Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

文字の大きさ
133 / 161
第4章 RONDO-FINALE

op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(10)

しおりを挟む
『──ごめんなさい』

 よく知る声が耳の奥で響く。

 真っ白なシーツ。

 大きなベッドの中央にある小さな膨らみは、もうそこに在るだけだ。昨日までは上下していたかすかな命の鳴動は、もうどこにもない。

 ベッドの脇で真っ黒なドレスを身に纏い、うつむいたまま声を震わせた。

『ごめんなさい……、あなた』
『君が謝る必要はどこにもないよ、イングリット』

 沈痛な声は自分を労わる声で、だからこそイングリットは己を責める。

 病で子どもを亡くしたのは二人目だ。今回天に召されたのは待望の長男で、この家を継ぐはずの嫡男だった。

 心を直接切り刻むような痛みを無理やり押さえつける。

 『かあさま』と舌ったらずに自分を呼ぶ幼い我が子の笑顔をかき消して、拳を握りしめる。

(お前の個人的な痛みなど、どうでもいい)

 そう己を叱咤した。
 自分の役目は子どもを産むことで、次代にこの血を繋げることだ。
 
 心の弱さを押さえつけて、ただ夫に謝った。イングリットは子供になかなか恵まれない身体で、この子は待望の長男だったのだ。その命を守れなかった、繋げなかった。役目を果たせない己の不徳を責めさえすれ、悲しむ資格など自分にはない。

『ごめんなさい──』

 もう一度謝って唇を噛む。

 夫は優しい人だった。一人目も、今回も、イングリットの不徳を少しも責めようとしなかった。ただ静かに首を振る。

『命は主の贈り物だ。私たちの一存でどうにかなるものでは無いよ』

 イングリットを諭す夫の声は、隠しきれない深い悲しみに満ちている。

 息子の死を心から悲しんでいるのに、同時に自責の念に駆られるイングリットを気遣って感情を抑えようとしているのが分かる。
 それは純粋に思いやりの心だ。
 だから夫の悲しみは自分と違い清らかなものであることを、イングリットはよく分かっていた。

 その事が救いであり、同時に苦しみでもあった。

『私たちにはリーゼロッテがいるじゃないか』

 子どもになかなか恵まれない折に夫はそう口にした。だけどそれではダメなのだ。リーゼロッテは確かに驚くほどに聡明な子だ。だけどあの子は娘なのだ。どう頑張っても後継にはなれない。

『ごめんなさい』

 自分の謝る声に、ふと違う声が重なった。
 
 まだ幼さの残る少女の声。
 気付くといつの間にか廊下に立っていた。
 自分と同じ黒一色のドレスに身を包んだ少女が、目の前に立っている。

『死んだのがあの子じゃなくて私だったら良かったのに──。そうでしょう、お母様』

 仄暗い意志を宿した瞳が、その実責めるようにイングリットを見つめている。

(あぁ、これは夢か)

 そこで悟った。

 リーゼロッテはイングリットがそう考えてしまった事には気付いていただろうけれど、『自分が死ねば良かったのに』なんて言葉は死んでも口にしない娘だった。『だから何だ、今生きているのは自分だ』と言ってしまえる、強い子だった。

 だとしたらこれはきっと自分の弱さが、後悔が見せる幻なのだろう。

 そうと自覚した瞬間、ふっと意識が持ち上がった。

「────」

 目を開けると、薄暗い天井がぼんやりと見えた。身体が自分の物とは思えないくらいに重い。緩慢な動作で外に目を向けると、窓の向こうではチラホラと粉雪が舞っている。

「……奥様?」

 不意に聞き覚えのない声が耳に入った。

 それなのに、直接心臓を鷲掴みにされた心地がした。聞き覚えがないのに、同時に酷く懐かしさを感じる声。

(そういえばエリーが言っていた)

 お祖母様が元気になられるまで、そばに新しいメイドを雇いました、と。

 元々イングリットは侍女をそばに置いていない。
 イングリットが親しんでいた者達は当に引退しているし、身の回りの世話をするメイドも自分の娘よりも歳が若くなると特別親しくなるということもない。

 離縁したリーゼロッテの夫が起こした騒動は、長年管理を任せていた家令が内通していたことが原因で、イングリットの人間不信に拍車をかけていた。だから自分の身の回りの世話も下手に屋敷を知る人間より余計な事を知らない方が都合が良いと、騒動以後は新しく雇用した人間をつけていて、エリーの提案もさして気に留めなかったのだ。だけど──。

