透明な約束 ―― 常盤高校シリーズ

朝霧 瑠璃

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第27話 「杜の息」

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 四月二十一日、土曜日。
 私と亜由美は、夕紀と待ち合わせをしている明治神宮、南参道の大鳥居へ歩いていく。
 昨夜は、緊張のあまり、よく寝られなかった。寝不足の割に、頭は冴えきっている。鼓動が早くて、口から飛び出しそう――どうしよう、行きたくない、今更ながら二の足を踏んでしまう。大鳥居が見えてくると、徐々に歩く速度が遅くなってしまう。その私の腕に、亜由美が腕を組んできて、私は引っ張られるように歩いていった。待ち合わせの時間より十五分も早く着いたのに、夕紀はもう来ていた。
 大鳥居の下に立つ小柄な姿――真っすぐの背筋、肩だけが少し内側に入っている、あの頃と同じ癖。でも、あの頃より眼差しが強くなっていた。
「あの子かな?」
 小声で聞いてくる亜由美に、私は頷いた。その間もどんどん夕紀との距離が縮まっていっている。
(どうしよう、なんて話しかければいいか、わからない)
 夕紀の前に立ったのに、何も言えずにいる私の代わりに、亜由美が夕紀に話しかけた。
「……篠崎さん?」
 ゆっくり声をかける。夕紀が小さく頷いて、一歩近づいた。
「はじめまして。篠崎夕紀です」
「はじめまして。朝倉亜由美です。連絡……ありがとう」
 ――『ありがとう』の言い方が、亜由美らしいと思った。軽くしないし、重くしすぎないで、相手に逃げ道を残してくれる。
「……こちらこそ。突然メッセージを送ったのに…… お返事、どうもありがとう。あと、今日もありがとう。とても嬉しかったです」
 夕紀は、少し首を傾けながら、微笑んだ。
 ――返事。
 その言葉が、私の胸の奥がきゅっと掴む。返事を返せなかった時間が、言葉ひとつで形になった。
 夕紀は私を見て、「久しぶり」と微笑む。私は小さく頷いて、「久しぶり」と返した。私たちの間に流れた一年半の時間が、私たちをどのくらい離れさせているのか、見えなくて、少し辛い。距離と深さを測れないのが怖い。

 私たちは、本殿へ向かって歩き出した。歩くたびに、参道の砂利が、靴の下で細かく鳴って、街の音が一本ずつほどけ、代わりに、風が木々を揺らす音が増えていく。
 亜由美は気を遣って、五歩くらい前をゆっくり歩いてくれている――振り向かないけれど、置いていかない速度。その距離が、ありがたい。
 夕紀と歩くのは、約一年半ぶりだった。
 心の中に言葉が浮かび、浮かんでは消えていく。何を言っても、遅い、どれも軽い、どれも刺さる。沈黙が続いて、やっと出てきたのは、結局、さっきと同じ言葉だった。
「……久しぶりだね」
「……うん」
 夕紀は、少しだけ喉を動かして言った。
 また沈黙。砂利の音だけが、私たちの間を埋める。

「あのね」
 私と夕紀は、同時に顔を向けた。声が重なる。
「……あ、夕紀から」
「ううん、美沙から」
 どちらが先に言うか譲り合って、また黙る。

 先に話し始めたのは、夕紀だった。
「私ね、ずっと謝りたかったの。あの日、美沙は守ってくれたのに、あんな風に切り取りされて……なのに、私だけ学校に行かなくなって……私、美沙を独りにした」
 夕紀の言葉は、丁寧で、真っすぐだった。
 夕紀は立ち止まって、私を見つめた。
「本当に、ごめんね……ごめんなさい」
 深く頭を下げた。
 ――『ごめんね』
 この言葉に辿り着くのに、どれだけの時間と葛藤と言葉を重ねてきたんだろう。そして、夕紀は逃げない道を選んでいる。
 私は、夕紀の頭を見ていて、胸が苦しくなってきた。
「夕紀、顔を上げて」
 夕紀の目を見て、私は息を吐いて言う。
 ――私も、もう逃げない道を選びたい。前へ進むために。時間を進めるために。
「……いいよ、もう」
 強がりでも、嘘でもない、本当にもう良かった。確かに、私はとても傷ついた。あの拡散の中で、私は独りだった。でも、本当に独りだったわけじゃない。先生たちが助けてくれた。クラスの中でも、あの場にいた人たちの中でも、真実を知っていて、寄り添ってくれる人たちがいた。だから――
「夕紀が休むようになってから、先生たちがすぐ対応してくれて、二週間くらいで、元の雰囲気に戻ったの……笑っちゃうくらい、何もなかったみたいに」
「……そっか」
 夕紀が小さく頷く。
「それに私も」
 私は続けた。このまま、言わないままだと、また遮ることになってしまう。
「……私も、あの時、夕紀を助けたかったのに…… 私は夕紀に何もできなかった。夕紀が学校に来れなくなってからも、私は何もできなくて…… 夕紀のことを考えると、息が詰まるようになってきて…… だから、私は」
 そこまで言って息が続かなくなってしまう。夕紀は黙って聞いてくれている。
「……ごめんね……メッセージ読まなくて、ごめんね」私は、目を閉じて、続けた。
 勇気を振り絞って、言った。言えた。
「美沙」
 顔を上げると、夕紀はゆるく首を振った。
「私が悪かったから、仕方ないって思ってる。だから自分を責めないで」
 その言い方が、夕紀らしかった。自分のせいにして、相手を軽くする。軽くして、相手が逃げられるようにする。
 私は、返す言葉を失って黙った。黙ったまま歩く。

