上 下
9 / 56
第1章 春

第8話 月の灯り

しおりを挟む
 それから数日過ぎた。その夜は三日月が暗闇を少しだけ照らしていた。廊下に座る紅之介はふと部屋の中で人が動く気配を感じた。あわてて姿勢を正していると、部屋の襖が少し開いた。だが人が出てくることはなかった。襖はそのまま開いたままだった。

(この夜に開けっ放しにしているのか・・・夜風は姫様の体に障ろう。)

紅之介がそばに寄ると、そこには葵姫が座って外を見ていた。

(何をしておられるのだ?)

葵姫は遠くの方をじっと見ていた。それは御屋形様のいる麻山城の方角だった。葵姫は何やら真剣に祈っていた。そしてふと目を閉じると、その目からは一筋の涙がこぼれ落ちていた。月のかすかな光に映し出された清らかなその姿に、紅之介は

(美しい・・・)

と心の底から感じた。紅之介は心奪われてそのまま眺めていた。

「誰じゃ?」

葵姫は外の廊下に誰かいるのに気付いた。

「あっ。申し訳ありませぬ。紅之介でございまする。」

我に返った紅之介は慌てて頭を下げた。葵姫は紅之介の姿を認めて微笑んだ。

(やはり紅之介がそばにいてくれたのですね。よかった。)

紅之介も葵姫の笑顔を見て、彼女の怒りが解けているのを感じてほっとした。葵姫は紅之介に語り始めた。

「紅之介。私は病から目覚めて何もかもが新鮮に見える。特に今宵の三日月じゃ。美しく輝いてはいるが、何か物悲し気に見える。そうは思わぬか。」

その葵姫の声はおだやかで優しかった。

「確かに。改めて見ればそう見えます。月の満ち欠けが心に影響すると申します。」
「気分が清々しくなり、それが私にもわかるようになったのですね。病の前の私は何も見えていなかった。紅之介に言われた通りじゃ。」

葵姫はしみじみと言った。

「いえ、私の方こそ。先日は申し訳ございません。身分もわきまえず無礼なことを申しまして。」

紅之介は頭を下げて謝った。

「いや、いいのじゃ。そなたが言ってくれて私は自分を取り戻しました。私はおかしくなっていたのじゃ。謝ります。」

それは別人ではないかと思われるほど素直な姿だった。

「恐れ入ります。」

紅之介もまた頭を下げた。

「そなたは私を心配してこうして廊下で見守ってくれたのですね。皆が私のことをそう思ってくれるのに、私は気づけなかった。ただ私は淋しかったのじゃ。見知らぬこの里に来て・・・。ここにいると様々な噂話も聞こえてくる。そうするともう私は帰れない。ずっとここで過ごさねばならないと思えてくるわけじゃ。」

葵姫は悲しげだった。紅之介は葵姫にかける言葉が見つからなかった。

「だがいつまでも私は悲しみに浸っているわけにもいかぬ。病になって私は生まれ変わった気がします。あの向こうで父上は戦いをなさっておる。皆のために・・・。私はその父上の思いにこたえるためここで生きていきます。」

紅之介は葵姫の言葉をじっと聞いていた。

(姫様は姫様なりに悩んでおられたのだ。私がいらぬことを言って余計に苦しめたかもしれない。だが姫様はようやく前を向いて生きていく気になられた。私は姫様のために何かして差し上げたいが・・・)

葵姫はさらに言葉を続けた。

「ようやく病もよくなりました。これも紅之介のおかげです。」

「いえ、私など何も・・・」

「私はわかっていたのですよ。ぼんやりした意識の中でも。紅之介が口移しで薬を飲ましてくれたことを。」

それを聞いて紅之介ははっと慌てた。とにかく床に頭がつくほど頭を下げた。

「申し訳ありませぬ。とんだことをしてしまいました。お許しください。」

その恐縮した姿に葵姫は笑っていた。

「紅之介。私は怒っているのではありません。そこまでしてくれてうれしいのじゃ。私のために。」

その言葉を聞いて紅之介も何かうれしさがこみあげてきていた。

「私はここから父上のご武運をお祈りしていたのです。もしできるのなら私も父上のもとに行き、お助けしたい。しかし今の私にはこれしかできないのです。歯がゆい限りです。」

葵姫は寂しそうに言った。
しおりを挟む

処理中です...