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以津真天の待ち人
漆
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*
────いつまでも変わらない、何も。人はなんと愚かな。
町が焦げる匂い。赤々と燃える町を木の枝から見下ろし、以津真天はひとつ鳴いた。嘆きに似た悲しい声色でひとつ。やがて彼は町に降り、人々の亡骸に寄り添ってまたひとつ鳴く。それを聞いた人々は、その鳴き声に「いつまでも、いつまでも」という人の言葉を聞いたそうな。
「────うわあ、綺麗な鳥!」
山の中腹、一際大きなくぬぎの木の下で少女は声を弾ませた。黒髪をきつくおさげに結って、薄汚れたセーラー服にもんぺを身に着けた十五、六くらいのうら若い乙女だ。
幹に近い太い枝にとまっていたその鳥は、少女の声に閉じていた目を少しだけ開ける。熱いまなざしが向けられているのに気が付き、しまっていた翼を広げはためかせた。黒い羽は光が当たると七色に輝いた。垂り尾が風によって羽衣のように柔らかく揺れる。
少女はハッと息を飲み、そして慌てて両手を振った。
「ああっ、待って、待って頂戴! そこにいて、お願い!」
煩わし気に少女を一瞥したその鳥は、翼をしまって身じろぎをすると、身を縮めてまた目を閉じる。少女が輝く目を己に向けてくるのが分かった。
「ありがとう、鳥さん! うんと素敵に描くから」
少女は嬉しそうな声で礼を言うと、手に持っていた風呂敷を広げて中からスケッチブックと鉛筆を取り出す。そしてその場に座り込んで、黙々と手を動かし始めた。
「貴方みたいな鳥、初めて見た。七色に光る羽なんて聞いたことがないもの。なんていう種類なのかしらね?」
少女はたまに顔をあげて微笑みかけては、またスケッチブックに視線を落とす。何度もそれを繰り返していた。
その鳥は、鳥でいて鳥でない。正しくは怪鳥という。何百年と生き、人に恐れられ、昼に眠り夜を生きるいきもの、名を以津真天といった。一部を除き、妖は人の目に触れることはない。この少女はその一部に入るようだった。現に、少女の傍に近寄ってきた狐には三本の尾があった。
「あれ、あなたは妖なのね。私に触れせてくれるの?」
スケッチブックを傍らに置き、妖狐を抱き上げた少女は嬉しそうに頬を緩める。少女は妖を恐れなかった。
妖狐は少女の左手に鼻を寄せた。塗り薬のきつい匂いに気が付いたらしい。
「ごめんなさいね、臭う? 私、工場で怪我をしてしまったの。機械に指が少しだけ巻き込まれてしまって。それで、先生が憲兵さんに頼んでくださって、怪我が癒えるまでは親戚のいるこの街で養生してもいいんですって」
狐はひとつ鳴くと少女の膝から飛び降りる。一度振り返ってから、木々の陰に消えていった。少女は寂しそうにその背中を見送り、その瞳を以津真天に向けた。
「あなたも行ってしまう?」
以津真天は目を反らして翼に首を埋める。少女は嬉しそうに顔を綻ばせると、スケッチブックを再び開いた。
少女は日が傾くころに、名残惜し気に帰っていった。
「明日もここにいる?」
そう問いかけたが、答えはない。以津真天は寝床を定めない妖だ。夜の帳が降りる頃には、その大きな翼を羽ばたかせ闇に飛び立つ。夜の間に何千と言う距離を飛び回る。
月がのぼり、以津真天は翼から顔を出した。そして二三度、つばさを大きく羽ばたかせ夜の空に飛び立った。
「あっ、いた!」
少女は声を弾ませた。
以津真天はほんの気まぐれで、また今日も同じ木に休んでいた。少女の期待に応えたかったわけではないし、興味があったわけでもない。本当になんとなく同じ木にいたのだ。
少女は昨日と同じように根元に腰を下ろすと、スケッチブックを取り出してさらさらと滑らせる。小一時間ほど少女は黙ったまま鉛筆を走らせていた。あまりにも静かで、以津真天は時々うっすらと目を開けて下を見下ろしたが、少女は変わらずそこにいて熱心に何かを描いている。
