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ドラゴンの季節
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しおりを挟む彼女のことを母に言うべきか、俺は真剣に悩んだ。彼女と知り合って半年ほどが経ち季節は夏に差し掛かろうかというところ、俺とシルビアは互いに違う訓練メニューをこなしながらもほとんど毎日早朝のラジオを欠かさなかった。もうあの曲はその時間には流れなくなったけれど、それでも俺たちの約束は続いた。音楽を教わる代わりに、俺は今まで読んできた本について様々なことを教えた。母の翼の中で得た数々の知識。彼女はどれも楽しんで聞いてくれていたように思う。その絶景を生み出すきっかけとなってくれた母に、俺は何を言うべきか。女の子に関しての相談なんてしたことがない。俺は母がどんな恋愛をしてきたかも知らない。無知を笑われたりしないか。母に限ってそんなことはないだろうけれど、万が一のことを思うと怖くなった。
今日はいつもの訓練三昧の日とは違い、午後に少し外出の予定がある以外何もない日だった。母の顔には日に日に疲れが見えてきている。毎日のように俺に付き添い訓練を見てくれているのだから無理もないだろう。前は少しあった父母同士の会話も今は無いに等しい。
昼下がり、僅かに日の射す狭いダイニングで、俺は母と二人でいた。母は机に本を広げ、俺の向かい側の椅子で何も喋らずにそれを読んでいる。やはりその顔は数ヶ月前よりも元気がない。俺はずっと気が済まないでいた。
自分本位の考え方は良くないかもしれない。しかし、母になら少しくらい甘えてもきっと許されるだろう。自分の中で踏ん切りをつけて、俺は言った。
「母さん」
しばらく静寂だった空間に、ぽつんと響く声。母は一度俺に目を見やった後、また手元の本に視線を戻して言う。
「どうしたの?」
「好きな子、できたかも」
「え?」
母の驚いた表情。緊張すると同時にわくわくした。ようやくシルビアのことを打ち明けられて、母がどんな反応をするのか楽しみだった。――なのに、どうしてそんなに悲しそうな顔をするのか。俺は無意識の内にそれを見て見ぬ振りをして言った。
「いや、正直、自分でもまだよくわからないんだけど…………」
そんなはずはない。シルビアへの気持ちはもうずっと前から気付いている。こんな風に誤魔化しながら言うのは、俺にまだすべてを打ち明ける勇気がないからだ。
「毎朝会ってたのはその子?」
母は言う。驚いた。今まで朝の外出に言及されたことなんて一度もなかったのに。
「知ってたの?」
「お父さんに言い訳するの、大変だったんだから。感謝してほしい」
やはり母には適わない。そもそもみんな同じ部屋に寝ているのだから、いつまでも気付かれないわけにはいかなかった。母が先に気付いてくれただけまだ良かったのかもしれない。
「そうだね、ごめん。ありがとう」
俺は言う。母は何も言わずにまた本の世界へと戻っている。――何かがおかしい。少し前の母なら、その女の子について根掘り葉掘り訊いてくれていたに違いないのに。
「それで、どうすべきか相談したかったんだけど…………」
「わからないなら何もしないべきよ。その方がお互いにとって良い」
母はまるで俺の言葉を予期していたかのように言った。まさかそんな風に言われるなんて思ってもみなかった。母は常に俺の意見を尊重してくれていた。彼女自身の意見を俺に押し付けたことなんて一度もなかったし、ましてやこんな具合に適当に会話を投げ出すなんて。
「でも、俺たちすごく気が合うんだ。俺が勧めた本にも嵌ってくれてるし」
本当は初めから答えなんて出ている。俺はただ、母に背中を押してもらいたかっただけだ。
「…………」
それなのに、母はまたも無言になった。俺はその口が開くのを待つことしかできない。
「私はあなたに幸せになってほしいと思ってる。わかるでしょ?」
母は神妙に言う。俺はうなずく。
「なら、ちゃんと私の言うことを聞いて、大人になる準備を進められる。そうよね?」
「気持ちは伝えるべきじゃないってこと?」
「そんなのは好きにしたらいい。あなたがしたいのなら」
やはり今日の母はおかしい。話の要点もつかめないし、そもそも俺の悩みを真剣に考えてくれているとも思えない。
「ねぇ、母さん。ちょっと……疲れてる?」
母は本をパタリと閉じ、立ち上がる。
「さぁ、行きましょう」
「どこに行くの?」
「今日の訓練。早く支度しなさい」
午後に一つだけ入っていた予定。そういえばもうそんな時間だったか。
「ああ、うん」
納得ができないまま俺は椅子から立ち上がる。この日は訓練前に入念に体を洗っておけと言われていた。俺は母が用意してくれていた柔らかいタオルにキッチンの水を染み込ませ、体を拭く。言われた通り、翼の根元から脚の爪先まで入念に。
家を出て母さんに付いていく間、彼女は一言も喋ってはくれなかった。翼を使わずに徒歩で向かっていることを考えるとそこまで遠いところを目指しているわけではないのだろうけれど、以前なら訓練の詳細は事前に教えてくれていたはずだ。一体彼女に何が起きている?
