転生令嬢エヴァの婚約破棄から始まる愛と妄想の日々

キョクトウシラニチ

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3章 逃げる悪役令嬢はやらかし王子に捕まるか

3-3

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 何もかも投げ出して、ナンシーは歩いていく。
 私はいつもそうかも知れない。いつも逃げるしか出来ない。
 殿下に会いたくないから留学して逃げて、今もお茶会が辛くて逃げている。
 だって辛いから。あそこにはもう居たくないから。
 王城の東側には噴水があり、その奥は林で少し見通しが悪い。隠れるのにはうってつけなのだ。小さい頃殿下に追いかけられて逃げて知った穴場だった。

 林に少し入って、木の陰でナンシーはドレスのまま大きな岩に座った。

 逃げて来てしまった。
 もう嫌だった。
 殿下も、王太子の婚約者としての自分も、ベルゼル侯爵令嬢も、あの場所も…
 こんな私はきっと殿下の婚約者なんて無理だわ。王妃様みたいに強くないもの。きっと役立たずって言われるわ。ダメ。できない。辛い。

『貴族たるもの他人に感情を悟られてはならない。』

 だから決してここでは泣かない。
 ここでは心を落ち着けるだけ。

 そう思って、静かに目を閉じる。

 静かに目を瞑って熱くなった瞼を休めていると、少し離れた辺りからサクリと草を踏む音が近づいてきた。

「コーエン公爵令嬢?そちらにいらっしゃいますか?」

 もしかしたら木からはみ出して見えていたのかも知れない。子供の頃と違って、大きくなった身体と、ドレープのきいたドレスのせいだ。今日のナンシーは王太子の王家の正装に合わせて、白い色を基調としたドレスにしたから、よけい見つけ易かったのだろう。王妃様の侍女が探しにきたのかしら?

 少しだけ木の後ろから顔を覗かせると、庭園の端、林に入る間際にトーン子爵令嬢が立っていた。少し離れたところにお供している騎士の姿もあった。

「体調は大丈夫ですか?」
 貴族令嬢にしてはとても人懐こい笑顔をするトーン子爵令嬢に、落ち込んでいた気持ちのせいでナンシーはイライラした気分になる。
「いえ、大丈夫じゃないわ」
 硬い声が出た。自分の声に驚いて思わず手を自分の口に当てた。
「では、王宮にいらっしゃるお医者さまの…」
「行きたくないのっ」
「でも…」
「放っておいて頂戴!」
 自分を気にして探しに来てくれた人に、酷いことを言っていることは分かっている。
 きっと私が出て行くところを、たまたま見かけて、気にかけてくれた優しい人よ。でも…

 でも、あの騎士と彼女はきっと素敵な関係を築けているわ!私と殿下の間にないような関係を。

 完全に八つ当たりだった。分かっているけれど、悔しくて惨めで堪らなかった。
 ただ殿下に意地悪をされるだけの私。対して騎士に大事にされる彼女。
 なぜ私はこんなに嫌な目に遭わなければならないの?!

「殿下なんて…殿下なんて…大っ嫌い!!もう嫌なの!」
 堰を切って流れ出た感情は止めることが出来なくて、でも、わずかに残った矜持で、ただそう叫んで立ち竦むことしかできなくて…

 自分の制御が出来なくなった。視界が歪んで、その後も何か喚いたと思う。自分が何を言ったのかは思い出せなかった。
 この時の記憶は、哀れな子供を慈しむ母の様な表情をしたトーン子爵令嬢が私に走り寄って、優しく腕に包んでくれた事だけだった。



 涙が枯れて、落ち着いた頃、やっと令嬢の腕の中からナンシーは顔を上げた。
 泣き過ぎて、しゃくりあげるような変な息が続いていたけど、やっと普通の精神状態に戻って来たような気がする。
 トーン子爵令嬢の胸がとても柔らかくて、良い匂いがして、ナンシーはつい頬擦りしていた。
 抱き締めるこの令嬢も、泣きじゃくるナンシーも、とてもじゃないけど『貴族』とは言えなかった。だけど、ナンシーの心はじわじわとこの女性の優しさで癒されていた。