さらに一時間ほど経って、日が天頂に届いた頃に、うんと大きく伸びをする。以津真天の傍らでひそひそと様子を窺っていた小鬼がその頭にがひょんと飛び乗る。少女は驚いたように「ひゃあっ」と声をあげ目を瞬かせた。
おさげにぶら下がって遊ぶ小鬼に、少女はくすくすと笑い声をあげる。それをみた他の小鬼たちも、我先にとばかりに少女の肩や頭に飛び乗った。
様子を窺っていたすねこすりや豆狸、おとら狐が、少女のまわりに集まり始める。少女は怖がるそぶりもなく、優しい顔で手を差しだした。
「ここは妖が多いのね」
『お嬢さんはおもてら町のことをご存じないか』
「えっ、あなた話せるの?」
『おかしなことを申される。人間が喋るのだから、妖だって喋りましょうぞ』
少し気取った顔をした猫又が、ひげをぴんと立ててそう言った。
『おもてら町はユマツヅミさまがおわします結守の社の御膝元、人と妖がともに暮らす町』
「ユマツヅミさま……確かこの森の麓に神社があるとか」
『私たちをお守りくださる。この町も幾度も戦火を受けたが、我々の森は守られた』
少女は言葉を詰まらせた。確かに少女のいた都心の方には、もう緑と言えば畑の南瓜の蔦くらいしか見当たらない。見渡す限りの焼け野原、道に生える雑草でさえも生気のない枯れ果てた色だった。
この森はまだ生きている。肉付きの良い葉が青々と茂り、生き物が暮らしている。
『お前もここに居ればよろしかろう』
『そうだ。お前ならいても良い。人の子と話すのは楽しい』
「でも私、怪我が癒えたら帰らなくちゃいけないの」
少女は家族のことを思った。
毎晩鳴り響く警報に、眠れない夜を過ごしているのではないか、飢えをしのぐことはできているのか。一人だけ安全な所に来てしまった罪悪感が胸の中を占める。
少女は気を取り直すように己の頬を掌で挟むと、ふんと息を吐いて顔をあげた。
「ねえ、あそこにとまっている鳥も妖なの? 何ていう妖?」
少女は以津真天を指さした。
『怪鳥の以津真天。人間を哀れむおかしな妖だ』
「やっぱりあなた妖だったんだ」
少女はそう声をかけた。以津真天は羽一枚もピクリとも動かさない。
少女は肩を竦めると、「なにがおかしいの?」と声を潜めて尋ねる。妖たちは悪びれる様子もなく口々に好きなことを言った。
『人間の死体に寄り添って、“死体をいつまで放っておくんだ“と鳴くんだよ』
『“いつまで、いつまで”って』
『人間を哀れんだって仕方がないのに』
『人間は愚かだから』
少しだけ居心地が悪くなって、少女は口を噤んだ。
『争って、負けて、同じ道を歩く』
『そしてまた争う』
『争う、負ける、争う、負ける』
「違う、日本は負けない」
言い聞かせるように強く言った。妖たちはくすくすと笑う。どうかな、それはどうかな、と意地悪く囁く。少女は顔を顰める。その時、頭上の木がばさばさと大きく揺れた。皆が口を閉じ顔をあげる。
一番太い枝にとまっていた以津真天が、そのぎょろりとした目をしっかりと開いて少女と妖たちを見下ろしている。
少女はまるで吸い込まれるかのように、その瞳をじっと見つめた。夜空を移すような深い藍色の瞳がとても美しかった。
気が付けば、妖たちはぞろぞろと森の奥へ帰っていった。
「助けてくれたの?」
少女がそう問いかける。以津真天は返事をすることなくその大きな目でじっと少女を見つめる。少女は肩を竦めた。
「貴方の目、初めてちゃんと見た。翼と同じでとても綺麗ね」
以津真天は直ぐにまたいつものように翼に首を埋めた。
少女は小さく息を吐いて、遣る瀬無い思いを抱えたまま木にもたれ掛かる。言葉にしようのない感情が胸の中を渦巻いていた。
父さんや兄さんがお国のために出兵したことも、兵隊さんたちのために食糧を我慢してひもじい思いをするのも、竹槍の訓練をすることも、必死になって工場で働いたのも────全部全部、妖たちからすれば、「愚かなこと」とたった一言で片付いてしまうことなのだ。私たちがどれだけ必死に頑張っても、我慢しても。
悲しいのか、腹が立つのか、よくわからなかった。ただ無性に涙が出そうになった。
以津真天はそんな少女をじっと見つめていた。
