Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

文字の大きさ
88 / 161
第3章 MENUETT

op.11 孤独の中の神の祝福(6)

しおりを挟む
 シスター・ロザリア。
 それは以前の孤児院の院長であり、十一歳の時リチェルが最期を看取ったシスターの名前だ。

 一度思い出すと、まるで栓が外れたみたいに記憶が溢れ出した。

 厳しくて、あまり笑わない人だった。
 子供達はみんな怖がっていたけれど、不思議と嫌いだという子はいなかった。淋しいことや辛いことがあると、みんな彼女の元に自然と集まった。

 きっと、雨の日にはひととき雨宿りをさせてくれる大きな木のような、そんな優しさを持った人だった。

 リチェルにとってはシスターといえばシスター・ロザリアのことだ。彼女の話す低い声を聞くのが、とても好きだった。 

『リチェル、このお皿を割ったの貴女じゃないでしょう?』

 そんな風に怒られたことがある。リチェルは昔から人が怒られるのを見るのが苦手で、その日も年下の子がお皿を割ったのを自分のせいだと言ってしまったのだ。

『他人の罪をかぶるのは決して優しさではないのですよ。本当に悪い事をした子が真実を話す勇気や、反省する機会を奪います。それは優しさではなくただ己に甘いというだけです』

 ロザリアに真っ直ぐに向き合って低い声で諭されると、何だかとても悪いことをした気持ちになって、心の底から反省するのだ。ごめんなさい、と謝って、その後もう一度お皿を割った子と一緒に怒られた。

 厳しくて、愛情深い人。
 よく子どもたち一人ひとりを見ていた。リチェルは優しい子ね、と頭を撫でてくれるのが、とても嬉しくて誇らしかった。

 ロザリアが病で倒れたのはリチェルが十一になる頃だった。
 段々と業務が覚束なくなっていったロザリアが院長から解任されて、療養に専念出来るようになった頃にはもう随分と具合が悪くなっていたと思う。あてがわれた部屋は長い間放置されていて埃っぽく、窓も小さなものしかない。容赦なく入ってくるすきま風は、病人の身体には毒だった。

 何度もお願いした。

 新しく院長についたテレーザに、もっと温かい部屋に移してほしい、と何度もお願いしたのに、リチェルの願いはいつまで経っても聞き入れられなかった。

 それどころか下の町でも同じ病が流行っているからと、心配する子どもたちを誰一人として病室に近づけさせないようにテレーザは取り計らった。もちろん自分も一歩も近付かない。看病を申し出たリチェル以外に、ロザリアに会える子どもはいなかった。あんなに、子どもたちを愛していた人なのに。

 お医者様だって、一度も呼んでもらえなかった。その病気がお医者様が見たら治る病気なのかどうかはリチェルには分からない。だけど、日に日に悪くなっていくのに薬もないなんてあんまりだ。

 せめて、一目子どもたちに会わせてあげて下さい。とテレーザに懇願したのはもう十一月も半ばに差し掛かった頃だった。ロザリアの容態は日に日に悪くなっていく。なのに落ち着いたままのロザリアの態度はまるで自分の死期を悟っているようで怖かった。

 テレーザは取り合わなかった。

『その言い方はなんなの? まるで私がシスター・ロザリアに酷い仕打ちをしているような言い方じゃない。もう何も出来ないシスター・ロザリアに部屋とご飯を用意しているのは私ですよ。子どもたちに会わせないのは、病をうつさない為です。自分の無知で他人を貶めようとするなんて最低の行いですよ!』

 反省なさい、と罰を言い渡されて、唇を噛み締めて事務所を出た。

 ロザリアの部屋でリチェルは泣いた。小さい頃からずっと大切にしてくれた人に何もしてあげられないことが悲しくて、テレーザが何もしてくれない事がとても悔しかった。

『シスターはずっと孤児院の為に頑張ってきたのに、どうしてこんな仕打ちを受けないといけないんですか……っ』

 涙が出るくらい他人に対して怒りを覚えたのは、あの時くらいではないだろうか。

『追い出しても良いのに、きちんと部屋を用意してくれたのだから、有難いくらいですよ』

 そうロザリアは落ち着いた声で言った。その声がひび割れていて、辛そうなのに、少しも怒っていなくて、余計にリチェルは悔しかったのだ。

『リチェル』

 怒るリチェルを落ち着かせるように、シスター・ロザリアが名前を呼ぶ。

『だって、シスター……っ』
『私が赦しているのです。だから貴女が怒ってはいけませんよ』

 穏やかに、ロザリアはそう口にした。

『理不尽なことはこの世にたくさんあるのです。本当に、たくさん』

 ロザリアの話すことは難しかった。
 理不尽なこと。頑張ってもどうしようもないこと。それは例えば人の死であり、リチェル達がこの孤児院にいる事だったりする。
 だけど、せめて目の前にいるこの優しい人に救われてほしいと思うのは、わがままなのだろうか。

『貴女はとても敬虔で、優しく、心が綺麗です。そういう人間ほど辛い目に遭うように、世界はできています』

 どうして? とまた疑問が湧いた。

 善き行いをすれば救われるのだと神父様は言うのに。信じていれば救われるのだと、そう聞いたのに。ロザリアの言うことが本当なら、辛い目に遭わないためには真逆のことをすればいいと言うことになってしまう。

『では、悪いことをすれば良いのですか?』
『いいえ』

 ムキになってそう聞くと、ロザリアはおかしそうに笑った。
 そうしてリチェルを見る瞳は優しくて、とても優しくて、その時どうしようもない事実に気づいてしまった。
 きっとこの人は、もうすぐ神様のところへいってしまうのだ。

 嫌だ、と思った。
 嫌だ嫌だ嫌だ。

(お願い神様)

 シスターを連れて行かないで、と強く思った。

 だけどもうきっと、どうしようもく理不尽に、それはやってくる。きっともう、そんなに時間がない。

『リチェル、貴女は強い子ですよ。だから敢えて伝えますね』

 だからリチェルは嗚咽を堪えて、ロザリアの瞳を真っ直ぐ見つめた。だってきっと、この人は今からとても大事なことを伝えようとしている。

『これから生きていく上で、きっと辛いことがたくさん待っているでしょう。だけどリチェル。貴女は──』

 リチェルの頭をそっと撫でる手が、優しい。
 子どもたちを送り出す時のような、低く穏やかな声音が、言葉を紡ぐ。

『貴女は、人の善き行いを愛しなさい』

 それはきっと、祈りのような言葉だった。

『どんなに辛くても、他人の罪を赦し、他人に優しくするのです』

 何の保証もない、だけど相手の未来を想って、希望を紡ぐ言葉だ。

『決して他人を憎まず、生きなさい──』

 だからリチェルはその言葉をずっと覚えていようと、そう決めたのだ。





しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

拾われ子のスイ

蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】 記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。 幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。 老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。 ――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。 スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。 出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。 清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。 これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。 ※週2回(木・日)更新。 ※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。 ※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載) ※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。 ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
 なんの罰ゲームだ、これ!!!!  あああああ!!! 本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!  そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!  一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!  かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。 年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

公爵家の秘密の愛娘 

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。 過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。 そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。 「パパ……私はあなたの娘です」 名乗り出るアンジェラ。 ◇ アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。 この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。 初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。 母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞  🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞 🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇‍♀️

処理中です...