 参道を進むにつれて、杜の匂いが濃くなっていく。若い葉と湿った土の匂いが風に乗ってくる。

「……あと……これ」
 私は、紙袋を夕紀に渡した。白い紙袋――ずっと夕紀に渡せずにいたもの。
「なにこれ? 中、見てもいい?」
「……うん」
 ――修学旅行のパンフレット、教室で配られたプリント、中二終わりの時の文集、私が夕紀と一緒のクラスだった時のもの。
 夕紀が黙って紙袋の中を見ていく横を、私も歩く。
「もう要らないものばかりだけど……」
 今更、こんなものを渡されても、きっと困るだけ。もしかしたら、夕紀の中でのイヤな記憶を呼び覚ましてしまうかもしれない。沈黙が重い。黙ったままの夕紀を横目で見ながら、私は紙袋を渡したことを少し後悔し始めた。
「美沙……ありがとう!」
 私を見上げる夕紀の目には、うっすら涙が浮かんでいた。
「美沙は、さっき、『何もできなかった』って言ってたけど。そんなことない。美沙は、私が居なくなったあとも、こうやって、私と一緒に居てくれた! 嬉しい!」
 そう言って、夕紀は本当に嬉しそうに微笑んだ。
 その言葉に、やっと、私の肩から重いものが落ちていくのを感じた。
「……うん」

 夕紀が、少し間を置いて言った。
「こんなの、わがままだと思うんだけど」
「なに?」
「私……前みたいに美沙と友達でいたい」
 夕紀は、目を逸らさずに言った。声は小さいのに、揺れていない。
 私は、胸が跳ねた。まるで昨日の私みたいだ。私は、この言葉を亜由美に言うのに、とても勇気が要った。なんだか回ってるみたい。私は頭の中で『夕紀→私→亜由美』の図を考えていた。
 私が答えないのを否だと受け取ったのか、夕紀は早口で言い足した。
「あ、都合良すぎだよね。気にしないで。言ってみただけだから」
 私は首を振った。
「ううん、違う」
 息を一つ置いて、やっと言う。
「私も、そう思ってたから。その……びっくりして」
 一拍してから、夕紀の顔がほどけていく。
「ほんと? ほんとに?」
 私が頷くと、夕紀は。「良かったぁ。ほんと良かったっ! 嬉しいっ! ありがとう!」、満面の笑顔を振り撒く。笑うと少し幼く見えるこの笑顔を、また見れる日が来るなんて。私は、懐かしくて涙が出そうになった。
「じゃあ、仲直り!」
 夕紀が右手を差し出してきた。私は、少しだけ笑って返す。
「私たち、喧嘩してないし」
 そう言って、私は夕紀の右手を握り返した。指先が少し冷たくて、夕紀が緊張していたのが伝わってきた。
「そうだね」
 私たちは少しだけ笑った。


 私たちは、手水舎で柄杓を取り、手を洗う。そのまま、本殿へ進んでいく。本殿の賽銭箱の前で、ゆっくり流れる列に合わせて進み、私たちは並んで立って、賽銭を落とした。硬貨が木に当たる乾いた音が、胸の奥まで響いた。二礼二拍手をして、目を閉じる。
 ――どうか、私たちがずっと友達でいられますように。そして、これから先、誰かの軽い笑いに私たちが負けませんように。
 その願いは、神様にというより、自分に向けた誓いみたいだった。
 私は、ゆっくり目を開けて、もう一度頭を下げた。

「次、神楽殿だっけ?」
 亜由美が振り返る。
「そう、今日の本命」
「私も、やっておこうかな、お祓い」
 結構乗り気な夕紀に、私たちは笑った。

 申し込みの用紙に名前を書くとき、指が少し震えた。
 祈祷が始まると、空気が変わった。流れる祝詞、空から降ってくるように響く鈴の音、舞の袖がふわりと動き、白い布が光をすくって、落ちていく。音のうねりだけで胸が温かくようで、ざわついていた心が静まり返っていく時間だった。

 祈祷が終わって、参道を歩く中、杜の中の時間が少しだけ優しくなる。木漏れ日が、肩と髪を小さく叩く。砂利の音が、さっきより軽い。
 亜由美が、ふいに振り返って言った。
「で、仲直りできたの?」
 私と夕紀は顔を見合わせて、同時に言った。
「喧嘩してないし!」
「……揃ってるし」
 自然と笑いがこぼれてきて、私たちの笑い声が杜に吸われていく。


「ね、クレープ食べてかない?」
「そうだね」
 私が言うと、夕紀も「いいね」、と頷いた。
 普通の会話が続いていく。笑い声が続いていく。この何気なさが『続いていく』が、いちばん嬉しかった。

 杜に入った時は、参道の砂利が靴の下で硬く鳴っていて、胸の奥が硬かったのに、今は、柔らかくほどけていっている。
 その変化が、私は心地よかった。
 ――これから先も、こうやって三人で歩ける道にしたい。
 木漏れ日の中で、私はやっと、胸いっぱいに息を吸った。三人で笑った瞬間から、息がちゃんと「今」に戻ってきた気がした。
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