。
暫くして、携帯が鳴り、時計を見ると十時半になるところだった。
表示画面を確認し、受話ボタンを押した。

「はい?」

『もしもし?今週の土曜、夜の七時に来れるよね?』

「あのさ。ちゃんと説明してよ」

『だから、今週の土曜、夜の七時』

「意味分からん」

『来れるよね?』

「祐介。何が言いたいの?その日に何があんの?」

『あ。そっか。今、龍之介と、前みたいに、忍さんや貴子さんたちを誘って、バーベキューでもしようかって、話になってね?それで、忍さんと満さんに相談したら、今週の土曜なら、大丈夫だろうってなったんだ』

「私には、何も聞かないで決定かい」

『だって、マコトは、いつでも平気でしょう?』

オデコに触りながら、溜め息をついて、電話の向こうで、威圧的な笑顔を作ってる祐介の姿が見えた気がした。

「分かった。土曜の七時ね?どこでやるの?」

『マコトん家の庭』

「あー。場所、用意できなかったのね」

私が溜め息をついて、苦笑いすると、祐介は、短く声を上げて言った。

『でも、山崎さんいるから無理か』

山崎さんの姿を思い浮かべ、昨日の事を思い出した私は、いつの間にか、無表情になってた。

「いいよ。別に」

『でもさ~』

「山崎さんなら、その時間帯、仕事でいないから。大丈夫」

『…本当にいいの?何か、投げやりになってない?』

「そんな事ないよ?それに、ここは、私の家だし。彼は、ただの居候だし」

居候の部分を強調するように、強く言うと、祐介が何か言おうとしたが、私は、無視して続けて言った。

「買い出しは、任せたからね?よろしく。じゃ」

『ちょっと!?マコト!!』

騒ぐ祐介を無視して、終話ボタンを押して、携帯の電源を切って、中断していた仕事をすぐに再開した。
読み切りを途中まで、書いていたのは、覚えているが、気付けば、椅子に座ったまま、デスクに突っ伏して、寝ていた。
起きた時には、空が明るく、太陽が真上に昇り、時計の針は、十二時を差していた。
飲みかけのコーヒーが、入ってるマグカップを持って、リビングに行き、カウンターに昨日と同じように、ラップの掛かった食器に朝食が盛られてあった。
昨日と違い、書き置きはない。
空しい気持ちと淋しさで、私は、そのまま、冷蔵庫に全部仕舞った。
マグカップを洗って、寝室に行き、パーカーとジーパンに着替えて、仕事部屋で、お財布と携帯をポケットに押し込んだ。
下駄箱の上から車の鍵とキーケースを掴んで、車を走らせ、コインパーキングに車を停めて、満さんのお店の扉を開けた。

