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森川咲紀子

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第一章

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 十月二日。その朝、貴之はひどく不機嫌だった。原因は、昇降口の掲示板に貼ってあった貼り紙だ。それには、『XX年度後期生徒会役員決定』とあった。それだけであれば別に気にも留めないような内容である。ただ、問題だったのは、その役員の中に自分の名前があったことだ。

『XX年度後期生徒会役員は以下の四人に決定。

会長  2-C 三上政憲
副会長 2-A 佐川直樹
会計  2-A 木下貴之
書記  2-B 吉本美彩 』

(見間違いではない…)
 何度も何度も読み返したが結果は変わらない。かけている黒縁の眼鏡も何度か拭いてみたが、勿論変わらなかった。何度考え直しても二学年に木下は自分しかいない。自分以外の誰かのことを言っているわけではなさそうだった。
 現実に思考が追いついてくると、極めてまずい事態だということに気がついた。
 生徒会役員。そんなもの押し付けられてたまるか。第一、(雑用じみた)仕事が忙しすぎて成績に支障が出たらどうする。何かの間違いだ、と結論づけた貴之はひとまず教室に向かった。
 海堂高校は都内でも有数の進学校である。クラス分けは基本的に成績順、その中でも貴之が所属するA組は特進クラスと言われ、学年の成績上位が集まるエリートクラスだ。定期テストは勿論、毎月の実力テストも入学以来首位をキープしている秀才、それが貴之だった。
 そういう訳で、生徒会役員など引き受ける訳にはいかなかった。
 2-A教室前。貴之は立ち止まる。こういう場合、誰に文句を言えば良いのだろうか。日頃、クラスはおろか学校の自治活動などまるで無関係に生きてきた彼は、こういう時どうすれば良いのか判らなかった。
(…級長に言うとするか)
 級長とは、いわゆるクラス委員である。海堂高校では伝統的に「級長」という習慣があった。
「おはよう」
「おはよー」
 誰とも目を合わせず教室に入る。見知らぬ知人ばかりがいる感覚は貴之にとっていまだに耐え難いものだった。辛うじて挨拶だけは返すものの名前も顔も、何一つ結び付かない。機械のように挨拶を事務的に返すだけだった。もう十月に入っているのに貴之がクラスメイトの名前も顔も覚えていないのは、そもそもそういう努力をしようという発想すらなかったからだ。唯一、提出物をまとめたり何かと関わる級長の顔だけは覚えていた。
 教壇の前で談笑している級長の前で、貴之は無言で立ち止まる。言葉を発しようとしない異様な貴之に気付いて、級長の方が先に声をかけた。
「おはよう、木下」
「…おはよう」
 例によって名前は覚えていない。
「…昇降口の掲示板、あれは何」
 余計なことは言わなかった。彼の言葉は無機質に、冷たく響く。
「ああ、あれね」
 二年A組の級長である福井祐志は事もなげに相槌をうつ。
「あれは何かの間違いか」
「いや、間違いじゃないよ」
 貴之の強い調子の問いに、彼は軽い調子で、しかし喰い気味に返した。
「…俺は自分から立候補した覚えもないし、推薦された記憶も、推薦書にサインした記憶もない。つまり、俺が役員になる必然性はどこにもない」
「それがねぇ。あるんだ、必然性」
 ちなみにこの高校は学業優先の為、生徒会役員の選挙もほぼ信任となる。
 規則上、前期の四月から九月、後期の十月から三月までの二期二回選挙が行われることになっている。但し、候補者が一名の場合は前生徒会役員一名以上の推薦と、六十名以上の信任の署名、そして候補者本人がサインした役員活動承諾書があれば信任が成立し、無投票当選となる。
 福井は得意気に言った。
「君、承諾書にサインしてるんだよ」
「…俺はサインした覚えはない」
 そんなもの見た記憶も聞かれた記憶も一つもない。
「君自身にはなくてもね」
 彼は机から一枚の紙を取り出す。
「これは役員活動承諾書のコピー。サインは君の字だし、印鑑も押してる。そういうわけで、君は今日から晴れて生徒会役員だ。まー頑張って」
 サインは間違いなく貴之本人の字だった。呆然としている貴之の背中を叩くと、福井は教室を出て行こうとした。
「ちょっと待て」
 貴之はあることに気付き福井の腕を掴む。
「どうしてお前が承諾書のコピーを持ってるんだ?まるでこうなることを前もって知ってたみたいだな」
 出来すぎてる。おそらく、福井は今回の事件の当事者の一人だと、貴之は推測した。
「…俺は悪くない。頼まれたんだ」
「誰にだ」
 教室には緊迫した空気が漂った。貴之は掴みかかりこそはしないものの、一触即発の状態だった。福井はやや怯えた表情を浮かべ、口を開こうとした。
「さ…」
「俺だよ」
 声の主は貴之の背後にいた。
「俺が君を推薦したんだよ、木下貴之クン」
「佐川…!」
 佐川直樹。学年首位の成績を誇る貴之の後ろ、常に二位をキープする男だ。前期も生徒会副会長を務め、クラスの中心的存在である。もっとも、貴之としては『自分の後ろにある名前』以上の感情は持ち合わせてなかった。
「あんたが俺を推薦しようと関係ない。俺は承諾書にサインした記憶も印鑑を押した記憶もない。だから『推薦』も成立しない。この選挙はやり直しだ。残念だったな」
 貴之は吐き捨てるように言ったが、直樹は動揺する様子もなく、むしろその端正な顔立ちに笑みさえ浮かべた。
「承諾書にサインした覚えはないかもしれないね。でも、この一週間くらいで何か別のものにサインしたりしなかった?」
 直樹はこの場に不似合いな程にこやかに笑う。
「たとえば……教材費返金の領収書とか」
 貴之は目を見開いた。
(まさか…あの時の領収書のプリント…!)
 そう言われてみれば、領収書が二枚あったことを思い出した。あの内の一枚がダミーだったのだ。署名と印鑑と言われたから無意識にやっただけで、学校で配られたプリントなんかいちいち内容まで読まない。完全に盲点を突かれた。そして、今更それに気付いた所で既に後の祭りだった。
「思い出した?」
 直樹はニヤニヤと笑っている。貴之は騙されたとはいえ自分がサインし印鑑を押している以上、反論できないと判断した。
「…何故俺を役員に推薦した」
「いろいろ理由はあるけどね。君は学年首位の頭脳をもっと学校の為に役立てるべきだよ。君のその明晰な頭脳を成績と受験の為にだけに費やすのはもったいないだろ?」
 この状況で笑っている直樹に、貴之は激しく苛立っていた。だが、彼は自分の感情を排除する方法を知っていた。傍目には不自然なまでに無表情に見えているだろう。
「余計なお世話だ。あんたに何か言われるような筋合いはない。親切か慈善事業のつもりかは知らんが迷惑だ。余計なことをするな」
「まぁまぁ。役員って言っても大した仕事ないから。木下クンなら『学業と余裕で両立できる』と思うよ。…じゃあこれからよろしくね」
 的確に貴之の自尊心を刺激してくる言い方に耐えきれず、手を出そうとするが、ちょうど一限開始のチャイムが鳴った。渋々貴之は自分の席に戻る。直樹はすれ違いざまに、「十二時五十分に生徒会室ね」と言った。その無神経さに、更に貴之は苛立つのだった。
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