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第一章:何度でも癒して差し上げましょう
エピローグ
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テーブルの上に並ぶのは、こんがりと焼き目のついた厚切り肉だった。表面にはパン粉と香草の衣がまとわりつき、ところどころ焦げた縁が濃い茶色に色づいている。岩塩の粒が蝋燭の光を受けてきらきらと瞬き、刻んだ香草の緑が鮮やかに散っていた。
傍らには皮ごと焼かれた根菜と、ちぎったばかりのパンが添えられている。ナイフを入れれば、切り口から肉汁がじわりと滲み出すのが目に浮かぶようだった。
湯気と一緒に立ち上る香草とバターの匂いが、もう部屋いっぱいに広がっている。
「イレーネ様、あーん♡」
言われるがまま、ティオが切り分けて差し出した一切れを、イレーネはぱくりと口に運んだ。
噛んだ瞬間、衣がぱりっと砕ける。その奥から、じわりと肉の旨味が舌の上に広がった。噛むほどに香草の苦みと肉汁の甘さが混ざり合い、鼻に抜けるバターの香りが追いかけてくる。
もぐもぐと頬を動かしながら、イレーネは目を閉じ、「ん~~~~!」と全身で身もだえた。
「このパン粉のカリッとした感じが、たまらないのよねぇ♡」
「ひぃんっ! お褒めいただき、感謝感激ありがとうございます! はい、じゃもひとつ。あーん♡」
まるで親鳥が雛に餌を与えるがごとく、ティオは次から次へとイレーネの口に肉を運んでいく。イレーネは両の頬をぱんぱんに膨らませ、一生懸命に口を動かしている。
あの広間で冷たい微笑を浮かべ、貴族たちを凍りつかせていた女と同一人物とは、とても思えなかった。
やがて皿の上が空になり、パンの最後のひとかけらで肉汁をぬぐい取って口に放り込むと、イレーネは満足げに椅子の背にもたれた。ティオが手際よく食後のコーヒーを淹れる。豆を挽く乾いた音に続いて、湯を注ぐ静かな音が小さな部屋に満ちた。
カップを受け取り、ひと口含む。深煎りの苦味が、肉の余韻を優しく洗い流していく。イレーネはうっとりと長いため息をついた。
「やっぱり労働の後の、ティオのご飯は最高ねぇ……」
「一生、イレーネ様のために料理を作り続けます!」
「それだと困るわ。一生、ティオから離れられないじゃない」
「離れなくていいのでは? もう一生二人でいれば、いいのでは???」
「ふふっ」
イレーネは小さく笑って、カップを置いた。
◇ ◇ ◇
食後の片付けをティオに任せ、イレーネは一人、屋敷の裏手に出た。
石造りの小さなテラスに腰を下ろすと、夜風がふわりと髪を撫でる。
空には星が散りばめられていた。王都から少し離れているせいで灯りが少なく、見上げるたびに星の数が増えるような錯覚に陥る。虫の声が遠く、近く、波のように寄せては引いていた。
あの血の晩餐から、数日が過ぎている。
イレーネは夜空に目を向けたまま、静かに息を吐いた。
脳裏に浮かぶのは、あの広間で見た元使用人たちの顔だった。
指を失った女。腕に鞭の痕を刻まれた少年。顔の半分を焼かれた少女。
彼らはあの屋敷からいなくなった後、各地の奴隷商人に転売され、散り散りになっていた。
足取りを追うのには骨が折れた。伝手を使い、遠方の鉱山、港町の地下工房、辺境の農場――行く先々で金を積み、契約を買い戻し、一人ずつ連れ帰った。
だが、全員ではなかった。
たどり着いた時にはもう息をしていなかった者が、三人いた。
一人は過労で。一人は病で。一人は、自ら命を絶っていた。
その報告を受けた日のことを、イレーネは今もはっきりと覚えている。怒りでも悲しみでもなく、ただ胸の底が重たく沈んでいく、あの感覚。
生きて戻れた者たちも、無事とは言い難い。
体の傷は癒しの力で治せる。骨も肉も、元の形に戻すことができる。
けれど、夜ごとにうなされて飛び起きる心を、他人の手が触れただけで全身がこわばる体を、治す魔法は存在しない。同じ食卓を囲んでいても、ふとした拍子に目の焦点が遠くなる者がいる。笑い声の中に、突然混じる沈黙がある。
それでも、と思う。
一歩でいい。昨日より、ほんの半歩でもいい。
自分の足で歩いてくれるなら。
自分の意志で、明日を選んでくれるなら――。
それ以上のことを、他人が願うのは傲慢だろう。
夜風が少し強くなり、金色の髪が頬にかかった。イレーネはそれを指先で耳の後ろに流しながら、星のひとつをぼんやりと見つめた。
――復讐はだれのためにもならない。
