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新妻・卯月の仙台暮らし
噂以上です。 <亀田>
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支店の遠藤課長は噂以上だった。
もちろん良い意味で言っているのではない。
『噂以上に使えない』と言う意味だ。
これが俺の、長期出張の間と、その後桂沢部長の後任として仙台支店に赴任して以降接した、彼への評価だ。
最初居丈高に接して来たかと思えば、二三、切り込んだ質問をしただけで腰砕けになり、その後は意味のないお追従ばかりを口にするようになった。
しかし陰で俺を存分に叩いているのは知っている。彼は気が付いていないようだが、たまたまそう言う場面に出くわすことが何度かあった。そう言う所も使えない、と思う。陰口を言うなら、それを陰口の対象に悟られたら、意味が無いだろう。
コイツ現場に居たら居たで『次からあの人を寄越さないでください』と出禁になるタイプだな。営業先で肝心の質問には答えないくせに無駄な愛想ばかり振りまいて信頼を失い、扉を出た処で負け犬の遠吠えとばかりに顧客先をこき下ろし、その社員に現場を見られる……なんて状況がリアルに浮かんでしまう。
とんだ不良債権だ。
おまけに追従が下手過ぎる。彼が相手の機嫌を取る手段としてやることと言ったら、目の前で誰かをこき下ろす、と言うつまらない上に実に下らないものだ。
それで相手が喜ぶと勘違いしている。その為、俺を持ち上げる一方で前任者の桂沢部長のことを貶しまくる。おそらく、遠藤課長自身がそうされれば気分が良くなるタイプなのだろうが―――俺には逆効果だと言うことが全く分からないらしい。
ますます気分が悪い。これは桂沢さんが倒れてもおかしくないかもしれない。いや、妊娠するまではこんな奴がいても支店を何とか回していたんだから―――ようするに鬼東と遠藤課長、二人の所為だな。あの鬼畜め。しかも巡り巡って俺の幸せな婚約期間が仕事一色に塗り込められる羽目になってしまった。まったく腹が立つ。だからますます俺の眉間の皺も深くなる。そしてますます、新しい部下達に恐れられることになる。
しかし恐れられた方が、この際良いのかもしれない。
やはり支店のやり方はぬるい。桂沢部長は寛大な方だから、そう言う部分も維持しつつ回して行っていたのだろうが―――俺には耐えられそうもない。嫌われるのは慣れている。だから今は目いっぱい根本から、鍛え直すつもりで当たるしかない。
こう言う状況に陥るのは過去に何度かあった。悪態を吐きつつも、仕事にしか能がない俺は困難な状況をひっくり返し、結果を出すことを何処か楽しんでもいる。その為には鬼だと畏れられようが、冷酷なコワモテと思われようが、周囲の恐れを利用して強引にことを進めるのが普通だった。
しかしだからと言って『嫌われることが日常』の生活に、ストレスを感じない訳では無い。
仕事には有利になる、とその状況に納得しつつも、誰かに嫌われる度に密かに傷つき、陰に籠っては毒を吐いていたものだが―――今の俺には帰るべき場所がある。それを思うだけで、気持ちが軽くなるから不思議なものだ。
春には卯月が、うータンを連れてやってくる。そして俺達は届けを出して正式な夫婦になるんだ。それを思えば、この辛い人事をこなすのも、なんら辛くはない。いや、辛いのは変わらないが―――その先には希望がある。
心残りがあるとすれば……卯月が行きたがっていた新婚旅行がお預けになってしまったことだ。いずれ仙台での生活が落ち着いたら、休みを取って連れて行ってやりたい。そして俺も見渡す限りうさぎばかり、と言う場所に行ってみたい。きっと日々の憂さを忘れて、リフレッシュできるに違いないだろう。
しかし先ずは―――ここの地ならし、だな。
鏡を覗き込み、俺は気合を入れる。
この忙しい時に、一人になれることは案外都合がよいかもしれない。仕事に集中すると周りの事が何も耳に入らなくなることがある。ピリピリと殺気を纏う、余裕のない自分を卯月に見せるのは遠慮したい。彼女とうータンとの時間は、俺にとって、貴重なやすらぎの時間なのだ。
今は昼も夜もなく仕事漬けの毎日だ。懐かしさを覚えるような、かつてよく過ごした孤独な日々。遠慮なく仕事に没頭できる状況は、何処か有難くもある。
とは言え実際は事情があって、義母と二人暮らしなのだがな。彼女も仕事で忙しいのでほぼ独り暮らしのように気楽に過ごさせていただいている。
鬼東からも、赴任当初は仕事に専念し奴を油断させるように指示されている。息をひそめて様子を窺っている穴の中の獣を、仕留めるのにはまだ早い。堪えきれなくなって穴から顔をのぞかせた時が、仕留め時だ。
それまではシッカリした漬物石としての役割を果たさなければ、な。
