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第4章 RONDO-FINALE

op.15 悲しみと涙のうちに生まれ(10)

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『──ごめんなさい』

 よく知る声が耳の奥で響く。

 真っ白なシーツ。

 大きなベッドの中央にある小さな膨らみは、もうそこに在るだけだ。昨日までは上下していたかすかな命の鳴動は、もうどこにもない。

 ベッドの脇で真っ黒なドレスを身に纏い、うつむいたまま声を震わせた。

『ごめんなさい……、あなた』
『君が謝る必要はどこにもないよ、イングリット』

 沈痛な声は自分を労わる声で、だからこそイングリットは己を責める。

 病で子どもを亡くしたのは二人目だ。今回天に召されたのは待望の長男で、この家を継ぐはずの嫡男だった。

 心を直接切り刻むような痛みを無理やり押さえつける。

 『かあさま』と舌ったらずに自分を呼ぶ幼い我が子の笑顔をかき消して、拳を握りしめる。

(お前の個人的な痛みなど、どうでもいい)

 そう己を叱咤した。
 自分の役目は子どもを産むことで、次代にこの血を繋げることだ。
 
 心の弱さを押さえつけて、ただ夫に謝った。イングリットは子供になかなか恵まれない身体で、この子は待望の長男だったのだ。その命を守れなかった、繋げなかった。役目を果たせない己の不徳を責めさえすれ、悲しむ資格など自分にはない。

『ごめんなさい──』

 もう一度謝って唇を噛む。

 夫は優しい人だった。一人目も、今回も、イングリットの不徳を少しも責めようとしなかった。ただ静かに首を振る。

『命は主の贈り物だ。私たちの一存でどうにかなるものでは無いよ』

 イングリットを諭す夫の声は、隠しきれない深い悲しみに満ちている。

 息子の死を心から悲しんでいるのに、同時に自責の念に駆られるイングリットを気遣って感情を抑えようとしているのが分かる。
 それは純粋に思いやりの心だ。
 だから夫の悲しみは自分と違い清らかなものであることを、イングリットはよく分かっていた。

 その事が救いであり、同時に苦しみでもあった。

『私たちにはリーゼロッテがいるじゃないか』

 子どもになかなか恵まれない折に夫はそう口にした。だけどそれではダメなのだ。リーゼロッテは確かに驚くほどに聡明な子だ。だけどあの子は娘なのだ。どう頑張っても後継にはなれない。

『ごめんなさい』

 自分の謝る声に、ふと違う声が重なった。
 
 まだ幼さの残る少女の声。
 気付くといつの間にか廊下に立っていた。
 自分と同じ黒一色のドレスに身を包んだ少女が、目の前に立っている。

『死んだのがあの子じゃなくて私だったら良かったのに──。そうでしょう、お母様』

 仄暗い意志を宿した瞳が、その実責めるようにイングリットを見つめている。

(あぁ、これは夢か)

 そこで悟った。

 リーゼロッテはイングリットがそう考えてしまった事には気付いていただろうけれど、『自分が死ねば良かったのに』なんて言葉は死んでも口にしない娘だった。『だから何だ、今生きているのは自分だ』と言ってしまえる、強い子だった。

 だとしたらこれはきっと自分の弱さが、後悔が見せる幻なのだろう。

 そうと自覚した瞬間、ふっと意識が持ち上がった。

「────」

 目を開けると、薄暗い天井がぼんやりと見えた。身体が自分の物とは思えないくらいに重い。緩慢な動作で外に目を向けると、窓の向こうではチラホラと粉雪が舞っている。

「……奥様?」

 不意に聞き覚えのない声が耳に入った。

 それなのに、直接心臓を鷲掴みにされた心地がした。聞き覚えがないのに、同時に酷く懐かしさを感じる声。

(そういえばエリーが言っていた)

 お祖母様が元気になられるまで、そばに新しいメイドを雇いました、と。

 元々イングリットは侍女をそばに置いていない。
 イングリットが親しんでいた者達は当に引退しているし、身の回りの世話をするメイドも自分の娘よりも歳が若くなると特別親しくなるということもない。