「いらっしゃい。って先輩!!」

「如月君!!」 

「久し振りっす」

「ホント久しぶり。元気だった?」

「うっす」

「また背伸びた?」

「そうすか?」

「伸びたよ。ほら」

横に立って、私は、自分の頭上に手を置いて、真っ直ぐ横に動かし、淳也の肩に手をぶつけた。

「ほら。やっぱり伸びてる」

「本当っすね。横に立つと、よく分かるっすよ?先輩がちっちゃいの」

「ちっちゃい言うな」

軽く肩をパンチして、二人で笑っていると、カウンターの奥から満さんが、顔を出した。

「お?マコトか。んな所で何してんだ?」

「如月君と久々のふれあいです」

「お前。淳也(ジュンヤ)の邪魔すんなよ」

「邪魔なんかしてないですよ。ねぇ?」

「ぶっちゃけ邪魔っす」

「ひどっ!!」

肩を軽く叩いてから、カウンター席に座った。

「いつものでいいか?」

顔だけを私に向け、そう聞いた満さんに頷くと、満さんが、カウンターの奥に姿を消した。
淳也も、カウンターに入って、コーヒー豆を挽き始めていた。

「ねぇ~。如月君」

「なんすか?」

「土曜って、如月君も来るの?」

「なんの話すか?」

「土曜に私ん家で、バーベキューするんだって」

「なんすか?それ。自分ん家なのに、他人事みたいっすよ?」

「だって、龍之介と祐介が、計画したんだもん」

「またすか。懲りないっすね」

「もう諦めたよ。それで?来るの?」

「いや。誘われてないすから、行かないっすよ」

「予定は?」

「ないっす」

「じゃおいで」

「いいんすか?」

「別に一人増えるくらい、どってことないし。大丈夫だよ」

「でも、先輩ん家って、同棲してる人いるんすよね?」

何故、淳也が山崎さんの事を知ってるのかは、なんとなく分かった。
また、龍之介や祐介が、ベラベラと喋ったのだと思い、私は溜め息をついた。

「あれは居候」

「祐介先輩たちは、同棲って言ってたっすよ?」

湯気の上がるコーヒーカップをソーサーに乗せ、前に置きながら、淳也にそう言われ、私は、山崎さんと一緒に笑っていた日々を思い出した。
気持ちが落ち込み、黙って、カップの中で、黒々と揺れるコーヒーを見つめた。

「先輩?」

顔を覗き込みながら、心配そうな顔をした淳也が、視界に入り、我に返った。

「な何?」

「大丈夫すか?怖い顔になってるっすよ?」

「大丈夫。でも、同棲するなら、私は如月君がいいな」

ニコニコと笑いながら、そう言うと、淳也は、顔を真っ赤にして、私を見つめた。

「ダメかな?」

「あえ?あ!その。あの。えっと。んと」

慌てふためく淳也が、面白くて、ケタケタと笑っていると、前にオムライスを盛ったお皿を置きながら、満さんに頭を軽く叩かれた。

「いじめんな」

「だって、可愛いんですもん」

叩かれた所を擦りながら、カウンターの中に屈んで、こっちに背中を向けて、真っ赤になった顔を両手で覆って、首を振る淳也の背中を満さんと一緒に見下ろした。

「お前。悪女だな」

「そうですか?よく、小悪魔っては言われるんですけど」

「んな、可愛いもんじゃねぇよ」

オムライスを食べながら、カップが空になり、私は、淳也の背中に向かって言った。

「カップチーノ飲みたいなぁ~」

「はい!!ただいま!!」

勢いよく立ち上がり、顔も見ずに、コーヒーカップとソーサーを受け取ると、カウンターの中に片付け、機械の前に立ち、カップチーノを淹れ始めた。

「にしても。マコト。なんかあったのか?」

「なんでですか?」

「顔見りゃ分かる。なんかあったんだろ?」

私は、優しくそう聞かれ、全てを話してしまおうかとも思ったが、視線を落とし、オムライスを口に入れた。

「何もないですよ?強いて言えば、仕事が忙しかったです」

「大丈夫なんすか?」

頭が冷えたのか、淳也は、いつもの調子に戻り、カップチーノを私の手元に置き、満さんと並んで立った。

「なにが?」

「忙しいんなら、土曜、断った方がいいんじゃないすか?」

「大丈夫よ。もう、大体は片付けたから」

「ホントすか?」

「あんま無理すんじゃねぇぞ?」

「大丈夫だって」

そんな時、ドアベルの音がして、横目で見ると、龍之介が入ってきた。
あれ以来、久々に顔を合わせる。
なんとなく、気まずくて、オムライスをかっ込んで、カップチーノを一気に飲み干して、椅子から立ち上がった。

「ご馳走様」

お財布を取り出し、カウンターに代金を置いて、さっさと、お店から出ようとした。

「おい」

扉に手を掛けた時、龍之介に呼び止められ、肩を掴まれた。

「なに」

本当は、声が震えそうだった。
それでも、震えないようにして、睨むようにして見つめると、龍之介は、鼻で溜め息をついて、私の頭に手を乗せた。

「もう何もしねぇよ」

龍之介の目元が、柔らかな弧を描き、呆れたように微笑むのを見つめ、いつの間にか、強張らせていた肩から力が抜けた。

「ま。諦めはしねぇからな」

「あっそ」

扉に視線を戻すと、頬に柔らかな感触がして、驚いて、龍之介に顔を向けた。

「なにす…」

「別に何も」

「今、何もしないって…」

「ほっぺにチューくらいはいいだろ」

顔を真っ赤にして、龍之介の膝に蹴りを入れ、ガクンと揺れた肩に、思いっきり、パンチをのめり込ませた。
龍之介は、右肩を掴みながら、カウンターに倒れるように、突っ伏して痛みに悶えた。

