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17.この夜に
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樫野は毎日仕事が終わったあと、その足で療養所にやってくる。
昼に来られるときもあれば、夜遅い時間のこともあった。
訪問が夜になったときは、那智がベッドに入るまで一緒にいる。
その日会ったことを互いに報告するだけの逢瀬だったが、静かで、満ち足りた時間だった。
「カーテン、どうする?閉めとく?」
ベッドに横になった那智に聞くと、那智は「そのままでいい」と言った。
「眠れない気がするから、飽きるまで外を眺めてる」
「そうか。じゃあ、那智、また明日…」
毛布の上に出した那智の手の甲に自分の手を重ねて、部屋を出て行こうとする樫野を、那智は呼びとめた。
「樫野」
「なに?」
「今日、かあさんが来たんだ」
「お母さんが?」
さっきはそんなこと、言ってなかった。
そのせいか、ひどく云い難そうに、那智の声は重い。
「それで、どうしたの」
那智が入院することは、もちろん事務所を通じて母親に連絡がいっている。
マネージャーの里美は直に会って、那智に会うことを勧めたと聞いていた。
けれど那智の母親は息子に会うことを拒んだという。
合わす顔がない、と言ったと。
「なんでかなあ。かあさん、オレに謝るんだよ、ごめんね、ごめんねって。オレ、なんのことかわからなくて、本当に、わからなくて、そう言ったんだ。そしたら、かあさん、ひどく泣いた」
泣きながら詫びなければならないことを、那智の母親はしたと思う。
樫野は、那智の母親を許していない。当然だと思う。
「オレは、みんなを傷つけてるんだなと思った」
「那智……」
そうじゃない、傷つけられたのはおまえの方だ。
そんな罪悪感、感じる必要なんてない。
けれど、受けた傷を綺麗に忘れることに成功した那智に、それは言えない。
「樫野…おまえのことも」
自分を責めるように苦しそうな表情で見つめてくる那智に、樫野は首を振った。
「オレは、少しも傷ついてなんかいないよ」
「おまえに、頼みがある」
不意に、強い口調で那智が言った。
ベッドの脇に立って、樫野が聞く。
「なに、那智」
「もし、オレが、みんな忘れたら、もうここには来ないで欲しい」
すぐには言葉が返せない。
驚くよりも、悲しくなった。
「樫野も、オレのことを忘れて、出来れば、別の人を好きになって、それで幸せになって欲しい」
「どうしてそんなこと、言うの」
「オレだけが忘れるなんて、フェアじゃないだろ。だから、樫野も、オレのことを忘れていい」
「そんなこと、出来るならそうしてもいい。だけど、オレには無理だ。いくら那智の望みでも、聞いてやれない」
いつから泣くのを我慢していたのか、涙は流れはじめると止まらなくなった。
那智は、とうとう両手で顔を覆って嗚咽した。
「…違う…オレは…樫野を、縛りたくない…んだ。オレのことなんか…さっさと忘れて…樫野は好きなように…生きればいい…」
樫野は、ベッドの端に浅く腰掛けて、上体を屈めて那智の耳元で言いながら、慰めるように肩を撫でた。
「側にいたいのは、オレがそうしたいからだ。那智はオレのことをまだわかってないの」
那智の嗚咽はおさまらない。
「那智、もうオレのことや他人のことで泣くなよ。自分のためになら、いくらでも泣いてもいいから。だけど、泣くときはオレの前で泣いて欲しい。一人で泣くのはだめだ。オレの前で…だけ…」
樫野は、自分の顔を覆う那智の両手をそっとどけ、涙に濡れた顔を真上から見下ろした。
痛々しくて胸が切ない。
けれどそれ以上に、愛しくて、切ない。
唐突に、那智を好きだと気づいたときのことを思い出した。
あの時も、苦しかった。
誰かを好きになって苦しいと感じたのははじめてだった。