そう言う人間がいることを、イレーネは知っている。聖職者も、貴族も、学者も、口を揃えてそう言う。
赦しこそが美徳だと。怒りを手放すことが救いだと。
それは確かに美しい言葉だろう。夜会の挨拶や、説教壇の上では。
だが、とイレーネは思う。
自分を地獄に突き落とした人間が、何の報いも受けず、笑い、食べ、眠り、今日も当たり前のように明日を迎えている。その事実を知りながら、それでも前を向けと言うのは、それは赦しではなく、諦めだ。
復讐は、死者のためにするものではない。死んだ人間が何を望んでいるかなど、生きている人間には分からない。赦してほしいと思っているかもしれないし、もっと酷いことをしてほしいと思っているかもしれない。そんなことは、生者には永遠に確かめようがない。
復讐は、今を生きる人間のためにある。踏みにじられた尊厳を、自分の手で拾い上げるための儀式だ。あの人たちの苦しみを、加害者が知り、思い知り、同じ痛みを刻まれること。それがなければ、被害者はいつまでも被害者のまま、過去の暗闇に閉じ込められ続ける。
正しいかどうかは、分からない。
元聖女の所業ではないことも、分かっている。
けれどイレーネは、自分があの場で微笑んだことを、後悔していなかった。
背後で足音がした。石畳を踏む、聞き慣れた軽い足取り。
「イレーネ様、お茶のおかわりをお持ちしました」
ティオが盆を持って現れた。湯気の立つカップを差し出しながら、「あ、そうだ」と何かを思い出したように付け足す。
「そういえばあの男から、今回の件の請求書が届いておりましたが」
「請求書?」
「ええ。情報提供料、証拠収集の実費、人員手配費用、危険手当、その他諸々。びっくりするような金額でしたので、破り捨てておきました」
ティオはさも当然のように言い切った。イレーネは思わず吹き出しそうになる。
「ティオ。それは借金を踏み倒したってこと?」
「イレーネ様の笑顔はお金では買えません。よって無効です」
反論の余地のない暴論だった。
イレーネはため息をひとつついて、受け取ったカップに口をつけた。温かい。ハーブの穏やかな香りが、夜の冷気に混じってふわりと広がる。
今度あの男に会ったら、また小言を言われるだろう。「金払いの悪い元聖女ほど始末に負えないものはない」とでも。あの皮肉っぽい目で、嫌味のひとつやふたつ。
――まあ、その時はその時ね。
イレーネは星空を見上げたまま、小さく微笑んだ。
第一章・了
傍らには皮ごと焼かれた根菜と、ちぎったばかりのパンが添えられている。ナイフを入れれば、切り口から肉汁がじわりと滲み出すのが目に浮かぶようだった。
湯気と一緒に立ち上る香草とバターの匂いが、もう部屋いっぱいに広がっている。
「イレーネ様、あーん♡」
言われるがまま、ティオが切り分けて差し出した一切れを、イレーネはぱくりと口に運んだ。
噛んだ瞬間、衣がぱりっと砕ける。その奥から、じわりと肉の旨味が舌の上に広がった。噛むほどに香草の苦みと肉汁の甘さが混ざり合い、鼻に抜けるバターの香りが追いかけてくる。
もぐもぐと頬を動かしながら、イレーネは目を閉じ、「ん~~~~!」と全身で身もだえた。
「このパン粉のカリッとした感じが、たまらないのよねぇ♡」
「ひぃんっ! お褒めいただき、感謝感激ありがとうございます! はい、じゃもひとつ。あーん♡」
まるで親鳥が雛に餌を与えるがごとく、ティオは次から次へとイレーネの口に肉を運んでいく。イレーネは両の頬をぱんぱんに膨らませ、一生懸命に口を動かしている。
あの広間で冷たい微笑を浮かべ、貴族たちを凍りつかせていた女と同一人物とは、とても思えなかった。
やがて皿の上が空になり、パンの最後のひとかけらで肉汁をぬぐい取って口に放り込むと、イレーネは満足げに椅子の背にもたれた。ティオが手際よく食後のコーヒーを淹れる。豆を挽く乾いた音に続いて、湯を注ぐ静かな音が小さな部屋に満ちた。
カップを受け取り、ひと口含む。深煎りの苦味が、肉の余韻を優しく洗い流していく。イレーネはうっとりと長いため息をついた。
「やっぱり労働の後の、ティオのご飯は最高ねぇ……」
「一生、イレーネ様のために料理を作り続けます!」
「それだと困るわ。一生、ティオから離れられないじゃない」
「離れなくていいのでは? もう一生二人でいれば、いいのでは???」
「ふふっ」
イレーネは小さく笑って、カップを置いた。
◇ ◇ ◇
食後の片付けをティオに任せ、イレーネは一人、屋敷の裏手に出た。
石造りの小さなテラスに腰を下ろすと、夜風がふわりと髪を撫でる。
