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第五話 癒し手の噂
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カフェを始めて二ヶ月が経った頃、事件が起きた。
常連の若い母親のマーサが、顔を真っ青にして駆け込んできた。
「アーシャさん! うちのトビの熱が下がらないの、もう三日も!」
トビはマーサの一歳の息子だ。
「お医者さんは?」
「診てもらったけど、原因がわからないって。薬も効かなくて……お願い! アーシャさん、お茶とか薬草で効きそうなものがあるなら、何か……!」
三日も続く原因不明の高熱。小さな体にはもう余裕がないだろう。
――お茶では治らない。けれど、聖女の力なら……!
アーシャは、マーサの家に走った。
トビは小さなベッドの上で、真っ赤な顔をして浅い息を繰り返していた。
額に触れる。燃えるように熱い。
一刻の猶予もなかった。
「マーサさん、今から私がすることは他言無用でお願いいたします」」
「え……?」
アーシャは片手をトビの額、そしてもう一方を胸に当てた。
目を閉じる。
体の奥から、力を引き上げる。温かく、やわらかい力。十二年間、何百回と使ってきたもの。
聖女の力は、触れたものの不調を正す方向に自然と働く。
だから意識して集中すれば、お茶に移るよりもずっと強く、深く、体の中に入っていける。
手のひらから温もりが広がる。トビの体を包み込むように、そっと。壊れ物を扱うように。
しばらくして、トビの呼吸がおだやかになった。
眉間に寄っていた皺がゆるみ、小さな唇が薄く開く。
額に触れ直すと、熱が引いている。
「……トビ? トビ!」
マーサが泣き崩れた。トビが薄く目を開けて、「まーま」と小さな声を出した。
よかった。でも、見られた。
マーサの目が、驚きと畏怖で大きく見開かれている。
「アーシャさん……今の!て……手が、光って……!」
「内緒にしてくれますか?事情はあまり深く言えないんです」
マーサは何度もうなずいた。
何度もうなずいたけれど――内緒は、長くは持たなかった。
一週間後には、町中が知っていた――「坂の上のカフェのお姉さんは、手を当てるだけで病気が治る!」
客が増えた。
ハーブティーだけではない。
膝の痛みを診てほしい、お腹の調子が悪い、子どもの咳が止まらない……。
アーシャは、断れなかった。
目の前で困っている人がいるのに、知らないふりはできない。昔からそうだ。
でも、昔と同じことを繰り返している、と気づいていた。
大聖堂にいた頃と変わらない。
誰かが助けを求め、アーシャが癒し、疲れ果てて、それでも次の人を断れない。
あの頃は「聖女の務め」という名目があった。
今は名目すらない。ただ、断れないだけだ。
違う生き方をしたかったはずだった。
自分のためにお茶を淹れ、自分のために焼き菓子を焼き、自分の時間を大切にする――そういう暮らしをしたくて、ここに来たのではなかったか。
それなのに……。
――もうひとつ、気になることがあった。
力の手応えが、前より薄い。
以前はもっと楽に癒せたはずだ。
同じことをするのに、以前の倍くらい集中しなければならない。疲労も大きい。
最初は大聖堂を離れたせいだと思った。
でも聖女の力は生まれつきのものであって、場所に左右されるはずがない。
何かがおかしい。でも、理由がわからなかった。
ある夜、アーシャは疲れ果ててキッチンの椅子に座り込んでいた。
今日は三人癒した。腰痛、捻挫、赤ん坊の湿疹。体が重い。指先の感覚がぼんやりしている。
ルークが横に来て、大きな頭を膝に乗せた。
重い。ずしりと重い。でも、その重さの中に温もりがある。
「……ありがとう」
頭を撫でた。ルークが目を細めた。
そのとき、ルークの体が淡く光った。
――え?