「ざけんな!!ばか!!」

そう叫び、拳を握って、龍之介を睨み付けてると、肩に重みが掛かり、私は、顔を赤くしたまま固まった。

「ダメだなぁ。龍之介は、守備が甘いよ」

耳元に聞こえた祐介の声の後に、また頬に柔らかな感触がして、微かにチュッと音が聞こえた。

「…んなろー!!何すんだ!!」

祐介の脇腹に思い切り、肘を食い込ませ、腕が緩んだ隙に、かかとで脛を蹴りつけた。
壁に背中を着け、滑るように屈んで
脛を掴む祐介を睨むと、満さんが、苦笑いしながら、痛みに悶える二人に言った。

「何やってんだ。バカ共」

パーカーの袖で、頬をゴシゴシ拭くと、苦笑いしてる淳也が、おしぼりを差し出した。

「ありがと」

おしぼりを受け取り、頬を拭くと、祐介が立ち上がり、淳也を指差して、叫ぶように言った。

「淳也!!お前何渡してんのさ!!」

淳也は、胸の前で手を振りながら、後退りした。

「いや。あの。なんとなく、気持ち悪いのかと思って」

カウンターを強く叩きながら、起き上がった龍之介が、拳を作りながら、淳也に向けて言った。

「決死の覚悟でしたんだぞ!!拭かせんなよ!!」

「へぇ~。そうだったんだ。なら、別にぶん殴ってもいいんだよね?」

おしぼりを持つ手に、拳を作ると、二人は、身構えて、少しずつ、私から離れて、お店の奥にある更衣室に向かった。

「あ!!早く着替えなきゃな?龍之介」

「そうだな。それじゃな」

背を向けて、一気に、更衣室のドアを開け、バタバタと、二人で入っていった。
その背中を見送り、私は、溜め息をついて、淳也に視線を向けた。

「ごめんね?」

「いっすよ。慣れたすから」

苦笑いする淳也におしぼりを返し、私は、更衣室のドアを見つめた。

「二人が来たってことは、もうあがりなの?」

「そっす」

「この後の予定は?」

仕事以外で、家にいたくなかった私が、それとなく聞くと、淳也は、首を傾げて答えた。

「何もないすけど?」

「じゃ、早く着替えてきてね」

「…はい?」

「あ~そびぼ?」

小学生のように言うと、更衣室のドアが勢いよく開いた。
スラックスの腰の部分を掴んで、龍之介が顔を出し、淳也に威嚇するように、睨みながら言った。

「行くんじゃねぇぞ」

龍之介の威嚇に苦笑いして、横目で私を見下ろす淳也を見ると、なんとなく、青ざめてる気がした。

「変態」

龍之介が、背中を向けたのを確認してから、背伸びをして、淳也の耳元で囁くように言った。

「外で待ってる」

頬を赤くしながら、小さく頷く淳也に優しく微笑むと、更衣室の出入口から、祐介が腕組をして言った。

「何話してんの?」

祐介の威圧感のある笑顔に淳也は、首を振りながら、手を胸の前で小さく振って言った。

「なんでもないっす」

そんな状況に、私は、クスクスと笑いながら、背を向けて、扉に向かった。

「じゃ、またね?如月君」

小さく手を振ってから、階段を上がって、すぐ横の壁に寄り掛かって、淳也が出てくるのを待った。
十分くらい待っていると、ドアベルの音が聞こえた。
階段を急いで駆け上がる靴音に顔を向けると、私服に着替えた淳也の顔が見えた。
息を切らしながら、左右に首を振り、私を見付けると、壁に手を着き下を向いた。