その夜、以津真天は木を飛び立った。夜空を横切り、赤々と燃えるひとつの町の上を飛んだ。
また一つの町が燃えた。たくさんの人間が死んでいる。誰にも弔ってもらえない骸があちこちに転がっている。
────なんて詮無い。
以津真天は骸の傍に降り立った。
己の中で一番古い記憶には、戦火に巻き込まれて息絶えた誰からも見向きもされない骸を、ひどく憐れむ自分がいた。何て可哀想な、なんて哀れな人間なんだろう。そう思っていた。
なぜならば自分もまた、そうして死んで、怨霊が鳥と化した妖だったからだ。そうして気が付けば、骸の傍に寄り添って、いつまで放っておく気なのだとそう鳴いて知らせていた。
けれど何度も何度も戦は繰り返され、同じ道を辿り、絶望に染まりながら息絶える人間たちを見ていると、悲しみはやがて虚しさに変わった。次第に増えてゆく骸の数と比例するように、虚無がどんどん広がってゆくのだ。
────きっとあの少女も、あの少女の家族も、あの町に住む人間も、きっともうじき死んでゆく。私はその骸の上を飛び過ぎて、また新たな骸を目にするのだ。
情を抱くことに疲れてしまった。もう何も考えずに、ただ深く眠りたかった。
けれど以津真天という化け物は、骸に寄り添う妖だった。どこか悲し気な鳴き声は今日も知らない街に響く。
「あなた、ここが寝どこなんでしょう? だって同じ鳥が寝どこでもない木に三日三晩もいたりしないもの。ふふ、良かった! これで心置きなく続きを描ける」
以津真天はまた同じ木にとまって浅い眠りを繰り返していた。明け方近くまで夜空を飛んで気が付けばこの木にまた戻っていた。特別居心地が良いという訳でもない、なんなら昼間はこうしてあの少女がやってきて騒がしいくらいなのに。
少女の言葉に返事はしない。最初から返す気がなかった。
「ねえ、あなた。野いちごは食べる? この近くで採ったの。昨日、助けてくれたお礼」
うっすらと目を開けると、少し汚れた手ぬぐいに、野いちごが数粒転がっている。以津真天が動かないのを見かねて、少女は肩を竦めそれを根元に置いた。
スケッチブックを広げながら、少女は唇を尖らせる。
「貴方って、親切なのか意地悪なのか、よく分からないひとね。ああ、ひとではないか」
少女の声色は優しかった。季節が夏に移り変わるころには、それが心地よくなっていた。
少女は毎日現れた。現れてはスケッチブックを開き、少し筆を進めはては以津真天に語りかける。以津真天は相変わらず、少女に声をかけることはなかった。けれども気が付けば少女に近い枝にとまって、少女の話を聞いていた。
関わる気なんてなかった。どうでもよいはずだった。けれど明け方に帰る場所は、自然とこの木になっていた。
少女が返った黄昏時。以津真天が休む木の下に、気が付けば人影があった。
「────以津真天の旦那。妙なものに付きまとわれているようですな」
ぼろぼろの袈裟を身に着け僧侶のような姿をした妖がいる。深く笠をかぶり直し静かにそう尋ねる。以津真天は翼に埋めていた顔をあげて、少し目を見開く。
「……野寺坊か。久しい顔だな」
野寺坊と呼ばれたその妖は黙ったまま俯くようにひとつ頷く。
「物好きな娘だよ」
翼を広げ枝から飛び降りた。宙で旋回し野寺坊の隣に着地するころには、着流しを身に着けた壮年の男の姿に化けていた。
「なぜここが?」
「以津真天が同じ木にとまるのは、他の連中からすると物珍しいようで」
野寺坊は淡々とそう言う。妖の便りは風より早い。
「どういった心変わりであられるか」
深くかぶった笠に隠れた興味深げな瞳が、以津真天をじっと見上げる。その目から逃れるように顔を背ければ、珍しく野寺坊が小さな笑い声をあげた。それが気に入らなくて一層口を固く閉ざす。
少女のことを未だにどうでもいいと思っていると言えば嘘になる。以津真天の中では少なからず何かしら思うところがあった。けれど今までに経験したことのないその感情をどう言い表せばよいのかが分からなかった。
昼間の少女は空虚な夜とは正反対な存在だった。少女の声を聞けば夜の虚しさは増して、広がる虚しさは少女によってかき消された。