「落ち着いてきましたか?」
 腕の力を抜いたトーン子爵令嬢はナンシーにハンカチを渡してくれた。

「ええ。ごめんなさい。えと、トーン子爵令嬢…」

「大丈夫ですわ。少しの間私も気分転換に王妃様自慢の庭園の散歩をさせてもらっている予定ですから。あと、先ほどの王族への不敬な発言なんて聞こえませんでしてよ」

「ふふふ」
 面白い言い方についナンシーは笑った。

 ふと、急に真顔になったトーン子爵令嬢がポツリと切り出した。
「私。この間、婚約破棄されたんです」

「え!?」
 いきなりの話題転換にも驚いたけど、その内容にも驚いた。
 ナンシーはずっと留学をしていて、帰国してここ1年程で貴族名鑑を覚えていたが、昨今の貴族の動向まではしっかりと把握していなかった。子爵家以下は重要視していなかったこともある。
「ご存知ありませんでしたか。貴族主催のパーティの最中、大広間で、いきなり婚約破棄を言い渡されまして」

「何ですって…」
 衆人環視の中での婚約破棄なんて、とんでもないことだ。

「とてもショックでしたわ。でも、その時言われました、『君は僕を見てくれない』って言葉で、私も彼の事好きでは無かった事に気付きました…それで、私がずっと彼のことを傷つけていた事も知りませんでした。…どちらが悪いのでしょう?ずっと彼を傷つけていた私と、みんなの前で嫌になって婚約破棄を口にした彼とでは…」

「…」
 ナンシーは何も言えなかった。

「どちらともが悪いと言える点は、『相手を思いやることができなかった』と言うことでしょうか。婚約して、結婚に向かっていたのに、私は彼を好きになれなくて、彼もそれを我慢して、爆発してしまった…」

「…どちらとも…悪い…」

「ええ。私も今となってはもっと相手の事を知ろうと努力すべきだったと思うのです。私は一部の人から見たら『婚約破棄された可哀そうな女』かも知れませんが、冷静になったら、私は『婚約者の事を好きになろうとしなかった女』なのです。まぁ、結果的に婚約が破談になって良かったと思います。きっと冷め切った婚姻になっていたでしょうから。
 だから…」

 トーン子爵令嬢はジッとナンシーを見た。彼女はニコニコ笑っている時はとても優しい雰囲気なのに、真顔になるとふっくらした頬には似つかわしくないシャープで切れ長の瞳をしていた。

「もっと、殿下と正直に話し合うのが良いと思いますよ。我慢だけではダメなのです。でもこれは、コーエン公爵令嬢が『殿下とちゃんとした絆を築きたい』と思っていれば、の話ですが」
 トーン子爵令嬢は最後に「私も、もっと会話をしていれば…」と小さく溜息交じりの言葉を漏らした。

 彼女の婚約破棄の話はきっとまだ傷が癒えていないはず。なのに、自分の事を持ち出して、アドバイスをくれた。何ていい人なんだろう。
 ナンシーはまた少し涙ぐんで、一つ勇気を出して彼女に聞いた。

「ねぇ、トーン子爵令嬢。私あなたと仲良くなりたいわ。お友達になってくれないかしら?」

 そう言われたトーン子爵令嬢は身分が高すぎるナンシーに遠慮がちに問うてくる。

「ま、まぁ!よろしいのでしょうか…?」

「お願い。私の事はナンシーと呼んで頂戴」

「は…はい…では、ナンシー様。私の事はエヴァと…」

「エヴァ様。では、お手紙を書いてよろしいでしょうか?」

「ええ。勿論。お待ちしておりますわ」

「ふふふ。私。留学しておりましたでしょう?ですから年の近い令嬢の友達が少なくて…嬉しいわ」
 殿下に今日も嫌な気分にさせられたけど、新しいお友達が出来たことで、ナンシーは少し心が浮き立った。

