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第2章

⑯ 勇者の鎧

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 魔界と人間の世界では時間の進み方に千倍の差がある。

 魔界での一時間は、人間界での3.6秒。

 魔界での一日は、およそ一分半。

 魔界での一週間は、およそ十分。

 魔界での一ヶ月は、およそ四三分。

 ここでなら、仮に私の肉体の再生に数日かかったとしても、人間界でなら数分のできごとでしかない。それまでアジ・ダハーカが沈黙し、いづながドラゴンたちを抑えてくれれば何とかなる。



 秋穂は洞窟に入ると、女神からもらった水晶を使って魔界へ転移した。

「仙崎さん、ここです。ここならすぐに治るはずです」

 私は籠の中にいるので、魔界のどこへきたのかわからない。

 秋穂は籠をひっくり返す。

 私とその肉片は水の中に落とされる。

「もがもが……??」

 肉体が砕けて泳げない私は溺れるかと思った。しかし秋穂も湖に入って私の顔を手にもって、水中から出してくれた。

「ありがとう」

 秋穂の腰までの水位のため、必然的に彼女の下腹部に頭を預ける態勢になった。



 そこは夜の湖だった。

 なんだか神秘的で美しい光景だ。

 なんだろう、ここには来たことがあるような。

「ここは昔、仙崎さんと一緒にきたときに泳いだ湖ですよ」

「え、そうか。夜だからわからなかった」

 そうか、私が勇者だとわかったばかりの頃、遭難事故の責任を負わされることになって苦しんでいた秋穂の精神的な回復を図るために二人で来たことがあった。

「ということは、ここは若返ることができる湖……どうしてここへ?」

「うふふふ、実は違っていたんですよね」

「そうなんだ」

 どんな湖なんだろう。

 だけど、そのことについて秋穂は答えなかった。

「ほら、見てください」

「おおお?」

 なんと肉体が次々と再生していくではないか。

 それはわずか数分のできごとであり、覚悟していた時間を圧倒的に短縮することができた。

「ここは若返るんじゃなくて、肉体を最も力のあふれる状態にしてくれる効果があるみたいなんです。だから死んでさえいなければ、こうやってすぐに身体を元に戻してくれるんです」

「すごい。じゃあ、すぐに戻ろう。これならまた戦える」

 失った右足も元通りになっていた。

 私はすぐさまに立ち上がった。



「仙崎さん、それで勝てると思っているんですか?」

 秋穂の声は叱るようだった。

 はっと見ると、私はすっぽんぽんだった。肉体が砕けたため、服も破れてしまったのだ。

「そ、そうだね。服をどうにかしないと……フリチンで戦う勇者ってのもまずいよね」

 私はしゃがんで自らの裸体を水中に隠した。

「そういうことではありません」



 ど、どうしたんだ。いつになく口調が厳しい。

「先ほどアジ・ダハーカと戦って、次も同じように戦って勝てると思っているんですか?」

「そ……それは……」

 それは核心をつく質問だった。

 攻撃はそれなりに通ったので善戦はできた。

 だが、結論的に勝てるなんて思えない。

 私は言葉が出せなかった。



「残念ながら、私もいづなさんも努力しましたが、すぐにあの敵を何とかできるものをつくることは難しいようです」

「そ……そうか……だけど、あの敵を放っておくわけにはいかない。街の人たちを守らないと」

「その通りです」

「だったら無茶を承知でも、せめて住民の避難がすむまでは足止めをしないといけないんじゃないか?」

「あの敵が人間界にいる限り、どこへ避難してもいずれ人類は滅ぼされてしまうでしょう」

「だったら、やはり私が戦うしかないじゃないか」

「その通りです」

 それまで深刻な顔をしていた秋穂は、一度だけ目をそらし、改めて真剣な目をした。

「仙崎さん、私はあなたに渡さなければならないものがあるんです」

「渡すもの?」



「はい、『勇者の鎧』です」



 ゆ、勇者の鎧?