こんな時世では珍しいほどに少女の心は美しかった。哀れな夜に光を射す月のように澄んでいた。息苦しい世の中で、少女の傍は心地よかった。
「同じ哀れな生き物でも……あれはどこか違う」
「果たしてそれはどうであろうかな」
野寺坊の含んだ物言いに以津真天は眉間に皺を寄せた。口を開いた時には、野寺坊の姿はなかった。
「ねえ、貴方。名前はないの? こんなにも素敵な羽を持っているんだから、誰かが貴方にうんと素敵な名前を授けたりしなかったのかしら」
幾日が過ぎただろうか。少女のスケッチブックには少しずつ鮮やかな色が乗せられていた。
以津真天はいつも通り、返事をすることなく翼に顔を埋めた。少女はおかしそうにころころと笑う。
「もしも持っていないのならば、私が授けてもいい? こんなにも仲良くなったんだもの。ずっと“貴方”なんて寂しい」
勝手にすればよい、とでも言いたげに少女を一瞥し、その大きな羽をはためかせ、鳥は空高く舞い上がった。空の高い所も、木のわずかな隙間でさえも彼は自在に飛び回る。少女は惚れ惚れとそれを見つめていた。
「木の陰を縫うように、自由に高く飛び回る。貴方の名前は……そう、“かげぬい”」
流れ星に当たったような衝撃が走った。まるで翼をもう一本授けられたかのように、風が体を押し上げるかのように体が軽い。
羽の一本一本から喜びがあふれ出すような心地さえも感じられる。胸が高鳴り、柔らかな熱が体を包み込む。この世のすべての幸福を詰め合わせた、満ち足りた心地だった。
かげぬいは太陽へ一直線に飛び上がった。溢れ出す感情のまま声高に鳴き声を上げる。拍子木を打ち鳴らしたような空気を貫く澄んだ声が響き渡った。
少女は静かに目を閉じて、それに耳を澄ませた。
「龍の鳴き声のようね」
少女はうっとりした声でそう漏らす。
「明日は、かげぬいが空を飛ぶ姿を書こうかな。ねえ、かげぬい。明日もここで待っていてくれる?」
その日の夜、町は戦火に飲まれた。
雨に打たれ、風に吹かれ、それでもかげぬいはそこを動かなかった。かげぬいは少女を待っていた。
────いつまでも変わらない、何も。人はなんと愚かな。
町が焦げる匂い。赤々と燃える町を木の枝から見下ろし、以津真天はひとつ鳴いた。嘆きに似た悲しい声色でひとつ。やがて彼は町に降り、人々の亡骸に寄り添ってまたひとつ鳴く。それを聞いた人々は、その鳴き声に「いつまでも、いつまでも」という人の言葉を聞いたそうな。
「────うわあ、綺麗な鳥!」
山の中腹、一際大きなくぬぎの木の下で少女は声を弾ませた。黒髪をきつくおさげに結って、薄汚れたセーラー服にもんぺを身に着けた十五、六くらいのうら若い乙女だ。
幹に近い太い枝にとまっていたその鳥は、少女の声に閉じていた目を少しだけ開ける。熱いまなざしが向けられているのに気が付き、しまっていた翼を広げはためかせた。黒い羽は光が当たると七色に輝いた。垂り尾が風によって羽衣のように柔らかく揺れる。
少女はハッと息を飲み、そして慌てて両手を振った。
「ああっ、待って、待って頂戴! そこにいて、お願い!」
煩わし気に少女を一瞥したその鳥は、翼をしまって身じろぎをすると、身を縮めてまた目を閉じる。少女が輝く目を己に向けてくるのが分かった。
「ありがとう、鳥さん! うんと素敵に描くから」
少女は嬉しそうな声で礼を言うと、手に持っていた風呂敷を広げて中からスケッチブックと鉛筆を取り出す。そしてその場に座り込んで、黙々と手を動かし始めた。
「貴方みたいな鳥、初めて見た。七色に光る羽なんて聞いたことがないもの。なんていう種類なのかしらね?」
少女はたまに顔をあげて微笑みかけては、またスケッチブックに視線を落とす。何度もそれを繰り返していた。
その鳥は、鳥でいて鳥でない。正しくは怪鳥という。何百年と生き、人に恐れられ、昼に眠り夜を生きるいきもの、名を以津真天といった。一部を除き、妖は人の目に触れることはない。この少女はその一部に入るようだった。現に、少女の傍に近寄ってきた狐には三本の尾があった。
