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第1章 SONATA

op.02 魔法使いの弟子(4)

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 ヴィオが少年にヴァイオリンを手渡す事を容認したのは、ヴィオが掲げたヴァイオリンに触れる手つきが楽器を触るのに手慣れていたことと、何より彼が自分をクレモナから来た職人だと名乗ったからだった。
 ただでさえ楽器は高価なもので、売れば金になるだろうし、本来であれば他人に触らせるものではないのだが──。

「わあ! やっぱりアルバーニのヴァイオリンだ! しかもアベーレ・アルバーニの作じゃないですか! すごい! あの人気難しいのによく手に入ったなぁ! アルバーニはオールドヴァイオリンの修復ばかりしていて新作の本数は本当に希少なんですよ?! コネですか!?」

 マルコと名乗った少年の瞳は、今や完全に恋するソレと化していた。
 目をキラキラさせながら、興奮気味にヴァイオリンを眺めている。口調とは裏腹に、ヴァイオリンに触れる手は繊細なガラス細工を触るような手つきで、細心の注意を払っていることが分かる。楽器への畏敬と尊敬と、あと愛情……のようなものが手つきや瞳から溢れんばかりである。

「…………」

 放っておいたらヴァイオリンにハグでもキスでもしそうな様子に、流石のヴィオも閉口する。

「えっと、お詳しいんですね」

 恐らくヴィオ以上に呆気に取られていたであろうリチェルが、場の空気を取りなすように言うと、マルコは今初めて気がついたというようにリチェルに目を向けた。どこか値踏みするように爪先から頭の上までリチェルを眺めると、フンと鼻を鳴らす。

「当たり前じゃないか。職人なんだから」

 ともすれば小馬鹿にしているようにも見える態度で、マルコはそう言った。

「さっき自己紹介したろ。俺はクレモナでも指折りの名匠のれっきとした弟子なんだよ。詳しいのは当然だろ?」
「くれもな……」
「楽器製造の、とりわけヴァイオリンの製造では歴史のある有名な都市だ」

 リチェルの疑問を拾うようにヴィオが答える。

「え、そんな事も知らないの? こんな名品を持っている人の隣にいて?」

 少年が驚いたようにリチェルを見る。

「ご、ごめんなさ……」
「そろそろ良いか?」

 リチェルの謝罪を遮るように口にすると、ようやくマズいと気がついたのか少年が決まり悪げに、おずおずとヴァイオリンをヴィオに返す。

「職人を名乗るなら自分の知識が常識の範囲にない事は理解した方がいい。演奏家の友人が皆音楽に通じている訳じゃないだろう」
「……っ、すみません」

 ヴィオの言葉に一瞬首をすくめて、マルコが黙る。それからチラリとリチェルに目をやると、面白く無さそうに悪かったよ、と口にした。それにわたわたと慌てたのはリチェルの方だ。

「良いんです! わたしが非常識なのは事実なので……! マルコさんは、あの、すごくヴァイオリンが好きなんですね」
「当たり前だろ? じゃないとあんな厳しいところに弟子入りなんかしてないよ」

 噛み付くように言うマルコに、リチェルは不快を表すでもなく本心からすごいと感心した様子で無垢に質問を重ねる。

「マルコさんも、ヴァイオリンを作られてるんですか?」
「そりゃ日がな一日中ね。今回は師匠に言われて運んできたんだけど、本当なら今すぐ帰って工房に籠りたいくらいだよ」
「すごいんですね。わたしには詳しいことは分からないんですが、ヴァイオリンはとても綺麗な形をした楽器だから、作るのもとても難しいんだろうなって思います」
「そりゃあね」

 褒められて満更でもないのかマルコはリチェルに視線をやると、少しだけ態度をあらためてコホンと咳払いする。

「まぁ、素人は形を褒めるし、まるで芸術品のように扱う事もあるんだけどさ、ヴァイオリンの形は美しくある為に作られた物じゃないぜ。なるべくして芸術になってるのさ」
「なるべくして?」
「そう。別に装飾的にしたくて美しいラインになっている訳じゃない。完璧な音を引き出すために行き着いたのが今の形なんだよ! エフ孔をとっても駒一つとってもね」
「駒は、確かにとても装飾的だなと……」

 駒はヴァイオリンの弦を板から離しておく為の部品だが、その形は確かに装飾的だ。作り手の好みの問題だろうと思う人間も随分いる。
 リチェルの言葉ににんまりと笑って、マルコが身を乗り出した。

「そう! それだよ! 駒の形は極めて装飾的だけど、あれは装飾カットでなくて機能的カットなんだよ。幾多の職人が駒の形を変えようと試してみたのだけれど、今のカットがヴァイオリンの音色を損なわない完璧な形なんだ! ヴァイオリンという楽器は百年以上も前にその形に完成を見ていると言われるまさしく楽器の王様なんだ!」

 そして君の主人の楽器はこれまた素晴らしい名工の品という訳だ、と何故か自慢げにマルコが語る。

「そうなんですね」

 明らかに調子に乗っているだろうに、リチェルはマルコの説明に感心しきりである。そもそもヴィオはリチェルの主人ではないし、そう思わせないために服を貸したのだが、マルコの頭の中では完全に演奏家とそのお付き、みたいな構図が完成しているらしい。