空には星が散りばめられていた。王都から少し離れているせいで灯りが少なく、見上げるたびに星の数が増えるような錯覚に陥る。虫の声が遠く、近く、波のように寄せては引いていた。
あの血の晩餐から、数日が過ぎている。
イレーネは夜空に目を向けたまま、静かに息を吐いた。
脳裏に浮かぶのは、あの広間で見た元使用人たちの顔だった。
指を失った女。腕に鞭の痕を刻まれた少年。顔の半分を焼かれた少女。
彼らはあの屋敷からいなくなった後、各地の奴隷商人に転売され、散り散りになっていた。
足取りを追うのには骨が折れた。伝手を使い、遠方の鉱山、港町の地下工房、辺境の農場――行く先々で金を積み、契約を買い戻し、一人ずつ連れ帰った。
だが、全員ではなかった。
たどり着いた時にはもう息をしていなかった者が、三人いた。
一人は過労で。一人は病で。一人は、自ら命を絶っていた。
その報告を受けた日のことを、イレーネは今もはっきりと覚えている。怒りでも悲しみでもなく、ただ胸の底が重たく沈んでいく、あの感覚。
生きて戻れた者たちも、無事とは言い難い。
体の傷は癒しの力で治せる。骨も肉も、元の形に戻すことができる。
けれど、夜ごとにうなされて飛び起きる心を、他人の手が触れただけで全身がこわばる体を、治す魔法は存在しない。同じ食卓を囲んでいても、ふとした拍子に目の焦点が遠くなる者がいる。笑い声の中に、突然混じる沈黙がある。
それでも、と思う。
一歩でいい。昨日より、ほんの半歩でもいい。
自分の足で歩いてくれるなら。
自分の意志で、明日を選んでくれるなら――。
それ以上のことを、他人が願うのは傲慢だろう。
夜風が少し強くなり、金色の髪が頬にかかった。イレーネはそれを指先で耳の後ろに流しながら、星のひとつをぼんやりと見つめた。
――復讐はだれのためにもならない。
そう言う人間がいることを、イレーネは知っている。聖職者も、貴族も、学者も、口を揃えてそう言う。
赦しこそが美徳だと。怒りを手放すことが救いだと。
それは確かに美しい言葉だろう。夜会の挨拶や、説教壇の上では。
だが、とイレーネは思う。
自分を地獄に突き落とした人間が、何の報いも受けず、笑い、食べ、眠り、今日も当たり前のように明日を迎えている。その事実を知りながら、それでも前を向けと言うのは、それは赦しではなく、諦めだ。
復讐は、死者のためにするものではない。死んだ人間が何を望んでいるかなど、生きている人間には分からない。赦してほしいと思っているかもしれないし、もっと酷いことをしてほしいと思っているかもしれない。そんなことは、生者には永遠に確かめようがない。
復讐は、今を生きる人間のためにある。踏みにじられた尊厳を、自分の手で拾い上げるための儀式だ。あの人たちの苦しみを、加害者が知り、思い知り、同じ痛みを刻まれること。それがなければ、被害者はいつまでも被害者のまま、過去の暗闇に閉じ込められ続ける。
正しいかどうかは、分からない。
元聖女の所業ではないことも、分かっている。
けれどイレーネは、自分があの場で微笑んだことを、後悔していなかった。
背後で足音がした。石畳を踏む、聞き慣れた軽い足取り。
「イレーネ様、お茶のおかわりをお持ちしました」
ティオが盆を持って現れた。湯気の立つカップを差し出しながら、「あ、そうだ」と何かを思い出したように付け足す。
「そういえばあの男から、今回の件の請求書が届いておりましたが」
「請求書?」
「ええ。情報提供料、証拠収集の実費、人員手配費用、危険手当、その他諸々。びっくりするような金額でしたので、破り捨てておきました」
ティオはさも当然のように言い切った。イレーネは思わず吹き出しそうになる。
「ティオ。それは借金を踏み倒したってこと?」
「イレーネ様の笑顔はお金では買えません。よって無効です」
反論の余地のない暴論だった。
イレーネはため息をひとつついて、受け取ったカップに口をつけた。温かい。ハーブの穏やかな香りが、夜の冷気に混じってふわりと広がる。
今度あの男に会ったら、また小言を言われるだろう。「金払いの悪い元聖女ほど始末に負えないものはない」とでも。あの皮肉っぽい目で、嫌味のひとつやふたつ。
――まあ、その時はその時ね。
イレーネは星空を見上げたまま、小さく微笑んだ。
第一章・了
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※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。
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