「あれ、あなたは妖なのね。私に触れせてくれるの?」
スケッチブックを傍らに置き、妖狐を抱き上げた少女は嬉しそうに頬を緩める。少女は妖を恐れなかった。
妖狐は少女の左手に鼻を寄せた。塗り薬のきつい匂いに気が付いたらしい。
「ごめんなさいね、臭う? 私、工場で怪我をしてしまったの。機械に指が少しだけ巻き込まれてしまって。それで、先生が憲兵さんに頼んでくださって、怪我が癒えるまでは親戚のいるこの街で養生してもいいんですって」
狐はひとつ鳴くと少女の膝から飛び降りる。一度振り返ってから、木々の陰に消えていった。少女は寂しそうにその背中を見送り、その瞳を以津真天に向けた。
「あなたも行ってしまう?」
以津真天は目を反らして翼に首を埋める。少女は嬉しそうに顔を綻ばせると、スケッチブックを再び開いた。
少女は日が傾くころに、名残惜し気に帰っていった。
「明日もここにいる?」
そう問いかけたが、答えはない。以津真天は寝床を定めない妖だ。夜の帳が降りる頃には、その大きな翼を羽ばたかせ闇に飛び立つ。夜の間に何千と言う距離を飛び回る。
月がのぼり、以津真天は翼から顔を出した。そして二三度、つばさを大きく羽ばたかせ夜の空に飛び立った。
「あっ、いた!」
少女は声を弾ませた。
以津真天はほんの気まぐれで、また今日も同じ木に休んでいた。少女の期待に応えたかったわけではないし、興味があったわけでもない。本当になんとなく同じ木にいたのだ。
少女は昨日と同じように根元に腰を下ろすと、スケッチブックを取り出してさらさらと滑らせる。小一時間ほど少女は黙ったまま鉛筆を走らせていた。あまりにも静かで、以津真天は時々うっすらと目を開けて下を見下ろしたが、少女は変わらずそこにいて熱心に何かを描いている。
さらに一時間ほど経って、日が天頂に届いた頃に、うんと大きく伸びをする。以津真天の傍らでひそひそと様子を窺っていた小鬼がその頭にがひょんと飛び乗る。少女は驚いたように「ひゃあっ」と声をあげ目を瞬かせた。
おさげにぶら下がって遊ぶ小鬼に、少女はくすくすと笑い声をあげる。それをみた他の小鬼たちも、我先にとばかりに少女の肩や頭に飛び乗った。
様子を窺っていたすねこすりや豆狸、おとら狐が、少女のまわりに集まり始める。少女は怖がるそぶりもなく、優しい顔で手を差しだした。
「ここは妖が多いのね」
『お嬢さんはおもてら町のことをご存じないか』
「えっ、あなた話せるの?」
『おかしなことを申される。人間が喋るのだから、妖だって喋りましょうぞ』
少し気取った顔をした猫又が、ひげをぴんと立ててそう言った。
『おもてら町はユマツヅミさまがおわします結守の社の御膝元、人と妖がともに暮らす町』
「ユマツヅミさま……確かこの森の麓に神社があるとか」
『私たちをお守りくださる。この町も幾度も戦火を受けたが、我々の森は守られた』
少女は言葉を詰まらせた。確かに少女のいた都心の方には、もう緑と言えば畑の南瓜の蔦くらいしか見当たらない。見渡す限りの焼け野原、道に生える雑草でさえも生気のない枯れ果てた色だった。
この森はまだ生きている。肉付きの良い葉が青々と茂り、生き物が暮らしている。
『お前もここに居ればよろしかろう』
『そうだ。お前ならいても良い。人の子と話すのは楽しい』
「でも私、怪我が癒えたら帰らなくちゃいけないの」
少女は家族のことを思った。
毎晩鳴り響く警報に、眠れない夜を過ごしているのではないか、飢えをしのぐことはできているのか。一人だけ安全な所に来てしまった罪悪感が胸の中を占める。
少女は気を取り直すように己の頬を掌で挟むと、ふんと息を吐いて顔をあげた。
「ねえ、あそこにとまっている鳥も妖なの? 何ていう妖?」
少女は以津真天を指さした。
『怪鳥の以津真天。人間を哀れむおかしな妖だ』
「やっぱりあなた妖だったんだ」
少女はそう声をかけた。以津真天は羽一枚もピクリとも動かさない。
少女は肩を竦めると、「なにがおかしいの?」と声を潜めて尋ねる。妖たちは悪びれる様子もなく口々に好きなことを言った。
