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第1章 春

第6話 姫の病

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 紅之介が離れに戻ってみると、菊や他の者たちが慌ただしく走り回っていた。紅之介は葵姫に何か異変が起こったのを感じた。

「一体、どうしたのだ? 何かあったのか?」
「大変でございます。姫様が急に倒れられました。」
「なに! ご容態は?」
「高い熱を出されて部屋で寝ておられます。」

菊からそれを聞いた紅之介は、すぐに部屋の前の廊下に駆け付けた。締まっている襖越しに、

「紅之介でございます。ご気分はいかがでしょうか?」

と小さな声で聞いてみた。すると千代が襖を開けて顔を出した。

「姫様はお休みになっておる。急に熱を出されたようじゃ。」

千代はそれだけ言って襖を閉じた。紅之介は、

(私のせいだ。あまりに強く意見してしまったせいだ。そのために姫様の体に障りが生じてしまった・・・)

と思った。こんなことになった責任を十分に感じていた。葵姫のことが大いに心配だが、そばについて看病するわけにもいかなかった。紅之介にできるのはただ廊下に座って姫様の御病気の平癒を神に願うしかなかった。


 それからしばらく葵姫の熱は引かなかった。このことは母屋の百雲斎にも知らされた。百雲歳は驚いて一大事とばかり、里にいる医術に心得のある者を呼んで葵姫を診させた。紅之介は廊下から襖越しに中の様子をうかがったが、葵姫の容態は悪いように思えた。
百雲斎たちが葵姫の部屋から出て来た時に、紅之介は尋ねた。

「姫様の御様子はいかがでしょうか?」
「よくない。熱が引かぬ。意識ももうろうとしておられる。だが治療の目途がつきそうだ。」
「そうですか。それはよろしゅうございます。」

紅之介は少し肩をなでおろした。これで姫様がよくなられると・・・。

「こちらで薬草を調合して届ける。秘伝の妙薬じゃ。だが・・・」

百雲斎は言葉を濁した。紅之介はそこにまた不安を感じた。

「何かあるのでございますか?」
「意識が戻らぬので、薬を飲んでいただくのが難しい。粥はおろか、水さえも飲んでいただけぬ。」

百雲斎の言葉に紅之介は愕然とした。そこまで葵姫の御病気が重かったとは・・・。紅之介はため息をついた。

 やがて離れに薬の入った鉢が運ばれてきた。それを千代や菊が何とか葵姫に飲まそうとしたがうまくいかなかった。それは廊下に控える紅之介にもわかった。事態は切迫しているようだ。このままでは葵姫の命が危ない。こうなってしまったのは自分のせいだと感じている紅之介は、

(とにかく薬を飲んでいただけねば。ならば私が・・・。)

と思い立った。その脳裏には流行り病の折、命を賭けて母が紅之介に行ったことが浮かんでいた。もうそれしかないと・・・。紅之介は立ち上がると、

「失礼いたします。」

といきなり襖を開けて部屋に入った。

「何事です。ご無礼ですぞ。下がりなさい。」

千代が慌てて止めたが、紅之介はかまわず葵姫の枕元に座った。彼女は高熱でうなされ、汗をかき、肩で息をしていた。その美しい顔はやつれて弱々しく見えた。紅之介には命の灯火が消えようかにも見えた。
千代たちは鉢に入った薬を匙で葵姫の口に流し込もうとしていたようだが、葵姫は受け付けなかったようだ。

「失礼いたす。ごめん。」

紅之介はその鉢を手に取ると、その中のどろりとした液体を自らの口に含んだ。

「何をなさる!」

千代が驚いて声を上げた。紅之介はそれにも構わず、その顔を葵姫の顔に近づけた。

「あっ!」

目の前の光景に千代は驚きで一言、声を上げたきり、あとは声を出せなかった。紅之介が葵姫の顔を起こし、その口にあろうことか自らの口を合わせていた。そして口に含んだ薬を葵姫に飲ませていった。それが何度も・・・。

(姫様! 生きていて下され!)

紅之介はそう心で叫びながら葵姫に薬を飲ませ続けていた。
そばにいる千代も菊もその口づけを唖然として見ていた。やがて薬を飲ませ終わり、紅之介は葵姫の頭を枕の上に戻した。

「ご無礼いたしました。」

紅之介はそれだけ言って部屋を出て行った。千代と菊は顔を見合わせたが、とにかく葵姫が薬を飲んだので少し安堵していた。
廊下に座った紅之介は自らの行為に今さらながら驚いていた。姫様のためとはいえ、無我夢中であんなことをしてしまったことに・・・・。だがすべて薬は飲んでいただけた。後は神に祈るのみと紅之介は思った。その唇には葵姫のやわらかい唇の感触が残っていた。
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