何も考えずに、樫野はそのまま上体を屈めて、那智の頬の涙を吸い取るように口づけた。
右頬に、眦に、瞼に、優しい触れるだけの口づけが続く。
那智は、目を閉じて、樫野の想いを受け止めた。
傷口に触れ、癒すような樫野の思いやりに、自分はどれだけ応えているのだろうと思うと、新しい涙が溢れる。
その涙が樫野のための涙なのか、自分のための涙なのか、もうわからない。
考えるのをやめ、那智は投げ出していた両腕を、樫野の首に回した。
「那智…」
腕の力を強めて、引き寄せるような動作をする。
樫野の耳の側に自分の唇を寄せ「帰るな」と言った。
樫野が戸惑って顔を見ると、那智は迷いのない真っ直ぐな視線で見つめ返してくる。
その視線が何を意味するのか理解して、樫野は「いいの?」と聞く。
那智は頷いた。
樫野は大きく息を吸い込んで呼吸を整え、ゆっくりベッドに乗り、そっと那智の身体に重なるように身体を横たえて、那智を抱きしめる。
「夢みたい…」
「樫野…」
しばらく服を着たままベッドの上でじっと抱き合ったあと、樫野が起き上がって言った。
「看護士さんに、今日泊まっていくって言ってくる。あと、ヤバイとこ見られないように、回診も断っておくな。それから、風呂借りてくる」
冗談めかして軽口を言いながらも、離れることを惜しむように那智の頬に手で触れてから、樫野は一旦病室を出て行った。
風呂に行く、と言って病室を出た樫野の気配が、ドアの向こうにまだいるような気がした。
樫野は迷っているのかもしれない。
那智も、迷っていた。
今夜、抱かれることが、樫野の気持ちに応えることになるとは思わない。
樫野に抱かれても、明日には覚えていないかもしれないし、それはとても残酷なことだ。
本当に樫野のことを想うなら、抱かれない方がいいのだろうかとも思う。
今夜のことが、樫野にだけ、重荷になるかもしれない。
けれど。
わかっているのに、どうしようもなく樫野に愛されたい。
今にも消えてしまいそうな自分を、抱きしめて欲しい。
樫野に愛されたい。
過去と未来の何年分の想いを、この夜に閉じ込める。
昼に来られるときもあれば、夜遅い時間のこともあった。
訪問が夜になったときは、那智がベッドに入るまで一緒にいる。
その日会ったことを互いに報告するだけの逢瀬だったが、静かで、満ち足りた時間だった。
「カーテン、どうする?閉めとく?」
ベッドに横になった那智に聞くと、那智は「そのままでいい」と言った。
「眠れない気がするから、飽きるまで外を眺めてる」
「そうか。じゃあ、那智、また明日…」
毛布の上に出した那智の手の甲に自分の手を重ねて、部屋を出て行こうとする樫野を、那智は呼びとめた。
「樫野」
「なに?」
「今日、かあさんが来たんだ」
「お母さんが?」
さっきはそんなこと、言ってなかった。
そのせいか、ひどく云い難そうに、那智の声は重い。
「それで、どうしたの」
那智が入院することは、もちろん事務所を通じて母親に連絡がいっている。
マネージャーの里美は直に会って、那智に会うことを勧めたと聞いていた。
けれど那智の母親は息子に会うことを拒んだという。
合わす顔がない、と言ったと。
「なんでかなあ。かあさん、オレに謝るんだよ、ごめんね、ごめんねって。オレ、なんのことかわからなくて、本当に、わからなくて、そう言ったんだ。そしたら、かあさん、ひどく泣いた」
泣きながら詫びなければならないことを、那智の母親はしたと思う。
樫野は、那智の母親を許していない。当然だと思う。
「オレは、みんなを傷つけてるんだなと思った」
「那智……」
そうじゃない、傷つけられたのはおまえの方だ。
そんな罪悪感、感じる必要なんてない。
けれど、受けた傷を綺麗に忘れることに成功した那智に、それは言えない。
「樫野…おまえのことも」
自分を責めるように苦しそうな表情で見つめてくる那智に、樫野は首を振った。
「オレは、少しも傷ついてなんかいないよ」
「おまえに、頼みがある」
