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マクレーン王国の終わりは、静かに。けれど、確実に訪れていた。
厄災は止まることを知らず、王国の各地では食糧と土地を巡る争いが頻発していた。もはや王政は機能せず、貴族たちは互いに利権を奪い合い、社会は崩壊の一途を辿っていた。
その話を耳にしたオフィリアは、深い憐れみとともに、静かに目を伏せた。
「仕方のないことだわ」
そうつぶやいて、自身を納得させるように息を吐く。彼らは神々に見放され、聖女をも捨てた。それは、もはや手の施しようがないのだ。
だから、彼女は遠い土地から祖国に向かって祈りを捧げた。
━━どうか、彼らが一日でも早くその過ちに気付きますように。
その時、ノックの音とともに、部屋に初老の医師が入ってきた。背中の傷の様子を確認しに来たのだ。
鞭打たれた傷は数カ月の時を経て塞がり、痛みもなくなった。今は念の為に一日に一度軟膏を塗るだけになっている。
そんなオフィリアの背中の傷を医師はじっくりと観察した後に、軟膏を塗った。
「痛みはもうありませんか?」
「ええ、大丈夫です」
オフィリアは答えると服を着る。
「では、本日をもって治療は終了となりますが……」
医師は、小さく唸った。
「癒しの力を使えば、痕は完全に消えます。本当に、よろしいのですか?」
オフィリアは、しばし黙してから、静かに首を振った。
「この傷は、私が背負うべき罪の証です。消してしまえば、きっと私はそれを忘れてしまいそうで怖いんです。だから、……このままでいいんです」
医師は神妙な面持ちで頷くと、何も言わずに退出していった。
診察を終えたオフィリアは、そっと立ち上がると、領主であるジョンのもとへ向かった。
以前、彼女が「治ったらお礼をさせてほしい」と言ったことを覚えていたジョンは、微笑んでこう言ったのだ。
「では、一度だけ、俺とデートをしてください」
その言葉にオフィリアは戸惑いながらも、頷いた。
そして約束の今日、ティータイムの時間に広場で、二人は待ち合わせをしていた。
時間ぴったりに訪れたオフィリアを、先に来ていたジョンは優しく笑って迎え入れてくれた。
「オフィリア様、来てくれてありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。デートなんて初めてで、少し緊張してますけれど……。お互い楽しめれば良いと思います」
どこかぎこちない挨拶を交わし、オフィリアは彼の隣りに並んだ。その頬はほんのりと赤く、彼女の白い肌を彩っていた。
肩を並べて歩く二人。春の風が頬を撫で、街には活気が満ちていた。
5年前、オフィリアは流行病を治すためにこの土地を訪れた。けれど、あの時は人の命を救うことに必死で、街の風景など目に入らなかったことを、今更ながらに思い出した。
今、ようやく目に映るのは、穏やかな日常だった。オフィリアにとって露店に並べられた異国の品々は珍しく、マクレーン王国との違いに戸惑った。
一方で、パンは祖国と変わらず、むしろ懐かしい味がした。
それを頬張りながら歩くと、路上に響く楽器の音色が耳に届いた。それに惹かれた彼女は足を止めて聞き入った。
この街で起こる目の前の光景すべてが、彼女にとって新鮮だった。
もっと街を見て回りたい。そう思っても、楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。気が付けば、日は傾き始めていて、デートの終わりの時間が近づきつつあった。
そんな中、ジョンは「最後に見てほしい場所がある」と言って彼女を案内した。
そうして、辿り着いたのは、白百合が咲き誇る美しい公園だった。
「綺麗ね」
オフィリアは顔を綻ばせて感嘆の声を漏らした。
「あなたにそう言ってもらえると、花達もきっと喜ぶよ」
「そうだといいですね」
白百合を見つめ、優しく撫でるオフィリアに向けてジョンは静かに語り始める。
「ここは、5年前の疫病の後に作った場所なんです。オフィリア様への感謝と敬意の気持ちを、みんなで白百合に託して」
「私のために……」
オフィリアは白百合の一群を見渡した。
花々の白が、夕日に照らされ、金色に染まっていた。
「今日すれ違った人の多くは、あなたに救われた人々です。彼らは今、とても幸せに暮らしています。そして、オフィリア様が幸せになることを、心から切に願ってる」
その言葉に、オフィリアは少しだけ俯いた。
「私、……聖なる力を使って人のために生きることが、自分の使命だと思ってきたんです。だから、個人としての幸せなんて、考えたことがなかった。……幸せって、何なんでしょうね」
その問いが、自分の中で反芻する。
神託に背いて、救えた人はほんのわずかで、祖国は滅びに向かっているのに。こうして誰かと寄り添おうとする自分は、結局の所、身勝手なのではないか。
それに、白百合の聖女であるはずの自分が、「個人としての幸せ」を願うなど、許されるのだろうか。
そんな思いに揺れる彼女に、ジョンがそっと微笑みかけた。
「幸せは、楽しいや嬉しいの積み重ねだと思います。今日この日が、その一つだと思ってくれたのなら……。また俺とデートしてくれませんか」
風が白百合の花を揺らした。その白さが、どこか眩しく感じられる。
オフィリアは息を吸い込み、小さく、それでも確かな声で答えた。
「はい」
それは、聖女としてではなく、一人の人間として選んだ、初めての言葉だった。
