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あとがき
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退院してから、私は再び春馬の秘書として働くことになった。
長い眠りのあとに戻った現実は、想像以上に忙しく、そしてまぶしかった。
海外支社との往復が続き、時差に追われる日々。
それでも、春馬の隣で働けることが、何よりの幸せだった。
まるで、止まっていた時間を取り戻すように、私は仕事に没頭した。
――充実している。
確かにそう思っていた。
けれど、ふとした瞬間、胸の奥に小さな穴が空く。
それが何なのか、自分でもわかっていた。
春馬と過ごす時間は確かに幸せなのに、どこか足りない。
その“足りなさ”の正体を、言葉にできないまま、季節が過ぎていった。
そんなある日のこと。
「真那、今日の午後、取引先との打ち合わせだから。」
春馬が、いつもより少しだけ緊張した声で言った。
「え……?」
私は慌てて手帳を開く。予定の欄は、まっさらだ。
その瞬間、春馬のスマホが鳴った。
彼が画面を見て、小さく息を呑む。
『あの、今日、打ち合わせの予定だったと思うんですが……』
電話の向こうから微かに聞こえた女性の声。
取引先担当者だと気づき、私の顔から血の気が引いた。
「す、すみません! すぐに伺います!」
慌てて支度を整え、春馬と共に車に乗り込む。
「申し訳ありません社長、完全に私のミスです。」
「それより、待たせてるようだ。急ごう。」
穏やかで、やけに落ち着いた声。
いつもなら軽く眉をひそめるはずなのに、今日は何か違う。
車は市街地を抜け、並木道へと入った。
春の光がフロントガラスに反射して、眩しい。
「……ねえ、この道で合ってる?」
「ああ、間違いない」
その言葉の裏に、何かを隠しているような気がした。
やがて車は、レンガ造りの門の前で止まった。
白い外壁に蔦が絡みついた、洋館のような建物。
大きな窓から、金色の光が漏れている。
玄関前の石畳には花びらが散り、真鍮のランプがやさしく灯っていた。
「……ここが、取引先?」
思わず声が上ずる。
春馬は何も答えず、私の手を取って扉の前に立った。
重厚な扉が、静かに開く。
そして、次の瞬間――
「おめでとう!」
「真那さん! 春馬さん!」
あたたかな歓声が、いっせいに広間に響いた。
白を基調にした洋館のホール。
高い天井から吊るされたシャンデリアの光が反射して、
テーブルの上のグラスや花々が、きらめきを返していた。
その両脇には、見慣れた顔、顔、顔。
美和が泣きながら手を振っている。
母がハンカチで目元を押さえていた。
会社の同僚たちが、笑顔で拍手を送ってくれている。
満面の笑みで、手を広げながら近づいてきたのは、道永さんだ。
「どう?私の演技力も中々でしょ?」
「……そんな……」
言葉が出なかった。
隣で春馬が、そっと私の肩に手を置いた。
「ごめん。サプライズにしたかったんだ」
「最近ずっと仕事ばかりで、ちゃんと向き合う時間が取れなかったから……今日は、真那のためだけに時間を使いたかった」
そう言って、ポケットから小さな箱を取り出す。
彼がゆっくりと膝をつき、私を見上げた。
「真那――俺と結婚してください」
箱の中で、シルバーのマリッジリングがやわらかく光った。
涙が頬を伝って落ちる。
視界が滲んでも、春馬の顔だけは、はっきりと見えた。
「……はい」
その一言に、広間が拍手と歓声に包まれた。
美和が涙を溢しながら笑っている。
両親が、静かに頷いている。
そして、視線の先。
少し離れた場所に、優香さんの姿があった。
彼女は静かに微笑み、そっと頭を下げた。
私も涙を拭って、深く頭を下げた。
言葉はなくても、伝わる。
互いの幸せを願う気持ちが、穏やかに交差した。
春馬が立ち上がり、私の左手に指輪をはめる。
その瞬間、広間中から拍手が鳴り響いた。
光の粒が降り注ぎ、誰もが笑っていた。
――あの日、眠り続けていた時間も。
泣いて過ごした夜も。
すべてが、この瞬間へと続いていたのだと思う。
泣いて過ごした夜も。
「もう~!真那?泣くのは早いよ。」
駆け寄ってきて、私を抱きしめた美和の顔は私よりずっと涙でぐちゃぐちゃだ。
ふと、顔を上げて見回せば、参列してくれたみんなの笑顔があって、喜んでくれる両親もいて……隣には、"気持ちが届くわけない"と思っていた社長の春馬。
「……これ以上の幸せな事なんて、ないかも。」
ぽつりとそう呟けば、春馬は眩しいほどの満面の笑みを浮かべていった。
「今日が最良じゃ困るな。」
