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第3章 MENUETT
op.11 孤独の中の神の祝福(6)
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シスター・ロザリア。
それは以前の孤児院の院長であり、十一歳の時リチェルが最期を看取ったシスターの名前だ。
一度思い出すと、まるで栓が外れたみたいに記憶が溢れ出した。
厳しくて、あまり笑わない人だった。
子供達はみんな怖がっていたけれど、不思議と嫌いだという子はいなかった。淋しいことや辛いことがあると、みんな彼女の元に自然と集まった。
きっと、雨の日にはひととき雨宿りをさせてくれる大きな木のような、そんな優しさを持った人だった。
リチェルにとってはシスターといえばシスター・ロザリアのことだ。彼女の話す低い声を聞くのが、とても好きだった。
『リチェル、このお皿を割ったの貴女じゃないでしょう?』
そんな風に怒られたことがある。リチェルは昔から人が怒られるのを見るのが苦手で、その日も年下の子がお皿を割ったのを自分のせいだと言ってしまったのだ。
『他人の罪をかぶるのは決して優しさではないのですよ。本当に悪い事をした子が真実を話す勇気や、反省する機会を奪います。それは優しさではなくただ己に甘いというだけです』
ロザリアに真っ直ぐに向き合って低い声で諭されると、何だかとても悪いことをした気持ちになって、心の底から反省するのだ。ごめんなさい、と謝って、その後もう一度お皿を割った子と一緒に怒られた。
厳しくて、愛情深い人。
よく子どもたち一人ひとりを見ていた。リチェルは優しい子ね、と頭を撫でてくれるのが、とても嬉しくて誇らしかった。
ロザリアが病で倒れたのはリチェルが十一になる頃だった。
段々と業務が覚束なくなっていったロザリアが院長から解任されて、療養に専念出来るようになった頃にはもう随分と具合が悪くなっていたと思う。あてがわれた部屋は長い間放置されていて埃っぽく、窓も小さなものしかない。容赦なく入ってくるすきま風は、病人の身体には毒だった。
何度もお願いした。
新しく院長についたテレーザに、もっと温かい部屋に移してほしい、と何度もお願いしたのに、リチェルの願いはいつまで経っても聞き入れられなかった。
それどころか下の町でも同じ病が流行っているからと、心配する子どもたちを誰一人として病室に近づけさせないようにテレーザは取り計らった。もちろん自分も一歩も近付かない。看病を申し出たリチェル以外に、ロザリアに会える子どもはいなかった。あんなに、子どもたちを愛していた人なのに。
お医者様だって、一度も呼んでもらえなかった。その病気がお医者様が見たら治る病気なのかどうかはリチェルには分からない。だけど、日に日に悪くなっていくのに薬もないなんてあんまりだ。
せめて、一目子どもたちに会わせてあげて下さい。とテレーザに懇願したのはもう十一月も半ばに差し掛かった頃だった。ロザリアの容態は日に日に悪くなっていく。なのに落ち着いたままのロザリアの態度はまるで自分の死期を悟っているようで怖かった。
テレーザは取り合わなかった。
『その言い方はなんなの? まるで私がシスター・ロザリアに酷い仕打ちをしているような言い方じゃない。もう何も出来ないシスター・ロザリアに部屋とご飯を用意しているのは私ですよ。子どもたちに会わせないのは、病をうつさない為です。自分の無知で他人を貶めようとするなんて最低の行いですよ!』
反省なさい、と罰を言い渡されて、唇を噛み締めて事務所を出た。
ロザリアの部屋でリチェルは泣いた。小さい頃からずっと大切にしてくれた人に何もしてあげられないことが悲しくて、テレーザが何もしてくれない事がとても悔しかった。
『シスターはずっと孤児院の為に頑張ってきたのに、どうしてこんな仕打ちを受けないといけないんですか……っ』
涙が出るくらい他人に対して怒りを覚えたのは、あの時くらいではないだろうか。
『追い出しても良いのに、きちんと部屋を用意してくれたのだから、有難いくらいですよ』
そうロザリアは落ち着いた声で言った。その声がひび割れていて、辛そうなのに、少しも怒っていなくて、余計にリチェルは悔しかったのだ。
『リチェル』
怒るリチェルを落ち着かせるように、シスター・ロザリアが名前を呼ぶ。
