恋が下手な私が新社長に恋をした

yuzu

文字の大きさ
47 / 73
社長とふたり

2

しおりを挟む
******
「本日は、大変申し訳ございませんでした」
私は社長と並んで、深く頭を下げた。
訪問先のコーホー商事に到着したのは、約束の時刻を一時間も過ぎた後だった。途中で渋滞に巻き込まれたのが致命的。事前の道路状況確認が甘かった——私の責任は重い。

それなのに。

「いいんですよ」
先方の社長は、穏やかに笑った。

「道永さんから連絡をいただきました。入院したんだって?お二人も、突然のことで大変だったでしょう?」
「……恐縮です。ご配慮いただき、ありがとうございます」
一之瀬社長が静かに頭を下げる。

 落ち着いた低い声音に、相手の表情もさらに和らいだ。
「道永さんにも、どうぞよろしくお伝えくださいね。」
「承知しました」

 無事に挨拶と簡単な要件を済ませ、私たちは車に戻った。緊張が解け、胸いっぱいに安堵が広がる。

 帰路についた頃には、空はすっかり灰色に沈み、小雨がフロントガラスを濡らしていた。ワイパーが規則正しく動く音が、静かな車内に響く。私は助手席で小さく息を吐き、鞄に資料を片付けた。
雨音だけが、一定のリズムで流れている。

「……道永は、俺の姉なんだ」
不意に、社長が口を開いた。

「えっ?」
思わず顔を向けると、社長の視線は前方を向いたまま、穏やかな横顔が見えた。

「昔から頼りになる姉でね。俺がまだ学生の頃も、仕事を始めてからも、何かと世話を焼いてくれた。今回みたいに、急なことにも全力で対応してくれる人だ」
少しだけ、声に笑みが混じる。

私はそっと微笑んだ。
「……なんだか、想像できます。道永さんの姿勢、本当に尊敬しています」
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
空気が少し和んだ、そのときだった。

「ん……?」
車の速度が急に落ちた。
次の瞬間、エンジンが低く唸るような音を立てて、止まった。

「……止まった?」
一之瀬社長はすぐにハザードランプをつけ、車を路肩へ寄せる。

 ワイパーも止まり、車内は一気に静寂に包まれた。

「エンジンが反応しない……」
社長が何度か試しても、車はうんともすんとも言わない。

「私、ロードサービスに連絡を……」
スマホを取り出した私は、画面を見て言葉を失った。

「……圏外、です」
「こっちもだ」

 社長も自分のスマホを掲げたが、表示されるのは無情にも「圏外」の二文字だけ。

外は山道。両側は深い林に覆われ、人気《ひとけ》はまるでない。見えるのは雨に濡れたガードレールと、うっすらと霧のかかった樹々だけだった。
「通信もできないとなると、むやみに動くのは危険だな……」
「……じゃあ、ここで誰か通りかかるのを待つしかないですね」

 社長は黙って頷き、シートに体を預けた。私は少し震える手で、膝の上の鞄を握りしめる。

 雨の音だけが、しとしとと車の天井を打ち続けていた


 車内に残るのは、遠く小さく続く雨音だけ。

 一之瀬社長がもう一度キーを回す。何度試してもエンジンはかからない。低く唸る音だけが虚しく響いて、やがて沈黙に吸い込まれた。

「……やっぱりダメか」
小さく、そう呟いた。

 私は何度もスマートフォンを確認する。それでも表示は「圏外」のまま。社長も同じだった。

「……誰か、通りますよね」
そう言った自分の声が、少し心細く響く。
 社長はそれには答えず、ハザードランプを切って、ゆっくりとシートに背を預けた。

 車内は静かだった。雨の音だけが、しとしとと天井を叩いている。
 窓の外を見ながら、私はそっと息を吐いた。濡れた足元がじんわり冷えてきて、体の芯まで寒さが染みてくる。

「……小鳥遊。寒いか」
低くて、少し不器用な響き。
それでも、その一言には真っすぐな気遣いが滲んでいた。

「大丈夫です」
そう答えたけれど、社長は黙ってジャケットを脱ぐと、私の膝にそっと掛けてくれた。

「……ありがとうございます。でも、社長こそ……」
「俺は大丈夫」
それきり、また黙り込む。

 ジャケットの重みを感じながら、少しだけ目を伏せた。温かい。ほのかにシトラス系の香りが鼻を掠める。

「……すみません。今日、こんなことになって。私の管理不足です」
「違う。責任は俺にある。小鳥遊は悪くない」

 少し、社長の横顔を盗み見た。表情は変わらず、まっすぐ前を向いている。不器用だけれど、優しい人だ。
胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていく。

「……ありがとうございます」
静かなそのやり取りの中で、言葉よりも多くのものが、そっと交わされたような気がした。

 フロントガラスを打つ雨の音は、相変わらず静かに車内に響いていた。

バリバリッ……!
 耳を裂くような轟音が、車内まで震えるように響いた。窓の外、すぐ近くの山肌に稲光が走る。

 車体がわずかに揺れた。
「——きゃっ!」
 思わず叫び声を上げて、私は隣にいた一之瀬社長の腕にしがみついていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

私の大好きな彼氏はみんなに優しい

hayama_25
恋愛
柊先輩は私の自慢の彼氏だ。 柊先輩の好きなところは、誰にでも優しく出来るところ。 そして… 柊先輩の嫌いなところは、誰にでも優しくするところ。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

私の夫は救えないクズ〜別れた先に幸福が待ってました〜

専業プウタ
恋愛
篠山久子はアラサー商社OL。十年付き合った恋人に振られ、コネ入社なのに実家の会社が傾き父親が亡くなり腫れ物扱い。そんな時に出会ったばかりの年下ドクター富永スバルからプロポーズされる。経済的苦労もない溺愛新婚生活を送って一年、何故か久子はスバルに絞殺された。タイムリープした久子はスバルの真実を知る。再びスバルに殺された久子は時を戻り、男に頼らず、今までと全く違う行動に出る。この物語は発想を逆転させた甘ちゃんお嬢様が、悪と闘い愛すべき人生を手に入れる仰天サクセスラブストーリーである。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

睡蓮

樫野 珠代
恋愛
入社して3か月、いきなり異動を命じられたなぎさ。 そこにいたのは、出来れば会いたくなかった、会うなんて二度とないはずだった人。 どうしてこんな形の再会なの?

処理中です...