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インサイド
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しおりを挟む学長室のある大学本棟の最上階。その廊下は妙に静かだった。廊下の壁一面に広がるガラス張りの窓からは付近のミューボウルの建物をすべて見渡せるけれど、やはりどこも正常な生活が営まれている感じはしない。世界一の音大が奏でていた煌びやかな学生生活はほとんど沈黙してしまったようにも見える。
その階から出るための階段やエレベーターを塞ぐようにしてみんなを待機させ、俺はケグと二人で学長室の扉の前に立つ。両開きで茶色い木製の、厳かな雰囲気を醸し出すそれ。かつてはバージン学長の手によってその管理が為されていた。
「いくよ」
俺はたくましい二本脚で立つケグに向かって言う。彼の顔には決意があったが、少し強張ったそれからは僅かな緊張も見える。しかし彼なら大丈夫だと俺も決意を固め、その扉を前脚で押す。
開けた瞬間から、辺りに花の芳香剤の香りが漂う。その広い空間に置かれた家具はどれもシックなものばかりだ。黒い木の本棚に観葉植物、チェス盤のような白黒のカーペット。そして客用の黒いソファを越えた先の正面にある、光沢のある木製デスクの傍に彼はいた。俺はそのまま部屋の中へと入り込んでいく。
「学長」
俺はその広い背中に声を掛ける。バージン学長よりも一回り大きな、スーツの上に黒いたてがみをなびかせたその男。彼は部屋の中に一つだけある窓から、沈んだミューボウルを見下ろしていた。彼はしばらくそのままでいた後、ゆっくりと振り向く。そうして強い既視感を持つたくましい顔つきとその姿が、とうとう俺たちの目に晒される。
「アーサー?」
ケグは俺の隣で疑問を浮かべながら言った。彼の言う通り、その男はブラックミールスのリーダー、黒のライオンであるアーサー・レオ・アレンの姿をしている。その強靭な肉体を包むスーツは今にもはち切れそうだ。恐らくはバージン学長の私物をそのまま流用しているのだろう。
「そうだ。俺こそが、アーサー・レオ・アレン」
その男は腕を広げて名乗る。その声も、まさしく俺たちがメディアを通して聞いてきたアーサーそのものだ。
しかし。
「もういいだろ、スプライト」
俺が男に掛けたその言葉でケグは更に戸惑う。当然かもしれない。記憶の中からその正体を暴いた俺ですら、実際にその姿を見なければ完全には真実を信じ切れない。
「いや……君をなんて呼ぶべきかは、正直わからない。でも、君の正体は知ってる」
俺は一呼吸置き、はっきりと言う。
「シェイプシフター。それが本当の君なんだろ?」
その男は鋭く凄みのある眼光で俺を睨んでいる。それに怯むことのないよう、俺は更に声を鮮明にしながら言う。
「昔読んだ種族図鑑に書いてあった。誰にでも何にでも姿を変えられる、希少な種族。体を自由に分裂できて、増殖もいくらだってできる。君は何百人もの学生に化けて、この大学に入学してた。スプライト・リブもその一人だったんだ」
彼がシェイプシフターなら、神隠しの事件とも辻褄がある。彼らに家族がいなかったのは当然だ。元々彼らの体は一つしかなくて、この大学の情報を集める役割だったスプライトも、恐らく元の居場所を思い出し本当の体へと戻っていった。そうして各箇所に散らばっていた彼らは、文字通り消えてしまった。今はアーサーの姿である、シェイプシフターの彼の中へと。
「ニーナとアーサーの動画も、あの洞窟で会った学長も。全部君がやったことなんだろ? どうしてみんなを貶めるような真似をしたんだ?」
推薦書の件に始まり、ニーナの暴露だってそうだ。彼は一体何人の学生を不幸に陥れたのか。
「どうしてあの基地を燃やすなんてことしたんだよ!?」
俺は叫ぶ。あの基地にどれだけの思い出があったか。俺が駆けつけていなかったら、閉じ込められていたケグとフリックはどうなっていたか。怒りはどうしたって抑えられない。
何を思ったか偽物のアーサーは自身の顔を掻きむしり、その姿を憎むように言う。
「お前らは何もわかっちゃいない」
彼の体は溶け出した。文字通り体が頭から崩れ、彼はアーサーだった何かへと変わっていく。スーツの中でぐにゃぐにゃに動く、灰色のセメントのような彼の体。その正体は徐々に形作られていく。
俺は初め、その姿が何を意味するのかわからなかった。黄色いくちばしに丸く澄んだ眼光、体を包む黒い羽毛と、頭と尻尾を包む白い羽毛。鳥類の自然種へと変わった彼の体は、来ていたスーツにところどころ隙間を作っている。
俺が何を言うまでもなかった。それが誰なのか、隣のケグが誰よりもよく知っていた。
「ミニィク?」
彼は言う。目の前の光景が信じられない。そういう感情を表情に携えながら。