『だって、シスター……っ』
『私が赦しているのです。だから貴女が怒ってはいけませんよ』
穏やかに、ロザリアはそう口にした。
『理不尽なことはこの世にたくさんあるのです。本当に、たくさん』
ロザリアの話すことは難しかった。
理不尽なこと。頑張ってもどうしようもないこと。それは例えば人の死であり、リチェル達がこの孤児院にいる事だったりする。
だけど、せめて目の前にいるこの優しい人に救われてほしいと思うのは、わがままなのだろうか。
『貴女はとても敬虔で、優しく、心が綺麗です。そういう人間ほど辛い目に遭うように、世界はできています』
どうして? とまた疑問が湧いた。
善き行いをすれば救われるのだと神父様は言うのに。信じていれば救われるのだと、そう聞いたのに。ロザリアの言うことが本当なら、辛い目に遭わないためには真逆のことをすればいいと言うことになってしまう。
『では、悪いことをすれば良いのですか?』
『いいえ』
ムキになってそう聞くと、ロザリアはおかしそうに笑った。
そうしてリチェルを見る瞳は優しくて、とても優しくて、その時どうしようもない事実に気づいてしまった。
きっとこの人は、もうすぐ神様のところへいってしまうのだ。
嫌だ、と思った。
嫌だ嫌だ嫌だ。
(お願い神様)
シスターを連れて行かないで、と強く思った。
だけどもうきっと、どうしようもく理不尽に、それはやってくる。きっともう、そんなに時間がない。
『リチェル、貴女は強い子ですよ。だから敢えて伝えますね』
だからリチェルは嗚咽を堪えて、ロザリアの瞳を真っ直ぐ見つめた。だってきっと、この人は今からとても大事なことを伝えようとしている。
『これから生きていく上で、きっと辛いことがたくさん待っているでしょう。だけどリチェル。貴女は──』
リチェルの頭をそっと撫でる手が、優しい。
子どもたちを送り出す時のような、低く穏やかな声音が、言葉を紡ぐ。
『貴女は、人の善き行いを愛しなさい』
それはきっと、祈りのような言葉だった。
『どんなに辛くても、他人の罪を赦し、他人に優しくするのです』
何の保証もない、だけど相手の未来を想って、希望を紡ぐ言葉だ。
『決して他人を憎まず、生きなさい──』
だからリチェルはその言葉をずっと覚えていようと、そう決めたのだ。
それは以前の孤児院の院長であり、十一歳の時リチェルが最期を看取ったシスターの名前だ。
一度思い出すと、まるで栓が外れたみたいに記憶が溢れ出した。
厳しくて、あまり笑わない人だった。
子供達はみんな怖がっていたけれど、不思議と嫌いだという子はいなかった。淋しいことや辛いことがあると、みんな彼女の元に自然と集まった。
きっと、雨の日にはひととき雨宿りをさせてくれる大きな木のような、そんな優しさを持った人だった。
リチェルにとってはシスターといえばシスター・ロザリアのことだ。彼女の話す低い声を聞くのが、とても好きだった。
『リチェル、このお皿を割ったの貴女じゃないでしょう?』
そんな風に怒られたことがある。リチェルは昔から人が怒られるのを見るのが苦手で、その日も年下の子がお皿を割ったのを自分のせいだと言ってしまったのだ。
『他人の罪をかぶるのは決して優しさではないのですよ。本当に悪い事をした子が真実を話す勇気や、反省する機会を奪います。それは優しさではなくただ己に甘いというだけです』
ロザリアに真っ直ぐに向き合って低い声で諭されると、何だかとても悪いことをした気持ちになって、心の底から反省するのだ。ごめんなさい、と謝って、その後もう一度お皿を割った子と一緒に怒られた。
厳しくて、愛情深い人。
よく子どもたち一人ひとりを見ていた。リチェルは優しい子ね、と頭を撫でてくれるのが、とても嬉しくて誇らしかった。
ロザリアが病で倒れたのはリチェルが十一になる頃だった。
段々と業務が覚束なくなっていったロザリアが院長から解任されて、療養に専念出来るようになった頃にはもう随分と具合が悪くなっていたと思う。あてがわれた部屋は長い間放置されていて埃っぽく、窓も小さなものしかない。容赦なく入ってくるすきま風は、病人の身体には毒だった。
何度もお願いした。
新しく院長についたテレーザに、もっと温かい部屋に移してほしい、と何度もお願いしたのに、リチェルの願いはいつまで経っても聞き入れられなかった。
