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第三話 月の雫亭
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グレンデールは、いい町だった。
小さな町で、石造りの家と木組みの家が半々くらい。通りにはパン屋と八百屋と肉屋があって、犬が日向で寝そべっていて、子どもたちが走り回っている。
王都から遠いため、大聖堂の噂はまだ届いていないだろう。
「すみません、この辺りで空き家を探しているんですが」
パン屋のおじさんに訊くと、顎で通りの奥を示された。
「坂の上に一軒あるよ。前にカフェをやってた婆さんが去年亡くなってな。大家はうちの隣のベルトさんだから、話してみな」
ベルトさんという白髪の老人に申し出て、家の中を見せてもらうことにした。
坂を上がると、蔦の絡まった小さな石造りの建物が姿を現した。
窓は三つ。扉は木製で、上に色褪せた看板がぶら下がっている。文字はもう読めない。
中に入ってみる。
入ってすぐの部屋を覗くと、埃をかぶったカウンターと、テーブルがあった。奥にはキッチン。
二階は居住スペースで、小さな寝室と、さらに小さな書斎がある。
寝室の窓を開けると、丘の上から町が一望できた。
赤い屋根が並び、その向こうに森が広がっている。
風が吹き抜けて、埃っぽい室内に早春の匂いを運んできた。
「ここにしよう」
ベルトさんと交渉して、家賃は月銀貨三枚に決まった。王都の十分の一だ。路銀で半年は持つ。
アーシャはこの家でカフェを開くことにした。
理由は三つ。
一つ、前の持ち主がここで食堂を営んでいたため、設備がある。
二つ、薬草の知識があるから、ハーブティーなら自信がある。
三つ、路銀がそろそろ心細い。
まずは掃除から始めた。
埃を払い、床を磨き、窓を拭く。キッチンの竈に火を入れると、煙突がちゃんと機能した。ほっとした。
看板を塗り直した。
色褪せた板を裏返して、白い下地を塗って乾かし、その上に文字を入れる。
筆は買えなかったので、小枝の先を炭で焦がして使った。何度も書き直した。太すぎたり、曲がったり、インクが垂れたり。夕方になってようやく、自分で納得できる字が書けた。
【月の雫亭】
あの夜の月の光を思い出して決めた名前だった。
街道で見た銀色の毛並みが、月の雫そのもののように思えたから。
看板を掛け直して、アーシャは一歩下がって見上げた。蔦の絡まる石壁に、白い看板。手作りの文字は少し不揃いだけれど、自分の店の名前だ。
「うん……いい感じ」
自分の手で、自分の居場所を作っている。
それが、思っていたよりずっと嬉しかった。
◇ ◇ ◇
焼き菓子の試作には苦労した。薬草の知識はあっても、菓子作りは素人だ。
最初のバターケーキは石のように固く、二度目は焦がし、三度目でようやく食べられるものができた。四度目で、お客さんに出せる味になった。
厨房の隅で、焦げた失敗作をかじりながら笑った。誰に見せるわけでもない笑顔だった。
メニューはシンプルにした。
ハーブティーが五種類、焼き菓子が三種類。
ラベンダーとカモミールのブレンドは安眠に。
ローズマリーとミントのブレンドは頭をすっきりさせたいときに。
レモンバームは胃腸の疲れに――薬草のノートが役に立った。
お茶を淹れるとき、自然と手のひらが温かくなる。
――聖女の力だ。
意識して使っているわけではない。この力はもともと、触れたものの不調を正す方向に自然と働く性質がある。
だから丁寧にお茶を淹れようとすると、指先の温もりが茶葉に移る。ほんのひとさじの癒し。飲んだ人が少しだけ楽になる、その程度のささやかなもの。
さて、開店初日、客はゼロだった。
二日目もゼロ。
三日目――パン屋のおじさんが気を遣って来てくれた。
「……うまいな、これ」
ローズマリーティーを飲んだおじさんが、目を丸くした。
「こんなハーブティー飲んだことないよ。頭がすっきりする」
「ブレンドの配合に少しコツがあるんです」
おじさんが町中に広めてくれた――「坂の上のカフェのハーブティーは効くぞ!」
一週間後には、毎日五、六人の常連ができた。
肩こりのおばさん、腰痛のお爺さん、夜泣きする赤ん坊を抱えた若い母親のマーサ。
みんなお茶を飲んで、少しだけ楽になって、帰っていく。
――これでいい。