 離縁したリーゼロッテの夫が起こした騒動は、長年管理を任せていた家令が内通していたことが原因で、イングリットの人間不信に拍車をかけていた。だから自分の身の回りの世話も下手に屋敷を知る人間より余計な事を知らない方が都合が良いと、騒動以後は新しく雇用した人間をつけていて、エリーの提案もさして気に留めなかったのだ。だけど──。

「目を覚まされたのですね。今、お医者様をお呼び致します」

 そう言って、ふいっとそのメイドは背を向けた。待ちなさい、と気付けばしゃがれた声で呼び止めていた。

「──はい?」

 振り返ったその年若いメイドの顔を見て、孫が行った配置の意図を今更ながらに悟る。

(あの子は……)

 心中で呻いた。

 振り返った少女の顔に、今見た悪夢がフラッシュバックする。まるで時間が一気に巻き戻ったかのようだった。誇らしくて、憎らしくて、──しくて。

「何でもないわ。下がりなさい」

 鉛を呑み込むような心地で、イングリットは何とかそう口にした。






 リチェルがハーゼンクレーヴァーに使用人として入って一週間が経った。

 屋敷の中は静かで、多くの使用人で騒がしかったクライネルトとは対照的のように思えた。もしかするとリチェルが知らないだけで、クライネルトも屋敷の中は静かなものだったのかもしれないけれど。

『奥様はあまり騒がしいのは好みませんから。それにしても昔はもう少し賑やかだったのですけれど』

 そう教えてくれたのは、リチェルの指導役についたバルバラというメイドだった。聞くとハーゼンクレーヴァーに仕えていたのは四年程前で、一度は家に下がったものの最近の騒動でエリーに頼まれて屋敷に手伝いに来ていたそうだった。

『本当はね、お断りするつもりだったんですよ。でも他でもない坊ちゃんの頼みでしたから』

 それに今は来て良かったと思っていますよ、とバルバラは笑った。

『お嬢様がずっと大事に想っていらしたご息女のお手伝いが出来るんですからね。こんな嬉しい話はないですよ』

 バルバラは元々リーゼロッテの側仕えで、リーゼロッテが結婚する前の数年と、亡くなるまでの数年をそれぞれ仕えていたのだという。地方の子爵家の分家の人間で、歳はリーゼロッテより少し上だそうだ。

『まぁ子爵と言っても地方の貧乏貴族ですからね。国の政策で首が回らんくなりまして、本家だって今じゃただの農家ですよ。うちには使用人なんていませんし、そうでなかったら奉公なんてしていませんでしょ?』

 まだ孫が産まれる予定もないですから、動ける内にお金を稼いでおかないとですもんね、と気さくに笑うバルバラは、地方の訛りも相まってかとても話しやすい人で、リチェルもすぐに打ち解けた。

 事前にエリーがリチェルの事情を伝えていてくれたようで、バルバラはリチェルが聞かずともハーゼンクレーヴァーの事情から普段の仕事まで事細かに教えてくれた。そんなに昔からいたのであればバルバラがイングリットの世話をする方が良いんじゃないかと聞いたら、バルバラは苦笑をこぼした。

『それは奥様が嫌がるでしょう。リチェル様のお母様と奥様はとても仲が良かったとは言えませんから。私の顔を屋敷で見るだけでも奥様は気分が良くないでしょうから、私は大人しく引っ込んでる事にしますよ』

 突貫だが、丸二日バルバラに指導を受けてリチェルはハーゼンクレーヴァーに入った。初めは緊張していたものの、実際入ってみるとリチェルは控えている時間が多く拍子抜けしてしまった。
 
 バルバラに聞くとイングリットは奥方である前に伯爵家の当主だから、側にはメイドではなく執務に必要な人材を置くことが多いのだという。
 今は執務は執事やエリーが回しておりイングリットには重要な指示を仰ぐだけだが、身体の調子が良くないからか必要な時以外イングリットはこんこんと眠っていることが多かった。

 この数日リチェルは必要な時に呼び出されるのみで、そばで控えていた事は一度もない。一度咳を繰り返すのが心配で近くで控えていたら、『用が終わったのならさっさと出て行きなさい』とキツイ口調で部屋から追い出された。



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