「大丈夫?」

「チョー怖かったっす」

「ごめんね?」

大きく一つ深呼吸してから、顔を上げた淳也は、高校時代と変わらない人懐っこい笑顔だった。

「大丈夫っすよ。なんとか、誤魔化したっすから」

変わらない笑顔が、高校時代を思い出させ、こんなにも変わってしまった自分が、恥ずかしくて悔しい。

「そっか。じゃ~行こっか」

そんな思いを悟られないように、明るくそう言うと、淳也も気付かないフリをして、明るく返事を返してくれた。

「うっす」

淳也と並んで、車を停めてあるコインパーキングとは、真逆に歩き出した。

「噂の彼女とは、どうなったの?」

淳也には、二つ上の彼女がいて、私たちも、顔は知っていた。

「フラれたっす」

「なぬ!?いつよ」

「一年くらい前っす」

「あれ?もしかして、知らなかったの私だけ?」

「いえ。誰にも言ってないすから、誰も知らねっすよ」

本当は聞きたい。
別れた原因が何なのか。
だが、龍之介のように、無神経にもストレートに聞く度胸なんて私にない。

「なんか俺、他に好きな人がいるらしいんすよ」

「…ん?自分のことじゃないの?」

「そうなんすけど、自分じゃ気付いてないらしいんすよ。そんで、フラれたんす」

「変なの。なんで、そう思ったんだろうね?」

「あ。それは、俺が、よく髪型とか服装とかを指定してたからす」

「それだけ?」

「そんで、不意に、ある人に似てるって、思ったらしいんすけど、誰に似てんのかは、教えてくれなかったんすよ」

「へぇ。なんか複雑ね」

「そうなんすよ。ホント、女心分かんねぇっす」

「私も女なんだけど」

「そでしたっけ?」

「ひどっ!!」

「だって、先輩の私服が私服っすからね」

「すみませんね。男っぽくて」

アッカンベーをして、淳也を置いて、早足になって歩くと、小走りしてきた淳也が、私の肩に、わざと肩をぶつけた。

「え」

よろけて、バランスを崩して、倒れそうになった私を見て、淳也は、慌てて、私の手首を掴んで引き寄せた。

「大丈夫すか?」

私の肩を掴んで、支える淳也の前で、私は、ボーッとしていた。
おかしい。
前までは、これくらい、なんてことなかったのに、なんで踏ん張れなかったのか。

 「先輩?」

支えるように掴まれていた肩から、背中に動いた手に、私は、我に返り、淳也の脇腹にパンチした。

「何してくれんの」

淳也がお腹を抱え、苦しそうに背中を丸めたのを見下ろし、私は、手加減するのを忘れてた。 

「ごめん!!大丈夫?」

小さく頷く淳也の背中を擦り、何度も、私は、何度も謝った。

「もういいっす」

涙目になりながら、顔を上げた淳也は、体を起こして、脇腹を擦った。

「あ~痛かった」

「ホントごめん」

「もういいっすよ。それより、どこ行くんすか?」

私は、口角を上げて、ニヤリと笑い、淳也の腕を掴んだ。

「ちょっと付き合ってね?」

「…はい?どこにすか?」

「ちょっとね。物知りな如月君にしか出来ないこと」

優しく微笑んで、腕を絡ませると、淳也の頬が赤くなった。

「ほら。行くよ」

「え?ちょっと!!先輩!!引っ張んないで!!」

淳也の腕を引っ張るようにして歩き出した。
私が淳也を連れてきたのは、女性向けファッション誌で、よく特集を組まれている有名なショップだった。

「ねぇ。如月君的には、こっちとこっち、どっちが大人っぽい?」

黒のフレアスカートと白のサブリナパンツを見せながら聞くと、淳也は、考える仕草をしてから、人差し指を立てて言った。

「上に合わせる物に因るっすね。例えば…」

近くにあった花柄で、肩の部分が、少し空いたボレロのような服と白のノースリーブを持った。

「上が柄物なら白のサブリナ。逆に、無柄なら黒のフレアか柄物のスカートとかの方がいいっすね」

淳也が私の持つサブリナとフレアに、それぞれを合わせると、確かに、両方とも大人っぽく見える。

「如月君って、こうゆうのは凄いよね」

「なんか、褒められた気がしねっすよ?」

苦笑いしながら、持っていた服を片付ける淳也を尻目に、私は、近くのハンガーラックに掛けてある服を見ていた。