大聖堂にいた頃みたいに、大勢の前で奇跡を起こす必要はない。目の前の一人が、少しだけ楽になればいい。
それだけで十分だった。
小さな町で、石造りの家と木組みの家が半々くらい。通りにはパン屋と八百屋と肉屋があって、犬が日向で寝そべっていて、子どもたちが走り回っている。
王都から遠いため、大聖堂の噂はまだ届いていないだろう。
「すみません、この辺りで空き家を探しているんですが」
パン屋のおじさんに訊くと、顎で通りの奥を示された。
「坂の上に一軒あるよ。前にカフェをやってた婆さんが去年亡くなってな。大家はうちの隣のベルトさんだから、話してみな」
ベルトさんという白髪の老人に申し出て、家の中を見せてもらうことにした。
坂を上がると、蔦の絡まった小さな石造りの建物が姿を現した。
窓は三つ。扉は木製で、上に色褪せた看板がぶら下がっている。文字はもう読めない。
中に入ってみる。
入ってすぐの部屋を覗くと、埃をかぶったカウンターと、テーブルがあった。奥にはキッチン。
二階は居住スペースで、小さな寝室と、さらに小さな書斎がある。
寝室の窓を開けると、丘の上から町が一望できた。
赤い屋根が並び、その向こうに森が広がっている。
風が吹き抜けて、埃っぽい室内に早春の匂いを運んできた。
「ここにしよう」
ベルトさんと交渉して、家賃は月銀貨三枚に決まった。王都の十分の一だ。路銀で半年は持つ。
アーシャはこの家でカフェを開くことにした。
理由は三つ。
一つ、前の持ち主がここで食堂を営んでいたため、設備がある。
二つ、薬草の知識があるから、ハーブティーなら自信がある。
三つ、路銀がそろそろ心細い。
まずは掃除から始めた。
埃を払い、床を磨き、窓を拭く。キッチンの竈に火を入れると、煙突がちゃんと機能した。ほっとした。
看板を塗り直した。
色褪せた板を裏返して、白い下地を塗って乾かし、その上に文字を入れる。
筆は買えなかったので、小枝の先を炭で焦がして使った。何度も書き直した。太すぎたり、曲がったり、インクが垂れたり。夕方になってようやく、自分で納得できる字が書けた。
【月の雫亭】
あの夜の月の光を思い出して決めた名前だった。
街道で見た銀色の毛並みが、月の雫そのもののように思えたから。
看板を掛け直して、アーシャは一歩下がって見上げた。蔦の絡まる石壁に、白い看板。手作りの文字は少し不揃いだけれど、自分の店の名前だ。
「うん……いい感じ」
自分の手で、自分の居場所を作っている。
それが、思っていたよりずっと嬉しかった。
◇ ◇ ◇
焼き菓子の試作には苦労した。薬草の知識はあっても、菓子作りは素人だ。
最初のバターケーキは石のように固く、二度目は焦がし、三度目でようやく食べられるものができた。四度目で、お客さんに出せる味になった。
厨房の隅で、焦げた失敗作をかじりながら笑った。誰に見せるわけでもない笑顔だった。
メニューはシンプルにした。
ハーブティーが五種類、焼き菓子が三種類。
ラベンダーとカモミールのブレンドは安眠に。
ローズマリーとミントのブレンドは頭をすっきりさせたいときに。
レモンバームは胃腸の疲れに――薬草のノートが役に立った。
お茶を淹れるとき、自然と手のひらが温かくなる。
――聖女の力だ。
意識して使っているわけではない。この力はもともと、触れたものの不調を正す方向に自然と働く性質がある。
だから丁寧にお茶を淹れようとすると、指先の温もりが茶葉に移る。ほんのひとさじの癒し。飲んだ人が少しだけ楽になる、その程度のささやかなもの。
さて、開店初日、客はゼロだった。
二日目もゼロ。
三日目――パン屋のおじさんが気を遣って来てくれた。
「……うまいな、これ」
ローズマリーティーを飲んだおじさんが、目を丸くした。
「こんなハーブティー飲んだことないよ。頭がすっきりする」
「ブレンドの配合に少しコツがあるんです」
おじさんが町中に広めてくれた――「坂の上のカフェのハーブティーは効くぞ!」
一週間後には、毎日五、六人の常連ができた。
肩こりのおばさん、腰痛のお爺さん、夜泣きする赤ん坊を抱えた若い母親のマーサ。
みんなお茶を飲んで、少しだけ楽になって、帰っていく。
――これでいい。
大聖堂にいた頃みたいに、大勢の前で奇跡を起こす必要はない。目の前の一人が、少しだけ楽になればいい。
それだけで十分だった。
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