スリーピングドール

フジキフジコ

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19.別れ

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「大分悪くなってます。多分、あなたのこともわからないと思いますが、くれぐれも彼の前で取りみださないでくださいね」

中庭にいるという那智に会うために廊下を歩きながら、案内の看護士にそんなふうに念を押された。

「那智くんは、もう自分のこともわからないんですか?」
「まだかすかに。記憶が、安定してないようです。でも、もう時間の問題かもしれません」

別館に繋がる渡り廊下から、中庭のベンチに座っている那智が見えた。
「自分の病気のことに関しては、もう理解していません。そのせいで、精神的には以前よりずっと落ち着いてますよ。さあ、どうぞ」

促されるように背中をそっと押され、悠希は一歩を踏み出した。
少し躊躇ってから、大股に歩いて那智の側に近づく。

「那智くん」
驚かさないように背中からそっと呼びかけると、那智は振り返った。

久しぶりによく晴れた、秋の高い空を映していた瞳のまま、悠希を見つめる。
それは悠希のよく知っている、琥珀色の美しい瞳で、那智のどこも以前と変わりはない。

それなのに、那智は悠希をしばらく見つめたあと、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、誰だっけ」
覚悟は出来ているつもりだったのに、一瞬、言葉を失った。

「悠希、だよ。那智くん」
胸の痛みをこらえて、悠希は那智に自分の名前を告げる。
「ユウキ?」
那智は、首を傾げながら、その名前をはじめて口にするような表情で、繰り返した。

はじめてじゃない。
何度も、何度も呼ばれた。
笑いながら、時には怒りながら、名前を呼んでくれた。

「ユウキは、もしかして、樫野の友達?」
「え?あっと、そんなところかな。隣に座ってもいい?」
「うん」

無邪気な笑顔は子供のようだ。
那智のこんな表情は見たことがなかった。
悠希にとって那智は、決して弱音を吐かない、強くて頼りになる、いつでも自分を守ってくれる、そんな存在だった。

もしかしたら、今の那智が、本当の那智なのかもしれない。
那智は、自分たちの前で、無理をしていたのだろうか。
自分たちは、那智が限界を超えてしまうまで、無理を強いていたのだろうか。

後悔が押し寄せては心を揺さぶる。
それでも、精一杯の努力をして、悠希は自分を認識していない那智に笑顔を向けた。

「樫野には友達がたくさんいるんだな。ケイタ…」
「圭太?」
「うん、ケイタも樫野の友達で、さっき、来てくれた」
「そう。あいつ、煩かったでしょう」

言うと、那智はくすっと笑った。
「那智くんは、樫野くんとは前から友達なの?」
「ん?うん、ずっと前から友達なんだって。オレはよく覚えてないけど、樫野がそう言ってたよ。オレの友達は樫野しかいないのかなあ、樫野にはたくさんいるのに」
「そんなことないよ。那智くんにも友達、たくさんいるよ。それに圭太も僕も、もう那智くんの友達だよ」

悠希を見て、那智は嬉しそうに笑う。
今度会うときもきっと、自分は那智に同じことを言うのだろう。
何度会っても那智にとって自分ははじめて会う人間なのだから。

どうして、と悠希は胸の中で呟く。
こんなに近くにいるのに、とても寂しい。
身体が空洞になってしまったような大きな喪失感を感じるのに、自分がいったい何を失ったのか、わからない。

「ユウキ?」
呼ばれて顔を横に向けると、那智が心配そうな顔をしていた。

「なんで、泣いてるの?」
言われるまで、自分が泣いていることに気づかなかった。
自覚すると、心は泣くことを許されたと思ったのか、溢れるように涙が零れる。

「…ご、ごめんっ」
那智に謝って、慌てて涙を手で拭う。
「どうかした?お母さんに叱られた?」
労わるように言われて、首を振る。
「友達と喧嘩した?」
「違う、違うんだ」

無理に笑顔を作って否定しても、那智はまだ心配そうに眉を寄せている。
「大切なものを失くしちゃって、とても、寂しいんだ」

悠希は、本当のことを言った。
那智にもう嘘をつきたくなかった。
那智はその言葉の意味がわかったのかわからないのか、神妙に頷いて、悠希の右手を、自分の左手で握った。

「那智くん?」
「オレも寂しいとき、あるよ。夜眠る前はとくにそう。なんだか不安で、すごく寂しいんだ。眠るのは、嫌だ。一人になるみたいで。そう言うと、樫野は手を繋いでくれる。どこにも行かないって、言ってくれて」

繋いだてのひらに感じる温もりは、寂しい心まで届くだろうか。
きっと、届くのだ。
那智は、ここにいる。
ここにいる。

共有する思い出を持たない那智に、悠希は自分のことをたくさん話した。
ドラマという新しい仕事をすることになったこと、台本を覚えるのはダンスの振りを覚えるより何倍も難しいこと、実家で飼っている猫が子猫を生んで悪戯に手を焼いているけど、とても可愛いこと。
那智は微笑しながら、悠希の話をとても楽しそうに聞いてくれた。

「オレそろそろ帰らなくちゃ」
そう言うと那智は、少し寂しげな表情をした。
「また、来るから」

ベンチから立つと、那智も一緒に立ち上がった。
背中を見せたくなくて、後ろ歩きで那智の側を離れ、小さく手を振って、思い切って振り返った瞬間に、那智の声が聞こえた。

「悠希、帰り、車の運転気をつけろよ」
「那智くん!」

驚いて、悠希は振り返った。
聞き間違いじゃない、那智は、今、悠希を悠希と認識していた。
免許証をとったばかりの悠希の運転を、いつも心配してそう言っていた口調と同じだった。

途端にまた熱い想いが込みあげてきて、那智に走り寄りたい衝動にかられた。
駆け寄って、泣いて、縋りつきたい。
今すぐ戻ってきて、と。
僕たちのいる場所に、戻ってきて!
手の届かない場所に行こうとするのはやめて。
どんな手助けでもするから、戻ってきて!

でもそれは那智には言ってはいけない言葉だった。
悠希は乾いた頬にまたこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえて、今度はちゃんと笑って見せた。

わかってる、もう一度振り向いた瞬間にきっとまた泣いてしまうこと。
「ありがとう。那智くん、またね」

けど、今度会うときこそ、オレのこと覚えてないんだね。

さようなら、那智くん。
ありがとう。
別れを、胸の中でしか云えないことが辛かった。




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