 以前、ドワーフの族長と戦ったとき、鎧をまとっていないから勇者に見えないと言われた。

 手掛かりさえないので探そうともしていなかったが、何と秋穂がもっていたなんて。

「仙崎さん。

 あなたが鎧をまとうことで、あの敵の破滅的な攻撃にも耐えることができるようになるはずです。

 それさえできれば、勝つことができるでしょう」

「そうなのか……じゃあ、その『勇者の鎧』はどこへ?」

「はい、ここへ」

 秋穂は自らの下腹部へ手をやる。

 どういうことだ? 理解できない。

 すると、何故だかわからないが、なんと秋穂は服を脱ぎ始めた。

「ええ? ちょっと、秋穂さん?」

 私は慌てて目を背ける。

 秋穂は私に歩み寄ってくる。

 その声は、いつものような純粋で明るい女の子ではなく、威厳に満ちた聖女のようだった。



「今から、『勇者の鎧』を生みます」



「鎧を……生む……? 何を言って……?」

「先日、女神様が私の前に現れて、お願いされました」



 それは、秋穂の夫である謙治がN県の病院から、自宅のあるS県の病院へ転院した直後のことである。秋穂はこのとき夫を病院において、長い間留守にしていた自宅マンションを掃除していた。

『水田秋穂さん……』

 振り返ると現れたのは、ミノタウロスと戦ったときの女神がいた。

 身体が透けていてまるで幽霊のようだった。

 憑りつかれたことがあったので、秋穂は見ても何も驚かなかった。

 そして、彼女が勇者である仙崎に魔王を倒させるために、自分を利用しようとしていることも察していた。



『あなたにお願いがあるのです』

 そう言われることが、至極当然のことのように思われた。

 秋穂は、仙崎に課せられた使命に対して協力したいという気持ちをもっていた。

 それは、ミノタウロスのような凶悪な存在が人間界に影響を及ぼしていおり他人事ではないことと感じたこと、また父のような親しみを感じる仙崎への敬意からでもあった。

 だからお願いの内容を聞かずとも、了解して女神に連れられるまま外へ出た。



 案内されたのは、車でないと行けない山中にある魔界へ続く洞窟だった。

 洞窟は日も射さず真っ暗だったが、女神の照らす光によって難なく進むことができた。

『あなたは魔界へ行かれたことがありますね』

「はい、勇者の仙崎さんと一緒に」

『これをどうぞ。魔界へ移動することのできる水晶です』

「あ……これって仙崎さんも持っていた」

『実は、この洞窟も魔界へつながっているのです。もし、魔界へ行ってみたいと思われたなら、これをお使いください』

「え……いや、そんなに魔界へは行きたくないかな……とくに一人でなんて……」

『そうでしょうね。とくに女性であれば』

 確かに秋穂はラーメン屋にも焼肉屋にもカラオケ屋にも一人で行く勇気はない。

 でも、魔界は同じレベルで語るべきなのか疑問だった。

「だったら、なんでこんなものを?」

『あなたが私のお願いをお聞きいただけるのならば、必要になるかと思いまして』

 秋穂は女神が何を言おうとしているのか見当もつかなかった。



『これをご覧ください』

 もう少し奥まったところに祭壇のような抉れた部分があり、そこには奇妙な違和感を醸し出すしめ縄が張られており、その奥には西洋風の古びて朽ちかけた鎧が飾られていた。

「これは?」

『これは、勇者の鎧です』

「勇者の……?」

『アスラン……いいえ、あなたたちの言う仙崎幸弘が本来身につけるべき鎧です。この鎧は勇者に大いなる加護を与えるものなのです』

「これを仙崎さんにお渡しすればいいんですね」

『その通りなのですが……』

 女神はここで言い淀んだ。



『この鎧は、勇者から離れて三十年も過ぎています。鎧は勇者の力を得て、勇者に加護を与えるものです。長い間勇者が身につけなかったことで、その力はほとんど失われてしまっているのです』

