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第一章:何度でも癒して差し上げましょう
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イレーネは足を止め、ゆっくりと視線を移した。夫人から、その隣の席へ。
「それから、旦那様。あなたも、ずいぶんとお優しい方でしたわね」
その一言で、広間の空気がもう一段、重くなった。
イレーネは微笑んだ。花が咲くような、それでいてどこか刃物を思わせる笑みだった。
「使用人が次々と消えていくのに、何もお尋ねにならなかった。見ないふりは、とても便利ですものね」
夫の喉仏がひくりと上下した。
「そ、その……私は……家のことは、何も……」
「そうでしょうねぇ。すべて、夫人に任せ、自分は違和感から目を背け続けました。その結果がこれです。――何も知らなかったとはいえ、あなたも人身売買の原因を作った一人なんですのよ?」
夫は何も答えなかった。答えられなかった。
「では」
イレーネが、元使用人たちのほうへ顔を向けた。
「思う存分、復讐を始めてくださいませ」
――静かな声だった。まるで「お茶をお持ちしなさい」とでも言うような、日常の調子で。
ナイフや鈍器を手にした元使用人たちが、ゆっくりと前へ踏み出した。その足取りに迷いはなかった。
長い長い夜を、この瞬間だけを支えに生き延びてきた人間の足取りだった。
夫人の絶叫が、広間に響いた。
銀食器の破片が床に散らばり、テーブルクロスに赤い染みが広がっていく。
夫は目の前の惨劇から夫人を救おうともせず、目を逸らし、部屋の片隅でうずくまっていた。もう完全に夫人を見捨てて――。
やがて、夫人の悲鳴が小さくなるころには、夫人は床に崩れ落ちていた。
裂けたドレスの裾を引きずり、這うようにしてイレーネの足元へ進む。宝石のはめられた指輪が、揺れる蝋燭の光を受けて、ちらちらと情けなく瞬いた。
「お願い……お願いよ、許して……!」
額を床に擦りつけるようにして叫ぶ。
「お金ならいくらでも出すわ! 私の屋敷も宝石も、全部あなたにあげる! だから……だから許して……!」
震える指がイレーネの黒いドレスの裾に触れようとして、届かない。
「お金?」
イレーネがゆっくりと口を開いた。低く、静かな声だった。唇にはかすかな微笑みが浮かんでいる。
「お金で済むと、思っていらっしゃるの?」
そして、ゆっくりと腰を下ろした。白い手が伸び、その指先から淡い金色の光が溢れ出す。温かく、澄んだ、聖なる光だった。触れられた箇所から夫人の痛みが消えていく。裂けていた肌が静かに閉じ、青黒い痣が薄れ、折れかけていた指がゆっくりと元の形に戻っていく。
夫人が呆然と呟いた。
「治って……?」
震える手で自分の体を確かめる。傷がない。痛みもない。まるで先ほどまでの出来事が嘘だったかのように。夫人の顔に、かすかな希望が浮かんだ。
「聖女……!? だったら助けてくれるのよね!? 聖女なんでしょう!? 人を救うのが仕事なんでしょう!?」
必死に縋る夫人を、イレーネは見下ろした。青紫の瞳はどこまでも澄んで、どこまでも冷たかった。
「まぁ、何のことかしら?」
穏やかで、優しく、そしてあまりにも美しい笑みだった。
「安心してくださいな。怪我をしても、一瞬で癒して差し上げますわ」
その声は、驚くほど穏やかだった。まるで病んだ子供をあやす母親のような。
「――何度でも、ね」
何度でも。
その言葉の意味が、一拍遅れて届いた。夫人の目が、ゆっくりと見開かれる。癒される。何度でも。つまり――何度でも壊される。何度でも治される。終わらない。永遠に、終わらない。
「ま、待って……! そんな……!」
夫人は這って逃げようとした。だが背中はすぐに壁にぶつかった。逃げ場は、もうどこにもない。
イレーネが微笑んだまま、元使用人たちに小さくうなずいた。