 マルコはその後もリチェルの相槌に気を良くして、ヴァイオリンの素晴らしさと自分の工房の事を話していた。ただ彼はまだ見習いらしく、売り物は任せてもらえないのだと恥ずかしそうに付け足した。
 その半分自慢話、半分ヴァイオリン讃歌の語りをリチェルは良い聞き手となって聞いていた。それが本当に感心したように聞いているのだから、ヴィオとしてはリチェルの方に感心してしまう。

 やがてたくさん話して気が済んだのか、マルコはまぁそんなに知りたければクレモナまで来ればいつでも聞かせてやるよ、なんて勝手な言い分を得意げに口にして話を終わらせた。そうしてヴィオの方に向き直ると頭を下げる。

「突然すみませんでした。貴重なヴァイオリンを見せて頂いてありがとうございます」
「待ってくれ」

 呼び止められたのが意外だったのだろう。マルコはキョトンとしてヴィオを振り返った。
 だがマルコがクレモナの職人だと名乗った時点で、ヴィオにはまだ彼に用があった。

「はい、何ですか?」
「一つ聞きたいんだが……、この町の楽器店に昨日ヴァイオリンを卸したのは君か?」

 その言葉に、ギクリとマルコの肩が強ばったのが分かった。

「そう、ですけど」

 クレモナから来た職人であると言う時点でそうではないかと思っていたのだが当たりだった。
 振り返ったマルコの瞳は少し警戒の色を浮かべていて、それが余計に昨日から引きずっていた疑念を色濃くする。

「あれは本当に全て君の師の作品なのか?」

 重ねて尋ねると、今度こそマルコの顔から血の気が引いた。

「……なんで……」
「違うのか?」

 重ねて尋ねると、マルコが今度こそ黙り込む。

 ヴァイオリンは誰が作ったかによって価値が著しく変動する楽器だ。勿論素材によっても変わるが、それ以上に価値を大きく跳ね上げるのは誰が手がけたか、に尽きる。弟子が師匠の作を模して作ったものが工房の作品として出回る事は一般的ではあるが、名匠自身の作品とは価値に大きく差が出るのである。
 ただ優秀な作り手が完全に師の手を模して作った作品をそれと区別することは、専門の鑑定士でない限り非常に難しいのも事実だ。

 ヴィオもリチェルがラベルについて聞いたから気付いたのだが、あの三本の内のヴァイオリンの一つは、売り物として出すにはラベルが奇妙にズレていたのだ。また通常製造年は下二桁が手書きで書き加えられることが多いが、その筆跡も他のものと一つだけ違っていた。

 そうやってよく見ると、他の物に比べてわずかに作りに違和感を覚える所があった。ヴィオが気付くのであれば、楽器店のそれこそ優秀だと言われる職人ならば気付くのではないだろうか。
 そしてもし作り手を偽って渡したのであれば大問題だ。

「…………」

 マルコが唇を引き結ぶ。強く握りしめられた手がかすかに震えていた。事態に理解が追いつかないのか、リチェルが戸惑ったようにヴィオを見上げた。

「昨日行った楽器店で仕入れたばかりだというヴァイオリンがあっただろう。あの内の一本は恐らく贋作だ。ラベル通りの職人の手のものじゃない」
「え?」

 手短に説明すると、その意味を理解したのだろう。弾かれたようにリチェルがマルコを見る。震えた声で、マルコはようやく口を開く。

「……でも、店主も問題ないって……」

 それはもう答えのような物だった。

「それこそ問題じゃないだろう。偽って渡したのだとしたらそれが大問題だ。贋作を渡したと知れたら工房の名に傷がつくし、君は工房を追い出される事になる」
「……っ!」

 マルコの顔が青ざめる。ぎゅっと引き結んだ唇が強く締まる。でも……、と弱々しい声が漏れた。どのみち職人が点検すれば、看破される可能性は低くないだろう。

「今正直に話せば、少なくとも間違って買ってしまう人間はいないだろう。町にいるのであれば今のうちに……「言わない」

 小さいがハッキリとした声がヴィオの言葉を遮った。少し潤んだ目がどこか悔しそうにヴィオを見上げる。

「間違えるほうが悪いんだろ! 俺は悪くない!」

 そう叫んでマルコは踵を返した。走り出したマルコの裾を咄嗟に掴もうとしてその手が空を切る。

「マルコさん!」

 意外にも後を追いかけようとしたのはリチェルだった。その手はかろうじて掴んで止めると、リチェルがヴィオを振り返る。かち合った若葉色の瞳が躊躇いを含み揺れる。だけどそれも一瞬だった。

「ごめんなさい! マルコさんを見つけたら宿に帰ります!」

 そう言うと、リチェルはヴィオの静止を振り切って走り出した。追いかけようとしてヴァイオリンを片付けていないことに気付く。振り返った時にはリチェルの後ろ姿は随分小さくなっていた。

 息をつくと、諦めてヴァイオリンを手早く片づける。もちろんリチェルに任せて宿に帰るつもりはなかった。
 早くあの二人を探さなければならない。
 
 
 
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