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優香の話
1
しおりを挟むドアを閉めた瞬間、英介の部屋に満ちていたぬくもりも、あの言葉の余韻も、すべてが背後で静かに消えた。
――もう目を背けたくない。
そう決めたはずなのに、胸の奥はまだ、ざわついている。
外に出る頃には、頬の涙もほとんど乾いていた。夜風が冷たくて、火照った顔に心地いい。
一之瀬社長にもう一度気持ちを伝えたい。
そう思ってポケットからスマホを取り出したその瞬間、画面が光った。
着信 "一之瀬社長"
まるで、私の気持ちを知っていたかのようなタイミングに、心臓が跳ねた。
深呼吸し、震える指で着信に応じる。
「……もしもし、小鳥遊です。」
でも――
『……小鳥遊真那さん?』
その声に、思考が止まった。
「……優香さん……ですか?」
一之瀬社長の声じゃない。
彼の婚約者、優香さんの声だった。
少しの沈黙が流れて、私は立ち止まったまま、次の言葉を待った。
『春馬じゃなくて、ごめんなさい。かけたのは、私なの』
優香さんの声は、いつもの落ち着いた響きとは違っていた。冷たく……厳しい声。
『貴方に、話があるの』
階段を降り切ったところで、私はその場に立ち尽くした。
夜の静けさの中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
******
夜のオフィス街は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ヒールの音が街に響く。喫茶店「響」は、そんな静けさの中で、まるで別の時間軸に存在しているように、柔らかな明かりを灯していた。
ドア越しに中をのぞくと、窓際の席に優香さんの姿が見える。
白いカップを両手で包み、静かで、整っていて、綺麗で儚げで。
今にも崩れてしまいそうな、蒼白な顔で私を待つ優香さんを見て、罪悪感が強くなる。
深く息を吐いてから、私はドアを押した。
(カラン)と鈴が鳴る。
店内の照明が、優しく私を包み込んだ。
「……お待たせしてしまって、すみません」
優香さんは顔を上げて、儚げに笑った。
「ううん。来てくれてありがとう」
私は軽く頭を下げ、彼女の向かいに腰を下ろした。テーブルを挟んで向き合うこの距離が、こんなにも遠いものに感じるのは、きっと私のせいだ。
注文を済ませると、間に少しの沈黙が落ちる。
あまりの静けさに、胸の奥を強く打ちつける鼓動の音さえ、店内に響いているように感じた。
その沈黙を破ったのは、優香さんだった。
「八坂さん、素敵な人ね」
一瞬、何の話かわからなかった。
「え……?」
「真っ直ぐで、誠実そうだわ。」
カフェラテに伸ばしかけた手が、宙で止まる。
指先にまで、意識が集まってしまう。
「……はい。誠実な方です……」
優香さんが、何を言いたいか……わかった気がした。
「何も責めるつもりはないのよ。ただ……」
目の奥に、何かが宿っていた。
けれど、それが怒りでもなく、哀しみでもなく、ましてや嫉妬でもないとわかったとき、私は余計に苦しくなった。
その微笑は、もう全部を知っている人の顔だった。
社長の車の中で、あの一瞬だけ心を委ねてしまったこと。
彼が私を引き寄せて、抱きしめたこと。
あれを——優香さんは、見ていた。
それでも、彼女はその話題に一度も触れようとしない。
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