「先輩も、なんか着てみたら、どうすか?」

「え~。いいよぉ。私、こうゆうの似合わないし」

そう言うと、淳也は、何かを考えるように、指で顎に触れ、閃いたように、私に向き直った。

「じゃ、俺が先輩をコーデするのは、どうすか?」

「やだ」

速答すると、淳也は、私の隣に並んだ。

「なんですか?いいじゃないすか。コーデさせて下さい。お願いします」

「ちょ!!」

土下座しそうな勢いで、頭を下げた淳也のおかげで、周りから、冷たい視線が、飛んできた。
私は、慌てて、淳也の肩を掴んだ。

「こんな所でやめてよ。頭上げて」

「いいって言うまで上げねっす」

「分かったから。やっていいから」

「うっしゃ」

頭を上げて、ガッツポーズした淳也は、ハンガーラックや棚に並ぶ服を手に取り、私に合わせ始めた。
鼻唄を歌いながら、服を選ぶ淳也に、私は、溜め息をついた。

「何なら、メイクとかもして欲しいっすね」

「やだよ。めんどい」

また頭を下げようとした淳也の腕を掴んで、下を向いて、大きく溜め息をついてから言った。

「分かったから、それやめて」

「あざっす」

嬉しそうに笑う淳也が、恐ろしく思えた。
それから淳也が、悩むに悩んで、選んだのは、小さな淡い色の花柄フレアスカート、袖の部分がシースルーになってる黒のブラウスだった。

「んじゃ、待ってるんで」

ニコニコと笑ってる淳也に、私は、溜め息をついて、試着室に向かい、靴を脱いで上がり、カーテンを締めた。
渡された服に着替えてから、カーテンを開けると、目の前に淳也が立っていた。

「いいっすね。あと、これもっす」

そう言って、淳也が広げて見せる、白のロールアップジャケットを受け取ろうと、手を伸ばした。
だが、淳也は、靴を脱ぐと、試着室に入り、私の後ろに回った。
ジャケットを広げたまま、袖を通すのを待っていた。
私は、鼻で溜め息をついて、ジャケットに袖を通し、向き直ると、淳也は、満足そうに笑った。

「満足?」

「そっすね」

「じゃ、着替えるよ」

「何言ってんすか?」

試着室から出て、靴を履きながら、私に向き直った淳也は、カーテンを掴んだ。

「いやいや。だから、元に戻るのよ。離して?」

「ダメっす」

「何故に?」

「さっき言ったっすよ?メイクとかもって。そのまま着てくすよ。すみませ~ん」

手を上げて、店員を呼ぶ淳也のカーテンを掴んでいる腕を掴んで、カーテンを締めようとした。
だが、阻止されてしまい、締められずにいると、店員が来てしまった。

「はい」

「着てくんで、タグ、切ってもらっていいすか?」

「分かりました。ちょっとお待ち下さいね」

店員が、レジカウンターの方に向かうのを確認して、淳也に顔を近付け、小声で言った。

「ちょっと!!何勝手に進めてんのよ!!」

「いいじゃないすか。似合ってるんすから」

「そうゆう問題じゃないでしょ?」

「お待たせしました。これ、使ってください」

「どもっす」

さっきの店員が、ハサミとお店のロゴが入ったショップ袋を持って、戻って来ると、ショップ袋を淳也に渡した。

「失礼します」

淳也が、着ていたパーカーやジーパンをたたみながら、ショップ袋に仕舞っている間に、店員は、試着室に入り、服からタグを切って、試着室から出た。

「あと、これもいっすか?」

そう言って、店員にポーチ型のショルダーバックと白のバレーシューズ型の靴を差し出した。

「すぐ使いますか?」

「そっすね」

「じゃ、タグだけ切りますね」

そう言って、タグを切って、店員は、レジカウンターに向かった。
ポケットに入ってた携帯とお財布を入れて、ショルダーバッグを置き、試着室の前に靴を置くと淳也は、着てきた服の入ったショップ袋を置いて、レジカウンターに向かって、行ってしまった。

「ちょっと待って!!」

急いで、靴を履き、ショップ袋とショルダーバッグを掴んで、淳也を追いかけながら、お財布を取り出した。
だが、淳也は、支払いを終え、店員からレシートとおつりを受け取っていた。