それどころか下の町でも同じ病が流行っているからと、心配する子どもたちを誰一人として病室に近づけさせないようにテレーザは取り計らった。もちろん自分も一歩も近付かない。看病を申し出たリチェル以外に、ロザリアに会える子どもはいなかった。あんなに、子どもたちを愛していた人なのに。
お医者様だって、一度も呼んでもらえなかった。その病気がお医者様が見たら治る病気なのかどうかはリチェルには分からない。だけど、日に日に悪くなっていくのに薬もないなんてあんまりだ。
せめて、一目子どもたちに会わせてあげて下さい。とテレーザに懇願したのはもう十一月も半ばに差し掛かった頃だった。ロザリアの容態は日に日に悪くなっていく。なのに落ち着いたままのロザリアの態度はまるで自分の死期を悟っているようで怖かった。
テレーザは取り合わなかった。
『その言い方はなんなの? まるで私がシスター・ロザリアに酷い仕打ちをしているような言い方じゃない。もう何も出来ないシスター・ロザリアに部屋とご飯を用意しているのは私ですよ。子どもたちに会わせないのは、病をうつさない為です。自分の無知で他人を貶めようとするなんて最低の行いですよ!』
反省なさい、と罰を言い渡されて、唇を噛み締めて事務所を出た。
ロザリアの部屋でリチェルは泣いた。小さい頃からずっと大切にしてくれた人に何もしてあげられないことが悲しくて、テレーザが何もしてくれない事がとても悔しかった。
『シスターはずっと孤児院の為に頑張ってきたのに、どうしてこんな仕打ちを受けないといけないんですか……っ』
涙が出るくらい他人に対して怒りを覚えたのは、あの時くらいではないだろうか。
『追い出しても良いのに、きちんと部屋を用意してくれたのだから、有難いくらいですよ』
そうロザリアは落ち着いた声で言った。その声がひび割れていて、辛そうなのに、少しも怒っていなくて、余計にリチェルは悔しかったのだ。
『リチェル』
怒るリチェルを落ち着かせるように、シスター・ロザリアが名前を呼ぶ。
『だって、シスター……っ』
『私が赦しているのです。だから貴女が怒ってはいけませんよ』
穏やかに、ロザリアはそう口にした。
『理不尽なことはこの世にたくさんあるのです。本当に、たくさん』
ロザリアの話すことは難しかった。
理不尽なこと。頑張ってもどうしようもないこと。それは例えば人の死であり、リチェル達がこの孤児院にいる事だったりする。
だけど、せめて目の前にいるこの優しい人に救われてほしいと思うのは、わがままなのだろうか。
『貴女はとても敬虔で、優しく、心が綺麗です。そういう人間ほど辛い目に遭うように、世界はできています』
どうして? とまた疑問が湧いた。
善き行いをすれば救われるのだと神父様は言うのに。信じていれば救われるのだと、そう聞いたのに。ロザリアの言うことが本当なら、辛い目に遭わないためには真逆のことをすればいいと言うことになってしまう。
『では、悪いことをすれば良いのですか?』
『いいえ』
ムキになってそう聞くと、ロザリアはおかしそうに笑った。
そうしてリチェルを見る瞳は優しくて、とても優しくて、その時どうしようもない事実に気づいてしまった。
きっとこの人は、もうすぐ神様のところへいってしまうのだ。
嫌だ、と思った。
嫌だ嫌だ嫌だ。
(お願い神様)
シスターを連れて行かないで、と強く思った。
だけどもうきっと、どうしようもく理不尽に、それはやってくる。きっともう、そんなに時間がない。
『リチェル、貴女は強い子ですよ。だから敢えて伝えますね』
だからリチェルは嗚咽を堪えて、ロザリアの瞳を真っ直ぐ見つめた。だってきっと、この人は今からとても大事なことを伝えようとしている。
『これから生きていく上で、きっと辛いことがたくさん待っているでしょう。だけどリチェル。貴女は──』
リチェルの頭をそっと撫でる手が、優しい。
子どもたちを送り出す時のような、低く穏やかな声音が、言葉を紡ぐ。
『貴女は、人の善き行いを愛しなさい』
それはきっと、祈りのような言葉だった。
『どんなに辛くても、他人の罪を赦し、他人に優しくするのです』
何の保証もない、だけど相手の未来を想って、希望を紡ぐ言葉だ。
『決して他人を憎まず、生きなさい──』
だからリチェルはその言葉をずっと覚えていようと、そう決めたのだ。
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