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第2章 夏

第10話 残された者

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 それから間もなくして里に疫病が蔓延した。使いの出た地侍が伝染って里に広めたようだ。それにあろうことか紅之介もかかってしまった。何日も高熱が続き、意識が薄れていた。もちろん口から何も受け付けなかった。
 里には秘伝の薬はあった。これでわずかだが助かる可能性があった。佐世は百雲斎に頼み込んで何とかそれを手に入れた。だが意識のない紅之介はそれを口にすることができない。

「紅之介! あなたは生きるのです! 私たちのために・・・」

佐世はそう言って口移しに薬を飲ませた。それで自分にも疫病がうつるのを覚悟で・・・。そのことは意識のない紅之介にも夢うつつに感じていた。
 佐世は薬を飲ませ続けた。その甲斐もあって紅之介は病から回復して、目を開けることができた。だが紅之介の目に入ったのは・・・疫病にかかって死んでいく母の姿だった。貴重な薬は自分で飲むこともなくすべて紅之介に飲ませたのだ。

「母上! どうして・・・」
「これでいいのです・・・」
「頭領様のところで薬をもらってきます。」
「いえ、もう間に合いません。いいですか。紅之介。あなたは自分の人生を生きるのです。」

それが佐世の最期の言葉だった。相次いで両親が亡くなり、紅之介は茫然として何も手につかなかった。そこに百雲斎が訪ねてきた。彼は一人きりになった紅之介を心配していたのだ。

「紅之介。お前の気持ちもわからぬもない。だがいつまでもこうしておれまい。」

百雲斎の言葉に紅之介は顔を上げた。

「頭領様。お教えください。私とこの剣は何だったのでしょうか。そのために父や母は死んでいった・・・」
「それはわからぬ。だがそれは運命さだめなのだ。誰も変えることはできぬ。その運命さだめに従って精一杯生きるしかないのだ。自分の道を信じて。」

百雲斎の言葉を聞いて紅之介は思い立った。父から授けられた神一刀流、母に助けられたこの命、この2つとともに運命さだめを背負って生きて行こうと・・・。


 百雲斎は紅之介を侍の一人として屋敷に住まわせることにした。紅之介が女であることは百雲斎しか知らぬ、秘密のことだった。

        ―――――――――――――――――――

百雲斎は紅之介の生い立ちを話し、最後に念を押すように言った。

「紅之介のことはここだけの秘密にしていただきたい。だがそれで疑念が晴れたでしょう。紅之介を姫様のお付きにしたのがお分かりいただけたかな。」
「よくわかり申した。それなら儂が口を出すこともない。百雲斎殿にお任せしよう。」

甚兵衛はそう言って帰っていった。

◇◇◇

 もう夕刻になっていた。この日は夕日に照らされて西の雲が紅く染まっていた。屋敷の者たちが紅之介たちの馬が帰ってきたのを見て、にわかに騒がしくなった。

「姫様が帰ってこられました。大変なことが起こったようです。」

菊が百雲斎に知らせてきた。

「何が起こった!」

あわてて百雲斎は外に出た。葵姫は気を失って、馬に乗った紅之介に抱きかかえられていた。その紅之介は真っ赤な血で染まっていた。その姿はまさしく斬り合いをしてきたように見えた。百雲斎が驚いて大きな声を上げた。

「いかがした! 姫様は無事か!」
「姫様は気を失っておられるだけです。」

紅之介は葵姫を屋敷の者に渡すと、馬から下りた。駆け寄った百雲斎が訊いた。

「何があったのだ!」
「万代の忍びが里に潜入しておりました。3人ともすべて斬り倒しました。しかし姫はその場を見て、気を失ってお倒れになりました。血生臭い戦いに心が耐えられなかったのでしょう。申し訳ありませぬ。このようなことになり・・・」

紅之介は深く頭を下げた。百雲斎は事の次第を知り、ようやく安堵したようだった。

「まあ。無事でよかった。紅之介がいれば、いかなるものが襲い掛かってきても安心じゃ。だが万代の手がここまで及んでいるとは・・・。うーむ。とにかくしばらくは姫をこの屋敷から連れ出さぬようにしてくれ。」
「はっ。確かに。」

紅之介はうなずいた。
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