「確かに、もうぼろんちょですよね。触ったら壊れちゃいそうです」

『だから、この鎧を生まれ変わらせなければなりません』

「私にその協力をしてほしいということなんですね。いいですよ」

 秋穂は簡単に了承した。

 勇者として必死に戦っている仙崎の力になれるのなら、断る理由なんてなかった。

 だが、女神は悲しそうな顔をした。



『私は、生まれ変わらせると申しました。つまり、この鎧を生んでいただくということです』



「……生む?」

 それは理解に苦しむ表現だった。



『勇者の鎧は女性の胎内に宿り、濃厚な勇者の精を受けることで生まれ変わり、その力を蘇らせることができるのです』



 それも即座には理解できなかった。

 濃厚な力……勇者の精……女性の胎内……

 かみしめながら辻褄を合わせていくと、ようやくその意図がわかってくる。

「って、それって私と仙崎さんが……その……セッ……エ、エッチしないといけないってことですか!!?」

 理解した途端に激しく恥ずかしさがこみ上げてくる。

 自分の理解が不適切であることを祈ったが、女神はさらに申し訳なさそうな顔をした。



『そういうことです。そうすることで鎧は生まれ変わり、子が親を助けるように勇者を守り抜くことでしょう』

 秋穂は唖然とした。

「あの……私、人妻なんですけど……」

『承知しております。無理とわかってお願いしております』

「それなら、仙崎さんと一緒にいる……いづなさんのほうが適役では? 彼女は多分、仙崎さんのことが好きなんだと思います」

 至極まっとうなことを言ったつもりだが、女神はまた悲しそうな顔をした。



『彼女では駄目なのです』



「どうして……?」

『いづなが勇者の従者としての能力をもつことができるのは、あくまでも神の使いとしての巫女だからなのです。巫女としての役目を果たすには未通女でなければなりません。彼女がその役目を負えば、勇者の従者としての能力を失ってしまうのです』

「……そんな……」

 秋穂は戸惑った。

 仙崎の力にはなりたい。

 だけど、そのためには妻として夫を裏切らなければならない。

 それは、あり得ない選択肢だった。



「ここまで来ておいてなんなんですが……断ることはできないんでしょうか?」

『いいえ、あなたにも立場や人生があります。断っていただいて結構です』

 意外にもあっさりと拒否権を与えられてしまうと、それはそれで不愉快だった。

「だったら、なんで私にお願いをされたんですか? 断られることを知った上で……」

 答えようとした女神の目が一瞬泳いだ。

『……私には、この人間界でいづなとあなた以外に勇者とのつながりがある女性を知りません。そして偶然とはいえ、この洞窟はあなたのお宅のかなり近くにありました。だから、あなたに……秋穂さんに声をかけさせていただきました。しかし、無理なのであれば、ほかの女性を探さなければなりません……』



 ほかの女性……



『いずれ、勇者もいづな以外の女性と巡り合うことでしょう。その方にお願いいたします。魔王は近いうちに目覚めるでしょうが、新しい女性に出会うまでの時間はあるでしょう』



 新しい女……



 その時の感情を秋穂は覚えていない。

 ただ、それを聞いて自分の中で肚が据わったことは確かだった。



「わかりました、女神様……そのお役目、私が承ります」



『よろしいのですか?』

「……仙崎さんは女性の扱いがうまくないから、多分……次の女性も断るんじゃないかなって……だったら、私が……」

『私はその判断を歓迎します。しかし、あなたの人生を狂わせるかもしれません。本当によろしいのですか?』

「仙崎さんには返しきれないほどの恩があるんです。承ります!」

『よろしいのですね?』

「はい!」



 返しきれないほどの恩とはいったい何なのだろう?

 死んだ実父に対する悔恨を癒してくれたことだろうか?

 ミノタウロスとの戦いで必死に守ってくれたことだろうか?

 言葉にはしたものの、秋穂自身、それが何なのかわかってはいなかった。



 女神は悲しそうな顔のまま手をかざすと鎧が光り、そのまま光の球になった。

 次に手を秋穂の下腹部へと差し伸べると、光はそのままそこへ吸収されていった。

 秋穂は一瞬身ごもったような幸福感を覚えた。

 結婚してからずっと、赤ちゃんが欲しかったからだ。

『あとは、勇者の精を受ければ鎧が生まれ変わってくることでしょう。そして、あなた自身が戦いを通してレベルアップしているならば、より堅牢な鎧として蘇ることでしょう』

 そのつもりで水晶を渡されたのだ。

「わかりました」

『苦しい人生を負わせることになってしまいました。女神としてお詫び申し上げます』

 詫びられたからといって何か特別な優待があるわけでもなさそうだ。

 だけど、秋穂はなんだか充実していると思った。



「鎧を生むのは、しかるべき時ということでいいですか?」

『それは、どういうことでしょうか?』

「仙崎さんと会うなり……やっちゃうなんて……目的ははっきりしてるとはいっても、私はビッチじゃないですから!!」

 秋穂は複雑な心境をかき消すため、敢えて明るく言ってみせた。

『ご安心ください。不倫ではありません』

 女神の答えは、彼女の一番聞きたくない単語を含んでいた。

『もちろん、浮気でもありません。勇者の鎧のためなのですから』

 女神の言葉を聞いて、秋穂は後悔した。
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