「――どうぞ。お好きなだけ」
「いやぁああああああああああっ!!」
広間に絶叫が響いた。
「それから、旦那様。あなたも、ずいぶんとお優しい方でしたわね」
その一言で、広間の空気がもう一段、重くなった。
イレーネは微笑んだ。花が咲くような、それでいてどこか刃物を思わせる笑みだった。
「使用人が次々と消えていくのに、何もお尋ねにならなかった。見ないふりは、とても便利ですものね」
夫の喉仏がひくりと上下した。
「そ、その……私は……家のことは、何も……」
「そうでしょうねぇ。すべて、夫人に任せ、自分は違和感から目を背け続けました。その結果がこれです。――何も知らなかったとはいえ、あなたも人身売買の原因を作った一人なんですのよ?」
夫は何も答えなかった。答えられなかった。
「では」
イレーネが、元使用人たちのほうへ顔を向けた。
「思う存分、復讐を始めてくださいませ」
――静かな声だった。まるで「お茶をお持ちしなさい」とでも言うような、日常の調子で。
ナイフや鈍器を手にした元使用人たちが、ゆっくりと前へ踏み出した。その足取りに迷いはなかった。
長い長い夜を、この瞬間だけを支えに生き延びてきた人間の足取りだった。
夫人の絶叫が、広間に響いた。
銀食器の破片が床に散らばり、テーブルクロスに赤い染みが広がっていく。
夫は目の前の惨劇から夫人を救おうともせず、目を逸らし、部屋の片隅でうずくまっていた。もう完全に夫人を見捨てて――。
やがて、夫人の悲鳴が小さくなるころには、夫人は床に崩れ落ちていた。
裂けたドレスの裾を引きずり、這うようにしてイレーネの足元へ進む。宝石のはめられた指輪が、揺れる蝋燭の光を受けて、ちらちらと情けなく瞬いた。
「お願い……お願いよ、許して……!」
額を床に擦りつけるようにして叫ぶ。
「お金ならいくらでも出すわ! 私の屋敷も宝石も、全部あなたにあげる! だから……だから許して……!」
震える指がイレーネの黒いドレスの裾に触れようとして、届かない。
「お金?」
イレーネがゆっくりと口を開いた。低く、静かな声だった。唇にはかすかな微笑みが浮かんでいる。
「お金で済むと、思っていらっしゃるの?」
そして、ゆっくりと腰を下ろした。白い手が伸び、その指先から淡い金色の光が溢れ出す。温かく、澄んだ、聖なる光だった。触れられた箇所から夫人の痛みが消えていく。裂けていた肌が静かに閉じ、青黒い痣が薄れ、折れかけていた指がゆっくりと元の形に戻っていく。
夫人が呆然と呟いた。
「治って……?」
震える手で自分の体を確かめる。傷がない。痛みもない。まるで先ほどまでの出来事が嘘だったかのように。夫人の顔に、かすかな希望が浮かんだ。
「聖女……!? だったら助けてくれるのよね!? 聖女なんでしょう!? 人を救うのが仕事なんでしょう!?」
必死に縋る夫人を、イレーネは見下ろした。青紫の瞳はどこまでも澄んで、どこまでも冷たかった。
「まぁ、何のことかしら?」
穏やかで、優しく、そしてあまりにも美しい笑みだった。
「安心してくださいな。怪我をしても、一瞬で癒して差し上げますわ」
その声は、驚くほど穏やかだった。まるで病んだ子供をあやす母親のような。
「――何度でも、ね」
何度でも。
その言葉の意味が、一拍遅れて届いた。夫人の目が、ゆっくりと見開かれる。癒される。何度でも。つまり――何度でも壊される。何度でも治される。終わらない。永遠に、終わらない。
「ま、待って……! そんな……!」
夫人は這って逃げようとした。だが背中はすぐに壁にぶつかった。逃げ場は、もうどこにもない。
イレーネが微笑んだまま、元使用人たちに小さくうなずいた。
「――どうぞ。お好きなだけ」
「いやぁああああああああああっ!!」
広間に絶叫が響いた。
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