厄災は止まることを知らず、王国の各地では食糧と土地を巡る争いが頻発していた。もはや王政は機能せず、貴族たちは互いに利権を奪い合い、社会は崩壊の一途を辿っていた。
その話を耳にしたオフィリアは、深い憐れみとともに、静かに目を伏せた。
「仕方のないことだわ」
そうつぶやいて、自身を納得させるように息を吐く。彼らは神々に見放され、聖女をも捨てた。それは、もはや手の施しようがないのだ。
だから、彼女は遠い土地から祖国に向かって祈りを捧げた。
━━どうか、彼らが一日でも早くその過ちに気付きますように。
その時、ノックの音とともに、部屋に初老の医師が入ってきた。背中の傷の様子を確認しに来たのだ。
鞭打たれた傷は数カ月の時を経て塞がり、痛みもなくなった。今は念の為に一日に一度軟膏を塗るだけになっている。
そんなオフィリアの背中の傷を医師はじっくりと観察した後に、軟膏を塗った。
「痛みはもうありませんか?」
「ええ、大丈夫です」
オフィリアは答えると服を着る。
「では、本日をもって治療は終了となりますが……」
医師は、小さく唸った。
「癒しの力を使えば、痕は完全に消えます。本当に、よろしいのですか?」
オフィリアは、しばし黙してから、静かに首を振った。
「この傷は、私が背負うべき罪の証です。消してしまえば、きっと私はそれを忘れてしまいそうで怖いんです。だから、……このままでいいんです」
医師は神妙な面持ちで頷くと、何も言わずに退出していった。
診察を終えたオフィリアは、そっと立ち上がると、領主であるジョンのもとへ向かった。
以前、彼女が「治ったらお礼をさせてほしい」と言ったことを覚えていたジョンは、微笑んでこう言ったのだ。
「では、一度だけ、俺とデートをしてください」
その言葉にオフィリアは戸惑いながらも、頷いた。
そして約束の今日、ティータイムの時間に広場で、二人は待ち合わせをしていた。
時間ぴったりに訪れたオフィリアを、先に来ていたジョンは優しく笑って迎え入れてくれた。
「オフィリア様、来てくれてありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。デートなんて初めてで、少し緊張してますけれど……。お互い楽しめれば良いと思います」
どこかぎこちない挨拶を交わし、オフィリアは彼の隣りに並んだ。その頬はほんのりと赤く、彼女の白い肌を彩っていた。
肩を並べて歩く二人。春の風が頬を撫で、街には活気が満ちていた。
5年前、オフィリアは流行病を治すためにこの土地を訪れた。けれど、あの時は人の命を救うことに必死で、街の風景など目に入らなかったことを、今更ながらに思い出した。
今、ようやく目に映るのは、穏やかな日常だった。オフィリアにとって露店に並べられた異国の品々は珍しく、マクレーン王国との違いに戸惑った。
一方で、パンは祖国と変わらず、むしろ懐かしい味がした。
それを頬張りながら歩くと、路上に響く楽器の音色が耳に届いた。それに惹かれた彼女は足を止めて聞き入った。
この街で起こる目の前の光景すべてが、彼女にとって新鮮だった。
もっと街を見て回りたい。そう思っても、楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。気が付けば、日は傾き始めていて、デートの終わりの時間が近づきつつあった。
そんな中、ジョンは「最後に見てほしい場所がある」と言って彼女を案内した。
そうして、辿り着いたのは、白百合が咲き誇る美しい公園だった。
「綺麗ね」
オフィリアは顔を綻ばせて感嘆の声を漏らした。
「あなたにそう言ってもらえると、花達もきっと喜ぶよ」
「そうだといいですね」
白百合を見つめ、優しく撫でるオフィリアに向けてジョンは静かに語り始める。
「ここは、5年前の疫病の後に作った場所なんです。オフィリア様への感謝と敬意の気持ちを、みんなで白百合に託して」
「私のために……」
オフィリアは白百合の一群を見渡した。
花々の白が、夕日に照らされ、金色に染まっていた。
「今日すれ違った人の多くは、あなたに救われた人々です。彼らは今、とても幸せに暮らしています。そして、オフィリア様が幸せになることを、心から切に願ってる」
その言葉に、オフィリアは少しだけ俯いた。
「私、……聖なる力を使って人のために生きることが、自分の使命だと思ってきたんです。だから、個人としての幸せなんて、考えたことがなかった。……幸せって、何なんでしょうね」
その問いが、自分の中で反芻する。
神託に背いて、救えた人はほんのわずかで、祖国は滅びに向かっているのに。こうして誰かと寄り添おうとする自分は、結局の所、身勝手なのではないか。
それに、白百合の聖女であるはずの自分が、「個人としての幸せ」を願うなど、許されるのだろうか。
そんな思いに揺れる彼女に、ジョンがそっと微笑みかけた。
「幸せは、楽しいや嬉しいの積み重ねだと思います。今日この日が、その一つだと思ってくれたのなら……。また俺とデートしてくれませんか」
風が白百合の花を揺らした。その白さが、どこか眩しく感じられる。
オフィリアは息を吸い込み、小さく、それでも確かな声で答えた。
「はい」
それは、聖女としてではなく、一人の人間として選んだ、初めての言葉だった。
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