上 下
8 / 56
第1章 春

第7話 死の淵

しおりを挟む
 葵姫は病で高熱が出てあとは夢うつつの中で過ごしていた。麻山城での楽しかった日々、優しい父や母の顔などが浮かんでいた。だがその幸せな気持ちは一瞬に消え去った。万代の旗印をつけた兵たちが麻山城に殺到してきたのだ。すると笑っていた父や母の顔が苦痛に歪んでいた。そして自分はポンと飛ばされて山の中に里に引き離された。

「父上! 母上!・・・」

声にもならぬが必死に叫んでいた。だが遠くに見える麻山城は炎を上げており、父や母の倒れている状況が目に入った。

「ああ! こんなことに・・・」

葵姫は絶望した。これでは自分だけ生きていても仕方がないと・・・。彼女はもうどうにでもなれという投げやりな気分になった。生きていく気力はなくなり、生への執念が薄れていった。

「つらい・・・苦しい・・・もう死んでもいい・・・」

そうなると目の前に川が見えてきた。流れが激しく大きな川だった。これを渡るとあの世に行けると・・・葵姫はそう思った。葵姫は足を一歩、川の中に入れた。
 だがそれを阻むものがあった。体を優しく抱きしめ、川から引き戻した。

「何をする!」

葵姫が振り返ると、それは紅之介だった。葵姫は川を渡ろうとするが紅之介が抱きしめてそうさせなかった。

「姫様! 生きていて下され!」

紅之介の必死な言葉が葵姫の心を動かした。彼女はそっと紅之介の顔を見つめた。すると紅之介の顔が近づき、口づけをしてきた。葵姫はそれを拒絶することもなく受け入れた。彼女にはその口を通して生命力、あるいは生きる気力かもしれないが、そういうものが注入されていくような気がした。

「紅之介・・・」

葵姫はつぶやいた。すると夢うつつの世界から現実世界に引き戻された。かすかに目を開くと、千代が心配そうにのぞき込んでいた。

「姫様! しっかり! 千代でございます。わかりますか!」

千代は葵姫が目を開けたのに気付いたようだった。愛姫はその言葉にかすかにうなずいた。

「よかった。目を覚まされて。千代は・・・千代・・・。」

千代の目に涙が光っていた。葵姫はそれにかすかな笑顔で答えた。彼女は目が覚めてみて、何か今までの自分と違うような気がした。今まで自分の身の不満を述べてきたが、そんなことは取るに足らないことだった。それより自分の周囲にいる者たちがどれほどまでに自分に心を砕いてくれているかを感じることができた。
 それに紅之介には・・・。葵姫は紅之介が口移しで薬を飲ましてくれたことを後から聞いた。多分それがあの夢になって見えたのだろう。紅之介が助けてくれたのだ。
 だが寝込む前に紅之介につらく当たってしまったことが気がかりだった。

(もうここには来ないかもしれない。いや、私の顔など見たくないかもしれない・・・)

確かに目を覚ましたのに紅之介の姿は近くにはなかった。それが葵姫に寂しさを覚えさせた。


 実は葵姫が目を覚ました朝、廊下で夜を明かした紅之介の耳に千代の喜ぶ声が聞こえていたのだ。

「姫様。本当によかった。でも心配いたしました。」
「ああ、悪い夢をずっと見ていた。でも助けてくれた・・・。」

葵姫の声が聞こえた。紅之介はそれを聞いて安堵した。もう姫様は快方に向かわれるだろうと・・・。
しかし病で寝込む前は無礼な口をきいて葵姫を怒らせてしまったことを思い出した。

(姫様は私のことをまだお怒りかもしれぬ・・・。)

それを思うと葵姫に容易く声をかけられなかった。またそんなことになると、折角よくなってきた姫様の体に障るかもしれなかった。紅之介は何も言わずに廊下で控えていた。
しおりを挟む

処理中です...