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ドラゴンの季節
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しおりを挟むそこから先のことはよく覚えていない。ただ行為が始まる直前、頭に浮かんだのはシルビアの顔だった。俺は彼女に気持ちを伝えようとする気がなくなってしまった。そもそも今の俺にそんなこと許されない。彼女を侮辱したくはない。彼女が俺に応えてくれたとして、本当は初めから結ばれることはなかったなんて、そんなこと……。
次の日の早朝、俺は初めて彼女との約束を破った。彼女に会うのが憂鬱だった。それでも時間は止まってくれなくて、また次の朝はやってくる。いつまでも逃げているわけにもいかない。俺は重い足取りで約束の場所を目指す。
その光の下、俺はただ顔を伏せながら彼女を待った。季節は変わり空は既に白み出していて、もうその場所が世界でたった一つの光ということはない。野原と淡い光の、風のない静かな世界。「あ! 遅刻魔!」
やはり彼女はやってくる。いつも通りラジオを咥え、四つ足で心地の良いステップを踏みながら。
「遅刻……?」
「二十四時間の遅刻。あなたが約束を破るわけないもんね」
俺が昨日の約束をすっぽかしたことなんて、彼女は全然気にしていなかった。――どうして彼女の笑顔はこうも輝いているのか。俺は目を合わせていられなかった。付き合っているわけでもないのに罪の意識を感じるのは、きっと彼女が優しすぎるからだ。まるで昔の母のように。
彼女は俺の隣に座り、ラジオのチャンネルを操作しながら元気に話し出す。
「ねぇ、ブラックミールスが新曲出すって。半年振りくらい? 今度こそはさ、CD買おうかなって思うんだよね。知ってる? 何でも屋のミニデビルっていう種族がいて、彼らに頼めばドラゴンの里にも荷物が届くの」
「シルビア……」
「もちろん、リュウの分も頼んだげる。お金は出世払いしてくれればいいよ。超有名ミュージシャンにでもなってさ!」
それを聞いて俺は、更につらくなる。将来のことなんて考えていられない。今の俺にわかるのは、俺の中が暗闇ということだけ。
「俺たち、もう会うべきじゃないと思う」
「え?」
彼女は驚いている。それを嬉しいと感じた俺は、きっとまだ未練を捨てきれていない。こうなった以上、彼女を傷付けるかもしれない道はきっぱりと断ち切るべきなのに。
「何か、嫌なことでもあった?」
「…………」
俺の怪訝な態度に、彼女は優しさで返してくれる。だから俺は彼女に惚れたのだ。俺がどれだけ馬鹿を言っても、すべてを優しさに変えてくれるから。会話を好まなそうに感じた当初の第一印象からは考えられない。
いつもならラジオの音楽は流しっぱなしになる。電子の声や音楽をバックにしながら、俺たちは訓練のことや他愛もないことについて話すのだ。しかし今日、彼女はラジオの電源を消して、その電灯の下は静かなままだった。
「ねぇ。初めて会ったときのこと、覚えてる?」
その声だけが響く特別な空間。彼女は足下の草をいじりながら語り出す
「今だから言うけどさ。あのとき、結構つらい時期だったんだ。お母さんが死んじゃったの」
その唐突な話題で、死にかけていた俺の意識は少しだけ取り戻される。何を言うのが正解かわからなかったけれど、俺は絞り出して言った。
「それは……つらかったね」
「リュウに救われたんだよ」
予想外の言葉だった。その優しい微笑みで彼女は言う。
「毎日一緒にいてくれた。そのおかげで、私ってば本当、怖いものなしって感じだった。だから、私も恩返ししたい。リュウがつらいときに一緒にいてあげたいの」
「その優しさが、俺にはつらいんだよ」
咄嗟にそう言ってしまった。こんな言葉、彼女が望んでいるはずないのに。
「……どういう意味?」
予想通りの顔だ。困惑とほんの少しの怒りを含んでいる。
「なあ、君はこの先ひどい裏切りを受けたとして、本当に俺の下から離れないって誓えるのか?」
減らず口、とはまさにこのことを指すのだろう。さすがの彼女もどんどんと声が沈んできている。
「そんなの、わかんないよ。リュウの言ってること、全部がわかんない」
――俺が怖いのは、彼女が俺を好きでいてくれることだ。
俺は知ってしまった。ドラゴンの夫婦は互いが望んで生まれるものじゃなく、すべては上層部によって仕組まれている。この雲の街の繁栄を永遠にしたいがために、ドラゴン個人の意志を殺して組織的に種を繁栄させ続けている。母は父のことを愛してなんかいなかった。本の中で見るような純愛なんて、俺たちドラゴンには初めから無理だったのだ。
俺が気持ちを告白したとして、もし彼女が応えてくれたらどうなるだろう? いや、きっとそうなるに違いない。勘違いなどではなく、彼女は俺といる時間を心から楽しんでくれていると感じる。だからこそ俺はこの閉鎖された雲の下でもドラゴンのリュウでいられるのだ。しかし、俺たちが幸せになることはない。いつの日か絶対に別れが来て、そのとき彼女は心に深い傷を負うことになる。
どう転んでも結果が一緒なら、俺から離れるべきだ。それが一番賢い選択だし、彼女のためになる唯一の手段。
「君を愛してる」
だから俺は、最後に言いたいことを言った。
「え?」
また彼女を戸惑わせてしまっている。でも、これで最後だから。彼女ならきっと許してくれる。
「そんな……え?」
「さよなら」
何も言えない彼女を尻目に、俺は走り出す。
「リュウ!」
彼女が後ろで叫ぶ間、俺はただ夜明けの雲の下を走った。美しい朝焼けの景色なんて、全然目に入ってこずに。
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