「留学…どちらのお国に?」

「えーっと6か国あって、サファル、ニートベナ、クウェーサ、ドイン、エメラル、トッドイですわ」

「まぁ!そんなに!素晴らしいですわ!私、特にドイン国に興味がありまして、もしよければお話を聞きたいわ!」

「ええ。もちろん。色々学ばせてもらいましたので…、あ…そろそろ、戻った方がいいかしら。貴女のお相手がこちらを見ているわ」

 少し離れたところで待機していた彼女のエスコート相手の騎士がこちらを見ていた事に気付く。もう30分は席を離れているわ…もしかしたら、王妃様が心配して捜索してしまうかもしれない。
 エヴァは彼をチラリと見た後、ブンブンと手を振って、焦った口調で否定してきた。
「え?相手なんて、違います。彼は今屋敷に滞在している騎士様で、私とは何の関係も…今日たまたま暇だからエスコートするっていきなり付いてきたんですよ」

「嘘!?貴女達…?だって…彼は新しい婚約相手じゃなくって?」

「ええ!?そんな事ありませんわ」

「まぁ!…彼、凄くあなたの事好きではないですの?気付いてないの?私、羨ましくって…」
 思わず出た言葉にナンシーは自分の口を塞いだ。

「あの人は女の人にすごく距離が近いんだと思うんですよ。ああいうのよりは、私にはジョージ王太子様がさりげなく、かつ上品なエスコートをナンシー様にする方が素敵だと思っていましたよ!なにより、凄い美形ではないですか」
 あっけらかんとズバり言うエヴァに、ナンシーの目が見開いた。

「美形って…美形でも、あんな意地悪するなら、絶対あの騎士様の方がいいわよ」

 二人は少し言い合いになった。

「意地悪はしませんけど、彼、きっと私の事なんてなんとも思っていませんよ。きっと、近くに女がいるから、適当にちょっかい出してやるかってもんですよ。それに、ジョージ王太子の意地悪なんて、どうせナンシー様に構って欲しくてやってるんじゃないですか?」

「構って欲しい…?どういう意味?」

「ほら、小さい男の子が可愛い子を虐めるみたいな。嫌がったり、泣いたりする反応が返ってくるのが嬉しいんですよ。あと、女性相手に何を話したらいいかわかっていないコミュ…交流下手な方とか…だから、話し合いが大事なんです」

 そう言われてナンシーは何か心にストンと納得するものが落ちた。

「え?殿下が…私に構って欲しいって思っているかもって…こと?」
 少し顔が熱い。そんなはず、ない。と、思うけど…

「ええ。だって好きの反対は、無関心ですもの。本当に興味が無ければちょっかいはかけません。それに、今って少し閨の事に興味があるお年頃真っ最中っていうか、ふふ、その、お年頃ですからね。殿下は」

 そう、エヴァが言い切った時、遠くから人の声が近づいてきた。

「ナンシー!どうしたの?大丈夫?」
 王妃様が何名かの令嬢と、従者や侍女を引き連れてやってきた。

 ナンシーは貴族の仮面をつけて、ニコリと上品な笑顔を作ると、「ああ、王妃様。わざわざ探して下さったのですか?ありがとうございます。少し気分転換に席を外したところで、貧血気味になって座り込んでいたところに丁度トーン子爵令嬢が来てくださって…付き添ってくださったの…」
 口を扇で隠しながら、弱々しく微笑むと、その演技力に隣のエヴァはクスリと笑っていた。

「はい。ナンシー様の顔色が良くなってきましたので、そろそろ戻ろうと話していたのです」

「ありがとう、トーン子爵令嬢。良かったわ。医者は必要ない?」
 王妃様はナンシーを自分の子供の様に大事にしてくれるので、額に手を当てたり、目を覗きこんだりと忙しなく心配している。そして、
「もう!あの子ったら、こういう時にいないなんてタイミングが悪いんだから」と一人でブツブツ憤っていた。

「さ、ではそろそろ茶会も御仕舞いですから、いらっしゃいナンシー。歩ける?」

「ええ。王妃様。行きましょう」

 席を外していても特に叱られることもなくて、ナンシーは少しホッとした。
 だけどまだ若輩なナンシーには、王妃様が泣いて充血した白目や、少しだけ落ちた目の周りのお化粧に気付いていて、ナンシーを心配していることは分かっていなかった。
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