銀白色の毛が、一瞬だけ淡い金の光を帯びた。
聖女の力の光だ。ルークに触れている手のひらから、力が自然に流れ出していたのだ。
お茶に移るのと同じだ。
触れたものの不調を、この力は正そうとする。
――ルークの体にも、何か「正すべきもの」があるのだろうか。
目をこすった。ルークは何事もなかったように目を閉じている。
「おやすみ、ルーク」
まぁいいかと、アーシャも目を閉じた。
ルークは、普通の狼ではない。そんなこと、とうの昔にわかっている。
常連の若い母親のマーサが、顔を真っ青にして駆け込んできた。
「アーシャさん! うちのトビの熱が下がらないの、もう三日も!」
トビはマーサの一歳の息子だ。
「お医者さんは?」
「診てもらったけど、原因がわからないって。薬も効かなくて……お願い! アーシャさん、お茶とか薬草で効きそうなものがあるなら、何か……!」
三日も続く原因不明の高熱。小さな体にはもう余裕がないだろう。
――お茶では治らない。けれど、聖女の力なら……!
アーシャは、マーサの家に走った。
トビは小さなベッドの上で、真っ赤な顔をして浅い息を繰り返していた。
額に触れる。燃えるように熱い。
一刻の猶予もなかった。
「マーサさん、今から私がすることは他言無用でお願いいたします」」
「え……?」
アーシャは片手をトビの額、そしてもう一方を胸に当てた。
目を閉じる。
体の奥から、力を引き上げる。温かく、やわらかい力。十二年間、何百回と使ってきたもの。
聖女の力は、触れたものの不調を正す方向に自然と働く。
だから意識して集中すれば、お茶に移るよりもずっと強く、深く、体の中に入っていける。
手のひらから温もりが広がる。トビの体を包み込むように、そっと。壊れ物を扱うように。
しばらくして、トビの呼吸がおだやかになった。
眉間に寄っていた皺がゆるみ、小さな唇が薄く開く。
額に触れ直すと、熱が引いている。
「……トビ? トビ!」
マーサが泣き崩れた。トビが薄く目を開けて、「まーま」と小さな声を出した。
よかった。でも、見られた。
マーサの目が、驚きと畏怖で大きく見開かれている。
「アーシャさん……今の!て……手が、光って……!」
「内緒にしてくれますか?事情はあまり深く言えないんです」
マーサは何度もうなずいた。
何度もうなずいたけれど――内緒は、長くは持たなかった。
一週間後には、町中が知っていた――「坂の上のカフェのお姉さんは、手を当てるだけで病気が治る!」
客が増えた。
ハーブティーだけではない。
膝の痛みを診てほしい、お腹の調子が悪い、子どもの咳が止まらない……。
アーシャは、断れなかった。
目の前で困っている人がいるのに、知らないふりはできない。昔からそうだ。
でも、昔と同じことを繰り返している、と気づいていた。
大聖堂にいた頃と変わらない。
誰かが助けを求め、アーシャが癒し、疲れ果てて、それでも次の人を断れない。
あの頃は「聖女の務め」という名目があった。
今は名目すらない。ただ、断れないだけだ。
違う生き方をしたかったはずだった。
自分のためにお茶を淹れ、自分のために焼き菓子を焼き、自分の時間を大切にする――そういう暮らしをしたくて、ここに来たのではなかったか。
それなのに……。
――もうひとつ、気になることがあった。
力の手応えが、前より薄い。
以前はもっと楽に癒せたはずだ。
同じことをするのに、以前の倍くらい集中しなければならない。疲労も大きい。
最初は大聖堂を離れたせいだと思った。
でも聖女の力は生まれつきのものであって、場所に左右されるはずがない。
何かがおかしい。でも、理由がわからなかった。
ある夜、アーシャは疲れ果ててキッチンの椅子に座り込んでいた。
今日は三人癒した。腰痛、捻挫、赤ん坊の湿疹。体が重い。指先の感覚がぼんやりしている。
ルークが横に来て、大きな頭を膝に乗せた。
重い。ずしりと重い。でも、その重さの中に温もりがある。
「……ありがとう」
頭を撫でた。ルークが目を細めた。
そのとき、ルークの体が淡く光った。
――え?
銀白色の毛が、一瞬だけ淡い金の光を帯びた。
聖女の力の光だ。ルークに触れている手のひらから、力が自然に流れ出していたのだ。
お茶に移るのと同じだ。
触れたものの不調を、この力は正そうとする。
――ルークの体にも、何か「正すべきもの」があるのだろうか。
目をこすった。ルークは何事もなかったように目を閉じている。
「おやすみ、ルーク」
まぁいいかと、アーシャも目を閉じた。
ルークは、普通の狼ではない。そんなこと、とうの昔にわかっている。
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