「目を覚まされたのですね。今、お医者様をお呼び致します」

 そう言って、ふいっとそのメイドは背を向けた。待ちなさい、と気付けばしゃがれた声で呼び止めていた。

「──はい?」

 振り返ったその年若いメイドの顔を見て、孫が行った配置の意図を今更ながらに悟る。

(あの子は……)

 心中で呻いた。

 振り返った少女の顔に、今見た悪夢がフラッシュバックする。まるで時間が一気に巻き戻ったかのようだった。誇らしくて、憎らしくて、──しくて。

「何でもないわ。下がりなさい」

 鉛を呑み込むような心地で、イングリットは何とかそう口にした。






 リチェルがハーゼンクレーヴァーに使用人として入って一週間が経った。

 屋敷の中は静かで、多くの使用人で騒がしかったクライネルトとは対照的のように思えた。もしかするとリチェルが知らないだけで、クライネルトも屋敷の中は静かなものだったのかもしれないけれど。

『奥様はあまり騒がしいのは好みませんから。それにしても昔はもう少し賑やかだったのですけれど』

 そう教えてくれたのは、リチェルの指導役についたバルバラというメイドだった。聞くとハーゼンクレーヴァーに仕えていたのは四年程前で、一度は家に下がったものの最近の騒動でエリーに頼まれて屋敷に手伝いに来ていたそうだった。

『本当はね、お断りするつもりだったんですよ。でも他でもない坊ちゃんの頼みでしたから』

 それに今は来て良かったと思っていますよ、とバルバラは笑った。

『お嬢様がずっと大事に想っていらしたご息女のお手伝いが出来るんですからね。こんな嬉しい話はないですよ』

 バルバラは元々リーゼロッテの側仕えで、リーゼロッテが結婚する前の数年と、亡くなるまでの数年をそれぞれ仕えていたのだという。地方の子爵家の分家の人間で、歳はリーゼロッテより少し上だそうだ。

『まぁ子爵と言っても地方の貧乏貴族ですからね。国の政策で首が回らんくなりまして、本家だって今じゃただの農家ですよ。うちには使用人なんていませんし、そうでなかったら奉公なんてしていませんでしょ?』

 まだ孫が産まれる予定もないですから、動ける内にお金を稼いでおかないとですもんね、と気さくに笑うバルバラは、地方の訛りも相まってかとても話しやすい人で、リチェルもすぐに打ち解けた。

 事前にエリーがリチェルの事情を伝えていてくれたようで、バルバラはリチェルが聞かずともハーゼンクレーヴァーの事情から普段の仕事まで事細かに教えてくれた。そんなに昔からいたのであればバルバラがイングリットの世話をする方が良いんじゃないかと聞いたら、バルバラは苦笑をこぼした。

『それは奥様が嫌がるでしょう。リチェル様のお母様と奥様はとても仲が良かったとは言えませんから。私の顔を屋敷で見るだけでも奥様は気分が良くないでしょうから、私は大人しく引っ込んでる事にしますよ』

 突貫だが、丸二日バルバラに指導を受けてリチェルはハーゼンクレーヴァーに入った。初めは緊張していたものの、実際入ってみるとリチェルは控えている時間が多く拍子抜けしてしまった。
 
 バルバラに聞くとイングリットは奥方である前に伯爵家の当主だから、側にはメイドではなく執務に必要な人材を置くことが多いのだという。
 今は執務は執事やエリーが回しておりイングリットには重要な指示を仰ぐだけだが、身体の調子が良くないからか必要な時以外イングリットはこんこんと眠っていることが多かった。

 この数日リチェルは必要な時に呼び出されるのみで、そばで控えていた事は一度もない。一度咳を繰り返すのが心配で近くで控えていたら、『用が終わったのならさっさと出て行きなさい』とキツイ口調で部屋から追い出された。



しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

拾われ子のスイ

蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】 記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。 幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。 老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。 ――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。 スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。 出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。 清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。 これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。 ※週2回(木・日)更新。 ※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。 ※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載) ※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。 ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
 なんの罰ゲームだ、これ!!!!  あああああ!!! 本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!  そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!  一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!  かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。 年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

公爵家の秘密の愛娘 

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。 過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。 そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。 「パパ……私はあなたの娘です」 名乗り出るアンジェラ。 ◇ アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。 この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。 初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。 母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞  🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞 🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇‍♀️

処理中です...