ネクタイの位置をキュッと整え、俺はマンションの玄関を出たのだった。
もちろん良い意味で言っているのではない。
『噂以上に使えない』と言う意味だ。
これが俺の、長期出張の間と、その後桂沢部長の後任として仙台支店に赴任して以降接した、彼への評価だ。
最初居丈高に接して来たかと思えば、二三、切り込んだ質問をしただけで腰砕けになり、その後は意味のないお追従ばかりを口にするようになった。
しかし陰で俺を存分に叩いているのは知っている。彼は気が付いていないようだが、たまたまそう言う場面に出くわすことが何度かあった。そう言う所も使えない、と思う。陰口を言うなら、それを陰口の対象に悟られたら、意味が無いだろう。
コイツ現場に居たら居たで『次からあの人を寄越さないでください』と出禁になるタイプだな。営業先で肝心の質問には答えないくせに無駄な愛想ばかり振りまいて信頼を失い、扉を出た処で負け犬の遠吠えとばかりに顧客先をこき下ろし、その社員に現場を見られる……なんて状況がリアルに浮かんでしまう。
とんだ不良債権だ。
おまけに追従が下手過ぎる。彼が相手の機嫌を取る手段としてやることと言ったら、目の前で誰かをこき下ろす、と言うつまらない上に実に下らないものだ。
それで相手が喜ぶと勘違いしている。その為、俺を持ち上げる一方で前任者の桂沢部長のことを貶しまくる。おそらく、遠藤課長自身がそうされれば気分が良くなるタイプなのだろうが―――俺には逆効果だと言うことが全く分からないらしい。
ますます気分が悪い。これは桂沢さんが倒れてもおかしくないかもしれない。いや、妊娠するまではこんな奴がいても支店を何とか回していたんだから―――ようするに鬼東と遠藤課長、二人の所為だな。あの鬼畜め。しかも巡り巡って俺の幸せな婚約期間が仕事一色に塗り込められる羽目になってしまった。まったく腹が立つ。だからますます俺の眉間の皺も深くなる。そしてますます、新しい部下達に恐れられることになる。
しかし恐れられた方が、この際良いのかもしれない。
やはり支店のやり方はぬるい。桂沢部長は寛大な方だから、そう言う部分も維持しつつ回して行っていたのだろうが―――俺には耐えられそうもない。嫌われるのは慣れている。だから今は目いっぱい根本から、鍛え直すつもりで当たるしかない。
こう言う状況に陥るのは過去に何度かあった。悪態を吐きつつも、仕事にしか能がない俺は困難な状況をひっくり返し、結果を出すことを何処か楽しんでもいる。その為には鬼だと畏れられようが、冷酷なコワモテと思われようが、周囲の恐れを利用して強引にことを進めるのが普通だった。
しかしだからと言って『嫌われることが日常』の生活に、ストレスを感じない訳では無い。
仕事には有利になる、とその状況に納得しつつも、誰かに嫌われる度に密かに傷つき、陰に籠っては毒を吐いていたものだが―――今の俺には帰るべき場所がある。それを思うだけで、気持ちが軽くなるから不思議なものだ。
春には卯月が、うータンを連れてやってくる。そして俺達は届けを出して正式な夫婦になるんだ。それを思えば、この辛い人事をこなすのも、なんら辛くはない。いや、辛いのは変わらないが―――その先には希望がある。
心残りがあるとすれば……卯月が行きたがっていた新婚旅行がお預けになってしまったことだ。いずれ仙台での生活が落ち着いたら、休みを取って連れて行ってやりたい。そして俺も見渡す限りうさぎばかり、と言う場所に行ってみたい。きっと日々の憂さを忘れて、リフレッシュできるに違いないだろう。
しかし先ずは―――ここの地ならし、だな。
鏡を覗き込み、俺は気合を入れる。
この忙しい時に、一人になれることは案外都合がよいかもしれない。仕事に集中すると周りの事が何も耳に入らなくなることがある。ピリピリと殺気を纏う、余裕のない自分を卯月に見せるのは遠慮したい。彼女とうータンとの時間は、俺にとって、貴重なやすらぎの時間なのだ。
今は昼も夜もなく仕事漬けの毎日だ。懐かしさを覚えるような、かつてよく過ごした孤独な日々。遠慮なく仕事に没頭できる状況は、何処か有難くもある。
とは言え実際は事情があって、義母と二人暮らしなのだがな。彼女も仕事で忙しいのでほぼ独り暮らしのように気楽に過ごさせていただいている。
鬼東からも、赴任当初は仕事に専念し奴を油断させるように指示されている。息をひそめて様子を窺っている穴の中の獣を、仕留めるのにはまだ早い。堪えきれなくなって穴から顔をのぞかせた時が、仕留め時だ。
それまではシッカリした漬物石としての役割を果たさなければ、な。
ネクタイの位置をキュッと整え、俺はマンションの玄関を出たのだった。
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