氷の君主は、紅の騎士と腹黒宰相に捕らわれ支配される

星野 千織

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第四話:静寂を裂く侵入者

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 帝都に夜が訪れる。

 長い一日の公務を終え、俺は自室へと戻った。煌びやかな内装の部屋は、どこか空虚で、無機質な静寂が漂っている。

 湯を満たした大理石の浴槽に身を沈め、全身の疲労を洗い流す。湯気が立ち上る中、俺はそっと目を閉じた。冷徹な君主の仮面が湯に溶け出していくようだ、。心の奥でいつも張り詰めている緊張が、わずかにほぐれていくのを感じる。

 湯から上がる。熱を帯びた肌に触れる冷たい空気は、普段よりずっと鋭く、ふるりと小さく身震いした。もう少し、湯の温度を高めに頼んでもよいかもしれない。明日、使用人に申し付けなくては。
 そんなことを考えながら、俺は体を軽く拭いてしまうと、素肌に薄手のローブを羽織った。

 背まで伸びた艶やかな黒髪は、まだ僅かに濡れて水滴がぽたりと落ちる。薄い布が熱った肌に触れる感覚は、ほんのわずかに官能を伴い、しかしそれを味わう余裕は今の俺にはなかった。はぁ、と小さく息を吐く。

 鏡に映る自分の顔――そこにあるのは冷徹な君主の面影ではない。
 ただ、全身をすり減らし、精神を張り詰めきった一人の疲れた男の、それだけだった。

(いつまで、こんな日々が続くんだろうな、俺は)

 心の奥底に沈んでいた疑念が、ふっと浮かび上がる。
 思わず漏れたため息は、静かな部屋の中でひどく重く響いた。

 君主としての責務。
 暗殺の恐怖。
 そして――ライオネルとアシュレイ、あの二人の逃れがたい視線。

 どれもが俺を縛りつけ、心をすり減らしていく。
 いつになれば、この重圧から解放されるのだろう。

 原作のセレスティンは、物語の序盤で短い生を終えた。
 本来なら、俺もその運命を辿っていたはずだった。
 だが、原作知識を使って生き延びてしまった――それは本来、喜ぶべきことなのに。

 せっかく生きのびたというのに、心だけがじわじわと削られていく。
 未来は既に俺の知っているルートから外れ、先が見えない。不安は深まるばかりだ。

 寝台へと向かい、重力に負けるように体を放り投げた。
 柔らかいはずの寝台も、今の俺には何の救いにもならない。

 天井を見つめ、意識を遠くへ手放そうとする。
 ――ゆっくり眠れた記憶など、もう何年もない。
 わずかな物音にすら反応してしまうほど、俺の神経は研ぎすまされてしまっていた。

 そして。

 その時だった。

「……セレスティン様」

 低く、有無を言わせぬ声が、寝室の扉の向こうから響いた。
 ノックは、なかった。
 まるで、最初からそこに存在していたかのように、声は扉を透過して俺の耳に届く。

 俺は飛び起きるようにして、反射的に身構えた。
 全身の毛穴が開き、肌が粟立つ。
 暗殺者か――!?
 ここは私室、それも寝台のある最奥。守りは最も固いはずなのに。

「……誰だ」

 声が震えそうになるのを、必死に押し殺した。
 君主としての威厳を保とうとするが、内面では恐怖が渦巻いていた。
 暗殺の恐怖が、俺の脳裏を駆け巡る。
 前世からの記憶が、血塗られた刃を突きつけられた悪夢を蘇らせる。

「私です。ライオネル」

「そして、アシュレイも」

 続けて、二人の声が響く。
 扉が開かれる気配はないが、気配はそこにある。

 俺は息を詰めた。
 彼らが、なぜこの時間に、俺の寝室の前にいるのか。
 私的な空間だ。それも最も無防備になる寝室に、招かれざる彼らが。

「……何の用だ。下がれ」

 喉の奥から絞り出すように告げた。
 普段、彼らに向ける冷徹さとは違う、怒りと恐怖が入り混じった声色だった。
 警戒心はむしろ強まるばかりだった。
 今の彼らは、俺にとって暗殺者や政変とはまた別の、イレギュラーな存在に育ちつつあった。