「あ……」
同じ外装の建物を次々に横切って行く最中。道の真ん中を流れている水辺を跨いだ橋のところで、俺はその姿を見た。シルビアだ。まさかこんな時間に会えるなんて。近くには市場があるし、買い物にでも来ているだろうか。
彼女もどうやら俺の存在に気付いてくれたようで、手を振ってそのまま駆け寄ろうとした。しかし母に連れられた俺が今まさに訓練の真っ最中だということは、誰の目から見ても明らかだ。彼女の足はすぐに止まった。そうして恐らく俺を気遣い話し掛けることはせず、無邪気な笑顔と共にエアギターのポーズをして俺を見送ってくれる。音楽と共にいるときの彼女はいつも幸せそうだ。俺は片翼をまっすぐに上に立て、挨拶を返すようにして軽く彼女へと振る。少しすかした態度だったかもしれない。しかし母もいるわけだし、ここで大袈裟にエアギターのポーズを返すよりは良かっただろう。彼女はまた街の喧騒へと紛れていく。
彼女を一目見ただけなのに、先ほどまでの悩みなんてどこかへ消えてしまったみたいに俺の心は昂っていた。少なくとも今日の訓練はこの高揚感があれば乗り越えられる。また後日、彼女にはお礼を言っておこう。君に会えたおかげであの日は良い一日を過ごせたのだと。
「中に入って」母は言う。
そこは何てことない一軒家だった。俺の住む家よりは一回り大きいように見えるけれど、壁や屋根の特徴はすべて同じ。これではますます何の訓練かわからない。
俺がその家の扉を潜る間、母は玄関口に立っていた大人の雄のドラゴンと何やら話していた。きっと俺の訓練についてのことだろう。家の中は薄暗かったが、これもまた電気の無駄遣いを好まないドラゴンにとっては日常茶飯事の光景だ。
「ほら、上がって」
話を終えた母に背中を押され、俺は中へと入り込んでいく。物の少ない内装を見るに普通の生活が営まれている感じはしない。となるとこの訓練用に作られた建物なのだろうか。
「準備はいい?」
母のその言葉に、俺は疑問を呈す。
「ねぇ、結局何すればいいの? それがわかんなきゃ準備のしようがないよ」
「あなたはただ耐えていればいい。それがあなたの将来のためになる」
母の様子は依然おかしい。まるで用意されたセリフをそのまま読み上げているみたいだ。
「母さん、俺、やっぱり……」
訓練が怖くなってきた。そう言えば母は俺に失望するだろうか。
母はある部屋の扉を開けた。花の絵がプリントされた横開きの、訓練という言葉で表すには煌びやかすぎるそれ。俺はその異質な光景にまた恐怖を覚えた。かといってそれを口に出す勇気もない。
扉の先の部屋は更に暗かった。廊下の薄暗さで目が慣れていなければ中のようすはまったく見えていなかっただろう。――むしろその方が良かったのかもしれない。そこに横たわっている大人の雌竜は、俺の脳の処理を追い越していた。
「母さん?」
俺は母の顔を見る。彼女は俺の目を見てくれない。
「そこに寝なさい」
そこ、というのはどこを指しているのだろう。この部屋に一枚しかない布団はその女性によって埋め尽くされている。
「あの人、何してるの?」
俺の疑問は晴れないまま、俺は更に背中を押される。
「ねえ、母さん――」
俺はその布団の上よりも、遥かに恐ろしい光景を真横に見た。
感情の消えた顔。そのときから既に、母は俺を愛してくれていた母ではなくなっていた。どうして気付けなかったのだろう。あの優しい母が変わってしまうだなんて、きっと俺が良い息子でいられていなかったからだ。でなければこんな意地悪をしてくるはずがない。俺が本気で嫌がることなんて、あの母がするはずないのに。
「さあ、早く」
母に促されるまま、俺はその女性の横に寝かされる。
俺は何も抵抗できなくなった。
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