「あと、半分出すから」

「いっす」

淳也は、おつりと一緒にレシートをお財布に入れて、私に向き直り、ショップ袋を奪うように取ると、お店の出入口に向かった。

「ちょっと待ってよ!!」

淳也を追って、お店を出て、隣に並んで見上げた。

「なんで?」

「何がすか?」

「お金。なんで?」

「あぁ。ちょっと早いすけど、誕生日プレゼントっす」

真っ直ぐ歩く淳也を横目で睨んだ。

「いくらしたのよ」

「二万くらいすかね」

想像してたのより、倍の金額に驚き、私は、淳也を見上げながら、腕を掴んだ。

「高すぎるよ!!半分は払うから」

「いっすよ」

「ダメ」

「ホントにいっすから」

「ダメだって」

「じゃ…」

急に立ち止まり、私に顔を近付け、鼻がぶつかりそうな距離で、淳也が言った。

「今日一日、俺の彼女で」

一瞬、私の思考が停止し、再起動してから、淳也の言ってる事を理解すると、私は顔を離した。

「何言ってんのよ。そんなんで、済む問題じゃ…」

「じゃ、満さんと忍さんに言うっす。金山先輩に脅されて、拉致られたっすって」

ニコニコと笑う淳也とは違い、私は、青ざめていた。
そんなことを二人に言ったら、何を言われるか分からない。
酷い時は、貴子さんと巴さんのオモチャにされかねない。
逃げ場を失った私は、溜め息をついて、頷くしか出来なかった。

「分かった。今日だけね」

「うっす。あざっす」

小さくガッツポーズをしてから、手のひらを向けた淳也を見つめてから、その手を握って、引かれるように歩き出した。
その後、淳也に連れられ、有名なヘアメイクサロンに入り、受付の店員が、こちらに気付いた。

「いらっしゃいませ」

「予約してた如月っす」

いつの間に、予約なんかしてたのか。
店員は、パソコンを操作して確認すると、営業スマイルをして、淳也に向き直った。

「こちらへどうぞ」

店員について行く淳也に、また手を引かれ、店の奥に進み、大きな三面鏡の真ん中にある椅子に座らせられた。

「今日は、どのようにしますか?」

肩にケープを掛けながら、店員に聞かれ、淳也は、鏡に写る私を見つめて、髪に触れた。

「そっすね。今日の服装に合わせてもらえればいいっすよ」

なんで、お前が答えるんだ。
そう思いながら、仏頂面で鏡越しに淳也を睨むと、店員は、クスクスと笑って言った。

「かしこまりました」

店員が、道具が置かれたカートから、クリーム状のファンデーションを手に取った。
淳也は、私の肩に手を置いて、鏡越しに見つめ、顔を私の横に出した。

「あっちで、待ってるんで」

「はいはい」

投げやりに返事をすると、淳也は、私の頭を一撫でして、背中を向けて、出入口の方に去っていった。

「それでは、始めますね?」

「お願いします」

あまり手入れをしてない私の顔に、ファンデーションを乗せて、メイクを始めた。

「彼氏さん。お優しいんですね」

目を点にして、鏡越しに店員を見つめると、店員は、クスクスと笑いながら、眉毛を整えた。

「恋人の為に、ご予約される方は、いらっしゃらないんですよ?」

「勝手に予約してただけですよ」

「そうなんですか?でも、いいじゃないですか。それだけ、想ってもらえてるんですから」

そう言いながら、アイラインを引いて、店員が、アイシャドーを手に取ったのを確認し、私は、静かに目を閉じた。

『想ってもらえてるんですから』

想うってなに。
サロンを予約する事なのか。
高い服を買ってくれる事なのか。
違う。
私は、知ってる。
私の事を本当に大切にして、本当に想ってくられる人が、ちゃんといる。
夜の仕事で、疲れてるはずなのに、私の為に、朝起きて、必ず朝食を作って、仕事に集中出来るように、洗濯をしてくれて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。
素直に甘えてくれる人。
甘えさせてくれる人。
私が綺麗に着飾らなくても、可愛いと言ってくれる人。

「終わりました」

目を明け、鏡に写る私は、まるで別人だった。
山崎さんに見せたいな。
そう思うと、自然と微笑みが漏れた。

「ありがとうございます」

鏡越しに店員を見て、お礼を言うと、店員も、自然な微笑みで、頭を下げた。
椅子から立ち上がり、出入口の方に行くと、淳也は、受付の前にあるソファーに座って、携帯をいじるのに夢中になっていた。
受付にあるレジに向かい、お財布を取り出し、会計をしてから、目の前に立って、やっと、私に気付いた淳也は、口を半開きにした。