「ずっと会いたいと思ってたんだ、ケグ」
ミニィクと呼ばれたその男は言う。こうなることはすべて予定通りだったとでも言いたげな、作られた笑顔で。
俺も、彼の姿が信じられない。
「本当に、ミニィクなのか?」
ケグの驚きは、震えとなってその声に表れている。彼は一歩、一歩とミニィクへと近付き、その翼をケグの翼へと伸ばす。
「でも、お前……ワシじゃなかったのかよ?」
「そうだったよ。昔はね。君といたときの俺は、完全に個性を確立してた」
ミニィクは言う。スーツに通した自身の大きな翼をセメントのような液体に変えながら、荘厳に語り出す。
「生まれたときから本当の自分がわからなかった。誰でも何にでもなれる。お前らにその苦しみが想像できるか?」
彼の姿はミニィクから変わり始める。スーツの中で動く物体からは薄茶色の毛が生え始め、やがて俺たちも馴染みのある彼女の姿が現れる。
ニーナ・ウエスト。うねりと揺らぎで形成されたその顔は、本人と寸分違わない。ミニィクはニーナとまったく同じ声で言う。
「できないよね? だってドラゴンは、生まれたときからかっこいい。カラスはみんなに忌むべき存在だって思われてる。それが私にとってどれほど羨ましいか。あなた達に耐えられる? 毎日違った自分に話し掛けられるの。本当の私を寄越せって、毎日。毎日」
……気持ち悪い。初めにそう思った。裸にぶかぶかのスーツを身に纏うその姿は、彼女の尊厳を傷付けているような気がして。
「そんな私が唯一自分を見つけられたのが音楽だった。あなたとコンビを組んでから、本当に毎日楽しかったよ。充実してた。本当の私はこれなんだって。音楽があったおかげで、私はずっとハクトウワシのミニィクでいられた」
ミニィクの姿はまた揺らぎ始める。その体はセメントのようになってから、今度は威厳のあるバージン学長の姿へと変わる。
「しかし、お前がしたことは何だ? 友を見捨てた結果、目立ったのはお前の歌ばかり。たった一言、俺の歌が素晴らしいと言ってくれればよかった。そうすれば俺は俺を見失わずにいられたんだ」
彼の言葉をずっと黙って聞くだけだったケグは、反論する。
「もし俺まで歌えなくなったら、二人とも主役を降ろされてた。ミュージカルは終わって、俺たちは離れ離れになってたはずだ」
その声には未だ震えが残っている。そんな彼の戸惑いを聞いていると、俺はどんどんとミニィクが許せなくなってくる。
ミニィクはバージン学長の声で言う。まるでケグの戸惑いがうつってしまったかのようにその声は震え、揺らいでいる。
「俺は主役の座なんていらなかった。例え失敗しても、お前とならやり直せると信じていたのに。お前はお前の手で、お前の歌で、ハクトウワシのミニィクを殺したんだ」
彼は頭を抱え、苦しみ出す。その手が触れたところから体はどろどろに溶け、徐々にバージン学長の面影はなくなっていく。それがバージン学長なのかアーサーなのか、はたまたニーナなのか。何を模そうとしているのかその意図すら見えなくなったとき、彼は叫んだ。
「「返セ! 私の中にあった大切なモン、全部!」」
様々な音が入り混じったその声。彼は最早誰でもない。
その葛藤から、苦しい人生を送ってきたであろうことは理解できる。しかし、だからといって俺の怒りが収まるわけではない。俺は彼に言う。
「ミニィク。君にどんな過去があろうと、俺は君のしたことは許せない。学長はどこにいる? もうこんなことは終わりにしよう。今すぐ暴走した学生たちを止めるんだ」
そのとき、苦しんでいたはずの彼のもがきはピタリと止まった。そしてセメントのような液体の中から、彼はぐちゃぐちゃになった二つの目で俺たちを睨む。その姿は既に生き物なのかもわからなくなっている。
「終わらないよ」
その声がどこから出ているのかもわからない。原形を留めない彼の体の下で、そのスーツは既に用途を為していない。
「僕が僕でいる限り、苦しみは続くんだ。ずっと。ずっと」
そのセメントのような液体は巨大化する。その質量が一体どこに秘められていたのかわからないほどに、彼の背は俺の頭の上を越え、この空間を埋め尽くしていく。
「なあ。お前たちを食えば、少しは正しい生き方もわかるのか?」
ミニィクの変貌は、俺がケグに注意を促すよりも早かった。その灰色の液体は、猫背で毛むくじゃら、人型で凶暴そうな怪物を形作っていく。やがてその巨大な足の爪先まで灰色の毛が生え切ったとき、ミニィクはその長い腕を大きく振り被った。
まずい。
俺の本能的な焦りは、叫びとなってケグに伝わる。
「避けろ!!」
ビッグフットとなった彼の攻撃は、学長室を破壊する。俺は何をするよりも先にケグの体を抱き、外に通じる茶色の扉を力任せに突き破った。
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