追放された聖女は、辺境で狼(もふもふ)とカフェを開く

橘 あやめ

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第四話 ルーク

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「あら?また来てくれたのね」

 カフェには、他にも人知れず常連客が増えていた。

 ――銀色の狼である。

 あの夜以来、忘れたことはなかった。けれど、もう会うこともないだろうとアーシャは思っていた。

 最初に気づいたのは、開店して二週間ほど経った頃だった。
 夜、二階の窓から外を見ると、裏手の森の入り口に白いものが見えた。
 月明かりの下で、銀色の毛並みが静かに光っている。

 あの狼だった。こちらを見ている。金色の目が、暗がりの中でほのかに光る。

 手を振ってみた。馬鹿みたいだと思いながら。

 白狼は耳をぴくりと動かしただけで、やがて森の中に消えた。

 ――それから、気づけば助けられていた。

 薪が足りない朝、裏口の前に折られた枝が綺麗に積まれていた。

 井戸の滑車が壊れた日、夕方に見に行くと紐が結び直されていた。雑な結び方だったけれど、ちゃんと水が汲める。

 裏山で薬草を摘んでいたとき、足を滑らせた。斜面を転がりかけた体を、横から支えたものがあった。大きく温かい、銀白色の体だった。どこにいたのだろう。気配もなかったのに。

 助けてくれた狼は、アーシャが立ち上がるのを確認すると、何も言わず森の中へ戻っていった。(当たり前だ、狼なのだから)

 いつも、人目がないところで助けてくれる。
 狼に見返りを求める様子もない。アーシャが礼を言う暇すらくれないほど、アーシャのことを助けるとさっさと森へ帰ってしまう。

 そんな日々が続いていたある日のこと。

 閉店後、アーシャは一階の暖炉に薪をくべて、椅子に座っていた。
 帳簿をつけるつもりだったのに、裏口を閉め忘れたまま、いつの間にか眠ってしまっていた。

 ふと、気配を感じて目を開けた。

 暖炉の前で、あの狼が丸くなって寝ていた。

 大きい。暖炉の前の敷物を完全に占領している。
 銀白色の毛並みが炎の光を受けて、温かな橙色に染まっている。尻尾が鼻先にくるりと巻きつけられていて、規則正しい呼吸に合わせて胸が上下していた。

 ――自分から入ってきたのかしら。

 まじまじと近くで見ると、改めて普通の狼ではないと感じる。毛の一本一本がきめ細かく、野生の獣にしては整いすぎている。寝姿にすら、どこか品があった。

 恐る恐る、アーシャは手を伸ばしてみた。

 もふっ。

 指が沈んだ。深く密な冬毛の中に、指の第二関節まで埋まった。

「ふわぁ……っ!」

 もふもふもふっ!

 驚くほど温かい。毛の奥から優しい体温が伝わってくる。
 そして、森のにおい――落ち葉と木の幹と、どこかかすかに甘い香りまでする。陽だまりの中で干した草のような、やさしいにおいだった。

 白狼が薄く目を開けた。金色の瞳がこちらを見る。

 迷惑そうに、耳が伏せられた。

 噛まれるかと思って手を引っ込めかけたけれど、狼は目を閉じただけだった。
 逃げもしない。怒りもしない。

 ただ、好きにしろ、とでも言うように息をついた。

 それならばと、顔を埋めた。

「んふふふっ!」

 やわらかい。深い毛並みの中に顔が沈んでいく。

 大聖堂の冷たい大理石の記憶が、この温もりの中で少しだけ薄れていく。
 追放されてから、誰かに、何かに、こうして触れることがなかった。

 大聖堂にいた頃、人に触れるのはいつも「癒し」のためだった。
 病を治すため、呪いを祓うため。ただ温もりに触れるということを、ずっと忘れていた。

 こんなに安心するなんて、知らなかった。

「ねぇ、狼さん。……ここに、いてくれる?」

 小さな声で言った。自分でも馬鹿みたいだと思う。狼に話しかけて、答えが返ってくるわけがない。

 白狼の尻尾の先が、ぱたり、と一度だけ揺れた。

「いいよって、ことかなぁ?」

 これから一緒にいてくれるのなら、名前をつけなければなるまい。

「ルーク……あなたのこと、これからルークって呼んでいい?」

 月を意味する古語から取った。
 あの夜の月の光を思い出したから。

 ルークは鼻を鳴らした。

 それからルークは、閉店後にふらっと店に現れるようになった。暖炉の前が定位置だ。お客さんがいる間は森にいるけれど、最後の客が帰ると、いつの間にか裏口の前に座っている。

 アーシャはハーブティーを淹れると、ルークの背にもたれて薬草のノートを読む。
 ルークはときどき迷惑そうに耳を伏せる。

 けれど、決して離れない。アーシャがルークの頭を撫でると、目を細めた。尻尾が、ほんの少しだけ揺れる。

 この時間が好きだった。誰にも何も求められず、何も与えなくていい。暖炉の火と、ルークの温もりと、ハーブティーの香り。

 大聖堂にいた十二年間、こういう時間は一度もなかった。

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