不意に、強い口調で那智が言った。
ベッドの脇に立って、樫野が聞く。
「なに、那智」
「もし、オレが、みんな忘れたら、もうここには来ないで欲しい」
すぐには言葉が返せない。
驚くよりも、悲しくなった。
「樫野も、オレのことを忘れて、出来れば、別の人を好きになって、それで幸せになって欲しい」
「どうしてそんなこと、言うの」
「オレだけが忘れるなんて、フェアじゃないだろ。だから、樫野も、オレのことを忘れていい」
「そんなこと、出来るならそうしてもいい。だけど、オレには無理だ。いくら那智の望みでも、聞いてやれない」
いつから泣くのを我慢していたのか、涙は流れはじめると止まらなくなった。
那智は、とうとう両手で顔を覆って嗚咽した。
「…違う…オレは…樫野を、縛りたくない…んだ。オレのことなんか…さっさと忘れて…樫野は好きなように…生きればいい…」
樫野は、ベッドの端に浅く腰掛けて、上体を屈めて那智の耳元で言いながら、慰めるように肩を撫でた。
「側にいたいのは、オレがそうしたいからだ。那智はオレのことをまだわかってないの」
那智の嗚咽はおさまらない。
「那智、もうオレのことや他人のことで泣くなよ。自分のためになら、いくらでも泣いてもいいから。だけど、泣くときはオレの前で泣いて欲しい。一人で泣くのはだめだ。オレの前で…だけ…」
樫野は、自分の顔を覆う那智の両手をそっとどけ、涙に濡れた顔を真上から見下ろした。
痛々しくて胸が切ない。
けれどそれ以上に、愛しくて、切ない。
唐突に、那智を好きだと気づいたときのことを思い出した。
あの時も、苦しかった。
誰かを好きになって苦しいと感じたのははじめてだった。
何も考えずに、樫野はそのまま上体を屈めて、那智の頬の涙を吸い取るように口づけた。
右頬に、眦に、瞼に、優しい触れるだけの口づけが続く。
那智は、目を閉じて、樫野の想いを受け止めた。
傷口に触れ、癒すような樫野の思いやりに、自分はどれだけ応えているのだろうと思うと、新しい涙が溢れる。
その涙が樫野のための涙なのか、自分のための涙なのか、もうわからない。
考えるのをやめ、那智は投げ出していた両腕を、樫野の首に回した。
「那智…」
腕の力を強めて、引き寄せるような動作をする。
樫野の耳の側に自分の唇を寄せ「帰るな」と言った。
樫野が戸惑って顔を見ると、那智は迷いのない真っ直ぐな視線で見つめ返してくる。
その視線が何を意味するのか理解して、樫野は「いいの?」と聞く。
那智は頷いた。
樫野は大きく息を吸い込んで呼吸を整え、ゆっくりベッドに乗り、そっと那智の身体に重なるように身体を横たえて、那智を抱きしめる。
「夢みたい…」
「樫野…」
しばらく服を着たままベッドの上でじっと抱き合ったあと、樫野が起き上がって言った。
「看護士さんに、今日泊まっていくって言ってくる。あと、ヤバイとこ見られないように、回診も断っておくな。それから、風呂借りてくる」
冗談めかして軽口を言いながらも、離れることを惜しむように那智の頬に手で触れてから、樫野は一旦病室を出て行った。
風呂に行く、と言って病室を出た樫野の気配が、ドアの向こうにまだいるような気がした。
樫野は迷っているのかもしれない。
那智も、迷っていた。
今夜、抱かれることが、樫野の気持ちに応えることになるとは思わない。
樫野に抱かれても、明日には覚えていないかもしれないし、それはとても残酷なことだ。
本当に樫野のことを想うなら、抱かれない方がいいのだろうかとも思う。
今夜のことが、樫野にだけ、重荷になるかもしれない。
けれど。
わかっているのに、どうしようもなく樫野に愛されたい。
今にも消えてしまいそうな自分を、抱きしめて欲しい。
樫野に愛されたい。
過去と未来の何年分の想いを、この夜に閉じ込める。
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