「え?」
「これから先ずっと、抱えきれないほどの幸せな瞬間を2人で共有できるんだから。」
完
長い眠りのあとに戻った現実は、想像以上に忙しく、そしてまぶしかった。
海外支社との往復が続き、時差に追われる日々。
それでも、春馬の隣で働けることが、何よりの幸せだった。
まるで、止まっていた時間を取り戻すように、私は仕事に没頭した。
――充実している。
確かにそう思っていた。
けれど、ふとした瞬間、胸の奥に小さな穴が空く。
それが何なのか、自分でもわかっていた。
春馬と過ごす時間は確かに幸せなのに、どこか足りない。
その“足りなさ”の正体を、言葉にできないまま、季節が過ぎていった。
そんなある日のこと。
「真那、今日の午後、取引先との打ち合わせだから。」
春馬が、いつもより少しだけ緊張した声で言った。
「え……?」
私は慌てて手帳を開く。予定の欄は、まっさらだ。
その瞬間、春馬のスマホが鳴った。
彼が画面を見て、小さく息を呑む。
『あの、今日、打ち合わせの予定だったと思うんですが……』
電話の向こうから微かに聞こえた女性の声。
取引先担当者だと気づき、私の顔から血の気が引いた。
「す、すみません! すぐに伺います!」
慌てて支度を整え、春馬と共に車に乗り込む。
「申し訳ありません社長、完全に私のミスです。」
「それより、待たせてるようだ。急ごう。」
穏やかで、やけに落ち着いた声。
いつもなら軽く眉をひそめるはずなのに、今日は何か違う。
車は市街地を抜け、並木道へと入った。
春の光がフロントガラスに反射して、眩しい。
「……ねえ、この道で合ってる?」
「ああ、間違いない」
その言葉の裏に、何かを隠しているような気がした。
やがて車は、レンガ造りの門の前で止まった。
白い外壁に蔦が絡みついた、洋館のような建物。
大きな窓から、金色の光が漏れている。
玄関前の石畳には花びらが散り、真鍮のランプがやさしく灯っていた。
「……ここが、取引先?」
思わず声が上ずる。
春馬は何も答えず、私の手を取って扉の前に立った。
重厚な扉が、静かに開く。
そして、次の瞬間――
「おめでとう!」
「真那さん! 春馬さん!」
あたたかな歓声が、いっせいに広間に響いた。
白を基調にした洋館のホール。
高い天井から吊るされたシャンデリアの光が反射して、
テーブルの上のグラスや花々が、きらめきを返していた。
その両脇には、見慣れた顔、顔、顔。
美和が泣きながら手を振っている。
母がハンカチで目元を押さえていた。
会社の同僚たちが、笑顔で拍手を送ってくれている。
満面の笑みで、手を広げながら近づいてきたのは、道永さんだ。
「どう?私の演技力も中々でしょ?」
「……そんな……」
言葉が出なかった。
隣で春馬が、そっと私の肩に手を置いた。
「ごめん。サプライズにしたかったんだ」
「最近ずっと仕事ばかりで、ちゃんと向き合う時間が取れなかったから……今日は、真那のためだけに時間を使いたかった」
そう言って、ポケットから小さな箱を取り出す。
彼がゆっくりと膝をつき、私を見上げた。
「真那――俺と結婚してください」
箱の中で、シルバーのマリッジリングがやわらかく光った。
涙が頬を伝って落ちる。
視界が滲んでも、春馬の顔だけは、はっきりと見えた。
「……はい」
その一言に、広間が拍手と歓声に包まれた。
美和が涙を溢しながら笑っている。
両親が、静かに頷いている。
そして、視線の先。
少し離れた場所に、優香さんの姿があった。
彼女は静かに微笑み、そっと頭を下げた。
私も涙を拭って、深く頭を下げた。
言葉はなくても、伝わる。
互いの幸せを願う気持ちが、穏やかに交差した。
春馬が立ち上がり、私の左手に指輪をはめる。
その瞬間、広間中から拍手が鳴り響いた。
光の粒が降り注ぎ、誰もが笑っていた。
――あの日、眠り続けていた時間も。
泣いて過ごした夜も。
すべてが、この瞬間へと続いていたのだと思う。
泣いて過ごした夜も。
「もう~!真那?泣くのは早いよ。」
駆け寄ってきて、私を抱きしめた美和の顔は私よりずっと涙でぐちゃぐちゃだ。
ふと、顔を上げて見回せば、参列してくれたみんなの笑顔があって、喜んでくれる両親もいて……隣には、"気持ちが届くわけない"と思っていた社長の春馬。
「……これ以上の幸せな事なんて、ないかも。」
ぽつりとそう呟けば、春馬は眩しいほどの満面の笑みを浮かべていった。
「今日が最良じゃ困るな。」
「え?」
「これから先ずっと、抱えきれないほどの幸せな瞬間を2人で共有できるんだから。」
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