「どうよ」

得意気な顔で、見下ろして聞くと、淳也は、ただ静かに頷いた。

「行こっか」

「う…うっす」

やっと、声が出た淳也が立ち上がり、お財布を出そうとして、私は、クスクスと笑って言った。

「もう払ったから」

ボーッとする淳也を置いて、先にサロンを出ようした。

「あ!!待って!!」

「ありがとうございました」

お財布を仕舞いながら、隣に並んだ淳也を見上げた。
私は、淳也に悪いと思いながらも、隣に並ぶのが、淳也ではなく、山崎さんだったら、よかったなと思った。
サロンを出てから、暫く、歩くと、緑が、綺麗な少し大きめの公園があった。
なんとなく、その公園に入り、ゆっくり歩いた。

「先輩は、好きな奴っているんすか?」

「急になに?」

「いや。なんとなくっす」

「いるよ」

そう答えると、淳也は、驚いた顔をして、空を見上げる私の横顔を見つめた。

「意外?」

「あ…いや。いるんなら、こんなことしてたら、まずいっすよね」

「まずい…か」

私の心が、どこか遠くに飛んでいく。
体を重ね合い、笑い合い、穏やかで充実して、隣にあった山崎さんの優しい微笑みが欲しい。
だが、あの日、私は、自分で全てを壊したんだ。
淋しくて、空しくて、悲しくて、苦しい。
なんで、私は、素直に自分の気持ちを伝えられなかったのか。
なんで、私は、あの日に謝れなかったのか。

「先輩?大丈夫すか?」

いつの間にか、顔を歪めていたらしく、淳也に視線を向けると、心配そうな顔をしていた。
そんな淳也に向けて、微笑みを浮かべたが、逆効果だった。
淳也の顔が、悲しそうに歪んだ。

「分かったっす」

淳也から視線を反らして、遊歩道を歩き出すと、すぐ淳也が、そう言って、私は、立ち止まり、淳也に振り向いた。

「分かったっすよ。俺、やっぱ、元カノが言ってた通り、別に好きな人がいたんっす」

「ふ~ん」

「ねぇ。先輩。俺、先輩が…」

「ごめんね」

真剣な顔の淳也が、告白しようとするのを遮り、私は、淋しく笑った。

「なんですか?」

体の横にぶら下げるようにしていた手を握り締めて、肩を微かに震わせながら、淳也は、哀しそうな顔をして、私を見つめた。

「俺は、先輩に、そんな顔、絶対、させないっす!!そんな淋しそうで、哀しそうな顔させないっすから。俺と…」

「無理だよ。今の関係を壊したくない」

顔を歪め、私の肩を掴んで、顔を近付けようとした淳也の胸元を押し返し、私は、足元に視線を向けた。

「なんで…」

肩を掴む淳也の指が食い込んで、私は、痛みに顔を歪めた。
暫く、肩に食い込む痛みを耐え、手から力が抜け、淳也は、囁くように言った。

「そいつの…どこがいいんすか」

目を閉じ、山崎さんを思い浮かべ、私は、静かに言った。

「仕事で、疲れてるはずなのに、私の為に、朝起きて、必ず朝食を作って、仕事に集中出来るように、洗濯をしてくれて、素直に甘えてくれて、甘えさせてくれて、私が着飾らなくても、可愛いと言ってくれて、私を本当に大切にしてくれて、私の事を本当に想ってくれて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。今は、気持ちが分からないけど、きっと、いつかは、分かり合いたいと思ってる。初めて、本気で好きになったの」

山崎さんへの想いを吐き出すように、一つ一つを確かめるように、自分に言い聞かせるように、大切な想いを淳也は、静かに聞いて、黙ったまま手を離した。
無言のまま、公園を一周してから、コインパーキングに向かって歩いた。
気まずさよりも、私は、淳也に悪い事をした罪悪感で、顔を上げられなかった。
淳也は、何かを考え込んでいるようだった。
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