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社長とふたり
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「本日は、大変申し訳ございませんでした」
私は社長と並んで、深く頭を下げた。
訪問先のコーホー商事に到着したのは、約束の時刻を一時間も過ぎた後だった。途中で渋滞に巻き込まれたのが致命的。事前の道路状況確認が甘かった——私の責任は重い。
それなのに。
「いいんですよ」
先方の社長は、穏やかに笑った。
「道永さんから連絡をいただきました。入院したんだって?お二人も、突然のことで大変だったでしょう?」
「……恐縮です。ご配慮いただき、ありがとうございます」
一之瀬社長が静かに頭を下げる。
落ち着いた低い声音に、相手の表情もさらに和らいだ。
「道永さんにも、どうぞよろしくお伝えくださいね。」
「承知しました」
無事に挨拶と簡単な要件を済ませ、私たちは車に戻った。緊張が解け、胸いっぱいに安堵が広がる。
帰路についた頃には、空はすっかり灰色に沈み、小雨がフロントガラスを濡らしていた。ワイパーが規則正しく動く音が、静かな車内に響く。私は助手席で小さく息を吐き、鞄に資料を片付けた。
雨音だけが、一定のリズムで流れている。
「……道永は、俺の姉なんだ」
不意に、社長が口を開いた。
「えっ?」
思わず顔を向けると、社長の視線は前方を向いたまま、穏やかな横顔が見えた。
「昔から頼りになる姉でね。俺がまだ学生の頃も、仕事を始めてからも、何かと世話を焼いてくれた。今回みたいに、急なことにも全力で対応してくれる人だ」
少しだけ、声に笑みが混じる。
私はそっと微笑んだ。
「……なんだか、想像できます。道永さんの姿勢、本当に尊敬しています」
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
空気が少し和んだ、そのときだった。
「ん……?」
車の速度が急に落ちた。
次の瞬間、エンジンが低く唸るような音を立てて、止まった。
「……止まった?」
一之瀬社長はすぐにハザードランプをつけ、車を路肩へ寄せる。
ワイパーも止まり、車内は一気に静寂に包まれた。
「エンジンが反応しない……」
社長が何度か試しても、車はうんともすんとも言わない。
「私、ロードサービスに連絡を……」
スマホを取り出した私は、画面を見て言葉を失った。
「……圏外、です」
「こっちもだ」
社長も自分のスマホを掲げたが、表示されるのは無情にも「圏外」の二文字だけ。
外は山道。両側は深い林に覆われ、人気《ひとけ》はまるでない。見えるのは雨に濡れたガードレールと、うっすらと霧のかかった樹々だけだった。
「通信もできないとなると、むやみに動くのは危険だな……」
「……じゃあ、ここで誰か通りかかるのを待つしかないですね」
社長は黙って頷き、シートに体を預けた。私は少し震える手で、膝の上の鞄を握りしめる。
雨の音だけが、しとしとと車の天井を打ち続けていた
車内に残るのは、遠く小さく続く雨音だけ。
一之瀬社長がもう一度キーを回す。何度試してもエンジンはかからない。低く唸る音だけが虚しく響いて、やがて沈黙に吸い込まれた。
「……やっぱりダメか」
小さく、そう呟いた。
私は何度もスマートフォンを確認する。それでも表示は「圏外」のまま。社長も同じだった。
「……誰か、通りますよね」
そう言った自分の声が、少し心細く響く。
社長はそれには答えず、ハザードランプを切って、ゆっくりとシートに背を預けた。
車内は静かだった。雨の音だけが、しとしとと天井を叩いている。
窓の外を見ながら、私はそっと息を吐いた。濡れた足元がじんわり冷えてきて、体の芯まで寒さが染みてくる。
「……小鳥遊。寒いか」
低くて、少し不器用な響き。
それでも、その一言には真っすぐな気遣いが滲んでいた。
「大丈夫です」
そう答えたけれど、社長は黙ってジャケットを脱ぐと、私の膝にそっと掛けてくれた。
「……ありがとうございます。でも、社長こそ……」
「俺は大丈夫」
それきり、また黙り込む。
ジャケットの重みを感じながら、少しだけ目を伏せた。温かい。ほのかにシトラス系の香りが鼻を掠める。
「……すみません。今日、こんなことになって。私の管理不足です」
「違う。責任は俺にある。小鳥遊は悪くない」
少し、社長の横顔を盗み見た。表情は変わらず、まっすぐ前を向いている。不器用だけれど、優しい人だ。
胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていく。
「……ありがとうございます」
静かなそのやり取りの中で、言葉よりも多くのものが、そっと交わされたような気がした。
フロントガラスを打つ雨の音は、相変わらず静かに車内に響いていた。
バリバリッ……!