『人間の死体に寄り添って、“死体をいつまで放っておくんだ“と鳴くんだよ』
『“いつまで、いつまで”って』
『人間を哀れんだって仕方がないのに』
『人間は愚かだから』
少しだけ居心地が悪くなって、少女は口を噤んだ。
『争って、負けて、同じ道を歩く』
『そしてまた争う』
『争う、負ける、争う、負ける』
「違う、日本は負けない」
言い聞かせるように強く言った。妖たちはくすくすと笑う。どうかな、それはどうかな、と意地悪く囁く。少女は顔を顰める。その時、頭上の木がばさばさと大きく揺れた。皆が口を閉じ顔をあげる。
一番太い枝にとまっていた以津真天が、そのぎょろりとした目をしっかりと開いて少女と妖たちを見下ろしている。
少女はまるで吸い込まれるかのように、その瞳をじっと見つめた。夜空を移すような深い藍色の瞳がとても美しかった。
気が付けば、妖たちはぞろぞろと森の奥へ帰っていった。
「助けてくれたの?」
少女がそう問いかける。以津真天は返事をすることなくその大きな目でじっと少女を見つめる。少女は肩を竦めた。
「貴方の目、初めてちゃんと見た。翼と同じでとても綺麗ね」
以津真天は直ぐにまたいつものように翼に首を埋めた。
少女は小さく息を吐いて、遣る瀬無い思いを抱えたまま木にもたれ掛かる。言葉にしようのない感情が胸の中を渦巻いていた。
父さんや兄さんがお国のために出兵したことも、兵隊さんたちのために食糧を我慢してひもじい思いをするのも、竹槍の訓練をすることも、必死になって工場で働いたのも────全部全部、妖たちからすれば、「愚かなこと」とたった一言で片付いてしまうことなのだ。私たちがどれだけ必死に頑張っても、我慢しても。
悲しいのか、腹が立つのか、よくわからなかった。ただ無性に涙が出そうになった。
以津真天はそんな少女をじっと見つめていた。
その夜、以津真天は木を飛び立った。夜空を横切り、赤々と燃えるひとつの町の上を飛んだ。
また一つの町が燃えた。たくさんの人間が死んでいる。誰にも弔ってもらえない骸があちこちに転がっている。
────なんて詮無い。
以津真天は骸の傍に降り立った。
己の中で一番古い記憶には、戦火に巻き込まれて息絶えた誰からも見向きもされない骸を、ひどく憐れむ自分がいた。何て可哀想な、なんて哀れな人間なんだろう。そう思っていた。
なぜならば自分もまた、そうして死んで、怨霊が鳥と化した妖だったからだ。そうして気が付けば、骸の傍に寄り添って、いつまで放っておく気なのだとそう鳴いて知らせていた。
けれど何度も何度も戦は繰り返され、同じ道を辿り、絶望に染まりながら息絶える人間たちを見ていると、悲しみはやがて虚しさに変わった。次第に増えてゆく骸の数と比例するように、虚無がどんどん広がってゆくのだ。
────きっとあの少女も、あの少女の家族も、あの町に住む人間も、きっともうじき死んでゆく。私はその骸の上を飛び過ぎて、また新たな骸を目にするのだ。
情を抱くことに疲れてしまった。もう何も考えずに、ただ深く眠りたかった。
けれど以津真天という化け物は、骸に寄り添う妖だった。どこか悲し気な鳴き声は今日も知らない街に響く。
「あなた、ここが寝どこなんでしょう? だって同じ鳥が寝どこでもない木に三日三晩もいたりしないもの。ふふ、良かった! これで心置きなく続きを描ける」
以津真天はまた同じ木にとまって浅い眠りを繰り返していた。明け方近くまで夜空を飛んで気が付けばこの木にまた戻っていた。特別居心地が良いという訳でもない、なんなら昼間はこうしてあの少女がやってきて騒がしいくらいなのに。
少女の言葉に返事はしない。最初から返す気がなかった。
「ねえ、あなた。野いちごは食べる? この近くで採ったの。昨日、助けてくれたお礼」
うっすらと目を開けると、少し汚れた手ぬぐいに、野いちごが数粒転がっている。以津真天が動かないのを見かねて、少女は肩を竦めそれを根元に置いた。
スケッチブックを広げながら、少女は唇を尖らせる。
「貴方って、親切なのか意地悪なのか、よく分からないひとね。ああ、ひとではないか」