「恐れながら、セレスティン様。我々は、貴方様の御身を案じ、罷《まか》り越《こ》しました」


 アシュレイの甘やかな声が、薄い扉越しに響く。
 それはまるで、俺の警戒心を解こうとする呪文のようだった。

「ご命令とあれば、喜んで下がりましょう。ですが、その前に、少しだけお時間を頂けませんか」

 ライオネルの声は、先ほどまでの丁寧さを失い、どこか切羽詰まった響きを帯びていた。

 返答する間もなく、寝室の扉がゆっくりと音もなく開いた。
 俺の意志に反して、勝手に動くその存在に、思わず目を見開く。

 薄闇の中に、二人のシルエットが浮かび上がる。

 鮮やかな紅い髪のライオネルと、銀の光を帯びたアシュレイ。
 彼らの眼差しが、真っ直ぐに俺を射抜く。
 ローブ一枚の無防備な俺の姿を、彼らはためらいもなく見つめている。
 まるで、その視線が俺の薄い布を剥ぎ取り、隠された全てを暴こうとしているかのように。

「何をしている! 貴様ら、一体何故、私の許可なく私室に侵入する!? 暗殺者と断じられてもおかしくない行為だぞ!」

 普段見せないほどピリついた威圧感を彼らに向け、激しく叱責した。
 だがそれは、恐怖の裏返しだと自分でも分かっていた。
 冷徹な君主の仮面を被らなくてはならないのに、一度緩んだ心が、それに追いつけていない。

 ライオネルは俺の怒気を真正面から受け止め――それでも、蕩けるように目を細めた。深紅の瞳が熱を帯び、奥底で暗く淀む。
 それは、怒りを向けられたことすら悦びとして貪る獣の光だった。

 アシュレイもまた、いつもの柔らかな微笑を微塵も崩さず、音を立てず一歩近づいてくる。
 銀の髪が揺れ、その瞬間に漂うわずかな香りすら、俺の逃げ道を塞ぐように絡みついた。

「セレスティン様が……そのように心を乱されるとは。
 私どもは、光栄の至りでございます」

 囁く声は甘い。
 だがその甘さは、砂糖ではなく、深い夜の毒に似ている。
 俺が見せた“無防備”も“動揺”も、彼らが長く渇望していたものだった――その事実に、背筋が凍りつく。

「貴方様が弱音を吐いてくださらないことが、我々は何より心配なのです。
 ですから……ほんの少し、強引にでもお休みいただこうと」

 ライオネルが寝台へと踏み入り、視界がその影で完全に覆われる。
 圧迫感が、肌へ、喉へ、肺の奥へと浸透していく。
 逃げられる場所は、もう背後の壁しかない。
 それすら、じわじわと二人の存在に侵食されていく。

「君主たる貴方様が、これ以上心労を重ねるなど……我々には耐えられません。
 どうか――我々に癒しを与える権利をお与えください、セレスティン様」

 アシュレイの指先が頬に触れた。
 ひんやりとした触れ方なのに、触れた跡が火傷のように熱く感じられる。
 そのまま顎へとすべり、軽く上向かされる。
 呼吸が喉の奥で引っかかり、胸が勝手に震える。
 気がつけば、背に壁があたっていた。
 退く場所を失い、茫然と視線を向ける事しかできない。

 二人の眼差しが絡み合い、俺を中心に渦を巻く。
 怒りを向けようが拒絶しようが、それすら彼らにとっては甘美な“反応”でしかない。
 なだめるような声とは裏腹に、瞳の奥底では――獰猛な捕食衝動が飢えて蠢いていた。

 寝室に満ちる空気が、甘く、重く、熱を帯びて変質していく。
 気づけば俺の心臓が、逃げ道を探すように早鐘を打っていた。

 この夜――
 二人の手に触れられた瞬間から、俺はもう戻れない場所へ連れていかれる。

 そんな確信が、言葉にもならないまま胸に沈んでいった。
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