耳を裂くような轟音が、車内まで震えるように響いた。窓の外、すぐ近くの山肌に稲光が走る。
車体がわずかに揺れた。
「——きゃっ!」
思わず叫び声を上げて、私は隣にいた一之瀬社長の腕にしがみついていた。
「本日は、大変申し訳ございませんでした」
私は社長と並んで、深く頭を下げた。
訪問先のコーホー商事に到着したのは、約束の時刻を一時間も過ぎた後だった。途中で渋滞に巻き込まれたのが致命的。事前の道路状況確認が甘かった——私の責任は重い。
それなのに。
「いいんですよ」
先方の社長は、穏やかに笑った。
「道永さんから連絡をいただきました。入院したんだって?お二人も、突然のことで大変だったでしょう?」
「……恐縮です。ご配慮いただき、ありがとうございます」
一之瀬社長が静かに頭を下げる。
落ち着いた低い声音に、相手の表情もさらに和らいだ。
「道永さんにも、どうぞよろしくお伝えくださいね。」
「承知しました」
無事に挨拶と簡単な要件を済ませ、私たちは車に戻った。緊張が解け、胸いっぱいに安堵が広がる。
帰路についた頃には、空はすっかり灰色に沈み、小雨がフロントガラスを濡らしていた。ワイパーが規則正しく動く音が、静かな車内に響く。私は助手席で小さく息を吐き、鞄に資料を片付けた。
雨音だけが、一定のリズムで流れている。
「……道永は、俺の姉なんだ」
不意に、社長が口を開いた。
「えっ?」
思わず顔を向けると、社長の視線は前方を向いたまま、穏やかな横顔が見えた。
「昔から頼りになる姉でね。俺がまだ学生の頃も、仕事を始めてからも、何かと世話を焼いてくれた。今回みたいに、急なことにも全力で対応してくれる人だ」
少しだけ、声に笑みが混じる。
私はそっと微笑んだ。
「……なんだか、想像できます。道永さんの姿勢、本当に尊敬しています」
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
空気が少し和んだ、そのときだった。
「ん……?」
車の速度が急に落ちた。
次の瞬間、エンジンが低く唸るような音を立てて、止まった。
「……止まった?」
一之瀬社長はすぐにハザードランプをつけ、車を路肩へ寄せる。
ワイパーも止まり、車内は一気に静寂に包まれた。
「エンジンが反応しない……」
社長が何度か試しても、車はうんともすんとも言わない。
「私、ロードサービスに連絡を……」
スマホを取り出した私は、画面を見て言葉を失った。
「……圏外、です」
「こっちもだ」
社長も自分のスマホを掲げたが、表示されるのは無情にも「圏外」の二文字だけ。
外は山道。両側は深い林に覆われ、人気《ひとけ》はまるでない。見えるのは雨に濡れたガードレールと、うっすらと霧のかかった樹々だけだった。
「通信もできないとなると、むやみに動くのは危険だな……」
「……じゃあ、ここで誰か通りかかるのを待つしかないですね」
社長は黙って頷き、シートに体を預けた。私は少し震える手で、膝の上の鞄を握りしめる。
雨の音だけが、しとしとと車の天井を打ち続けていた
車内に残るのは、遠く小さく続く雨音だけ。
一之瀬社長がもう一度キーを回す。何度試してもエンジンはかからない。低く唸る音だけが虚しく響いて、やがて沈黙に吸い込まれた。
「……やっぱりダメか」
小さく、そう呟いた。
私は何度もスマートフォンを確認する。それでも表示は「圏外」のまま。社長も同じだった。
「……誰か、通りますよね」
そう言った自分の声が、少し心細く響く。
社長はそれには答えず、ハザードランプを切って、ゆっくりとシートに背を預けた。
車内は静かだった。雨の音だけが、しとしとと天井を叩いている。
窓の外を見ながら、私はそっと息を吐いた。濡れた足元がじんわり冷えてきて、体の芯まで寒さが染みてくる。
「……小鳥遊。寒いか」
低くて、少し不器用な響き。
それでも、その一言には真っすぐな気遣いが滲んでいた。
「大丈夫です」
そう答えたけれど、社長は黙ってジャケットを脱ぐと、私の膝にそっと掛けてくれた。
「……ありがとうございます。でも、社長こそ……」
「俺は大丈夫」
それきり、また黙り込む。
ジャケットの重みを感じながら、少しだけ目を伏せた。温かい。ほのかにシトラス系の香りが鼻を掠める。
「……すみません。今日、こんなことになって。私の管理不足です」
「違う。責任は俺にある。小鳥遊は悪くない」
少し、社長の横顔を盗み見た。表情は変わらず、まっすぐ前を向いている。不器用だけれど、優しい人だ。
胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていく。
「……ありがとうございます」
静かなそのやり取りの中で、言葉よりも多くのものが、そっと交わされたような気がした。
フロントガラスを打つ雨の音は、相変わらず静かに車内に響いていた。
バリバリッ……!
耳を裂くような轟音が、車内まで震えるように響いた。窓の外、すぐ近くの山肌に稲光が走る。
車体がわずかに揺れた。
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思わず叫び声を上げて、私は隣にいた一之瀬社長の腕にしがみついていた。
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