少女の声色は優しかった。季節が夏に移り変わるころには、それが心地よくなっていた。
少女は毎日現れた。現れてはスケッチブックを開き、少し筆を進めはては以津真天に語りかける。以津真天は相変わらず、少女に声をかけることはなかった。けれども気が付けば少女に近い枝にとまって、少女の話を聞いていた。
関わる気なんてなかった。どうでもよいはずだった。けれど明け方に帰る場所は、自然とこの木になっていた。
少女が返った黄昏時。以津真天が休む木の下に、気が付けば人影があった。
「────以津真天の旦那。妙なものに付きまとわれているようですな」
ぼろぼろの袈裟を身に着け僧侶のような姿をした妖がいる。深く笠をかぶり直し静かにそう尋ねる。以津真天は翼に埋めていた顔をあげて、少し目を見開く。
「……野寺坊か。久しい顔だな」
野寺坊と呼ばれたその妖は黙ったまま俯くようにひとつ頷く。
「物好きな娘だよ」
翼を広げ枝から飛び降りた。宙で旋回し野寺坊の隣に着地するころには、着流しを身に着けた壮年の男の姿に化けていた。
「なぜここが?」
「以津真天が同じ木にとまるのは、他の連中からすると物珍しいようで」
野寺坊は淡々とそう言う。妖の便りは風より早い。
「どういった心変わりであられるか」
深くかぶった笠に隠れた興味深げな瞳が、以津真天をじっと見上げる。その目から逃れるように顔を背ければ、珍しく野寺坊が小さな笑い声をあげた。それが気に入らなくて一層口を固く閉ざす。
少女のことを未だにどうでもいいと思っていると言えば嘘になる。以津真天の中では少なからず何かしら思うところがあった。けれど今までに経験したことのないその感情をどう言い表せばよいのかが分からなかった。
昼間の少女は空虚な夜とは正反対な存在だった。少女の声を聞けば夜の虚しさは増して、広がる虚しさは少女によってかき消された。
こんな時世では珍しいほどに少女の心は美しかった。哀れな夜に光を射す月のように澄んでいた。息苦しい世の中で、少女の傍は心地よかった。
「同じ哀れな生き物でも……あれはどこか違う」
「果たしてそれはどうであろうかな」
野寺坊の含んだ物言いに以津真天は眉間に皺を寄せた。口を開いた時には、野寺坊の姿はなかった。
「ねえ、貴方。名前はないの? こんなにも素敵な羽を持っているんだから、誰かが貴方にうんと素敵な名前を授けたりしなかったのかしら」
幾日が過ぎただろうか。少女のスケッチブックには少しずつ鮮やかな色が乗せられていた。
以津真天はいつも通り、返事をすることなく翼に顔を埋めた。少女はおかしそうにころころと笑う。
「もしも持っていないのならば、私が授けてもいい? こんなにも仲良くなったんだもの。ずっと“貴方”なんて寂しい」
勝手にすればよい、とでも言いたげに少女を一瞥し、その大きな羽をはためかせ、鳥は空高く舞い上がった。空の高い所も、木のわずかな隙間でさえも彼は自在に飛び回る。少女は惚れ惚れとそれを見つめていた。
「木の陰を縫うように、自由に高く飛び回る。貴方の名前は……そう、“かげぬい”」
流れ星に当たったような衝撃が走った。まるで翼をもう一本授けられたかのように、風が体を押し上げるかのように体が軽い。
羽の一本一本から喜びがあふれ出すような心地さえも感じられる。胸が高鳴り、柔らかな熱が体を包み込む。この世のすべての幸福を詰め合わせた、満ち足りた心地だった。
かげぬいは太陽へ一直線に飛び上がった。溢れ出す感情のまま声高に鳴き声を上げる。拍子木を打ち鳴らしたような空気を貫く澄んだ声が響き渡った。
少女は静かに目を閉じて、それに耳を澄ませた。
「龍の鳴き声のようね」
少女はうっとりした声でそう漏らす。
「明日は、かげぬいが空を飛ぶ姿を書こうかな。ねえ、かげぬい。明日もここで待っていてくれる?」
その日の夜、町は戦火に飲まれた。
雨に打たれ、風に吹かれ、それでもかげぬいはそこを動かなかった。かげぬいは少女を待っていた。
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