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一章 神童
9.心の鎖
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山道を彷徨い15分ほどが経った。少年はマフユを背負いゆっくりと下っていく。昨日降った大雨の影響により泥濘み上手く進むことが出来ない中で、彼女を抱えたまま離そうとしない。
「イチ、降ろして」
「…………。」
暗闇の中をただ真っ直ぐに進む2人、彼女に彼はなにも返さなかった。キキキと鳴く虫の声と風で木々の揺れる音だけが響く中で、彼女は彼の背の上で警戒心を解かなかった。目の前で偽善を見せつけ続けるこの青年を少しでも信用してはいけないと、常に頭の中で繰り返す。
ーー騙されちゃダメ。もう信じて裏切られるのは嫌だから。
草を踏みしめる音が、暗闇の森に響く。誰一人として他人のいない空間、シンと静まり返った空間でマフユはイチの背中に身を預けながら自分の心を惑わせる何かと闘っていた。
「……はぁ……はぁ……っ」
「もう限界でしょ。降ろして」
「…………はぁ……限界じゃ、ないね」
それから10分ほどが経ったが景色は変わらない。当然、元々から無いイチの体力など底をついているだろう。尋常でないほどの汗で薄いシャツをぴったりと体に張り付かせ、腕を痙攣させながら歩き続ける彼に、
ーーもう降りなきゃ。降りて、イチから離れる。もう何をしてくれても信じられないって伝えて彼を諦めさせるんだ。
それは、彼女にまだ残った彼に対する思いやりだったのかもしれない。未だ震えながらもがっしりと彼女を掴んで離さない手の暖かさに、思わず発しただけかもしれない。このまま無理をする彼に気を許してしまう危険もあったからこそーー
「な、なぁ、マフユ」
「……なに」
とうとう限界が来たのだと、マフユは体を少しだけ離す。やっと自分の思い通りに動くことができる、やっと彼から離れることができると安心した。これ以上彼と一緒にいればまた弱い自分が現れてしまうと、だから早く降りてどこか彼に見つからないところまで逃げ出した後そう思っていた。
ふっと息をつきながら考える。『もー限界だ、降りろ!』だろうか『お前やっぱ重い、無理だわ』だろうか。彼の言いそうな言葉をいくつか想定し、その返しを何通りか考えていたーー
「…………寒く、ない?」
「え?」
「だから、寒く、ないかって」
「…………?」
ーーそんな彼女をぐいっと持ち上げ、担ぎ直した彼からの言葉は、予想外の一言だった。
頭を彼の頭の上に乗せたまま、彼女はまばたきを繰り返す。
イチという少年は、自己中心的だ。
どんなことにも、どんな遊びにも「ぼくがぼくが」と前に出て、お菓子とお金が絡めば一目散に飛びつき周りを見ない彼。重ねて自分の利益しか見ていない節もあり、お菓子のお小遣いを彼女より多く取るために平気で嘘をつき誤魔化そうとするような人間、
だから、
ーー……演技だ。
首を振る。これも演技だと、真っ暗闇の中、いつゴールにたどり着くかも分からない地獄の中で性格上、彼は自分のことなど放っておいて一目散に逃げ帰るはずだ、彼女に失礼過ぎる言葉を吐き捨てて放っておいてくれるのが本来の彼である、と。
「喉、お腹は、空いてない?」
「……っ」
「キャンディなら、ある。僕、ポケット入ってるから、いる……?」
彼女がなにも言わなければ次の言葉が、優しかった彼の面影を乗せた言葉が返ってくる。あり得ない、彼女は必死に否定する。違う、違うと、騙されてはいけないと、彼らにたった数時間前に裏切られたのにもう揺らいでしまうのかと必死に、ただ必死に彼を否定する。違う違うと否定しないければ弱い心がそれを受け入れてしまいそうになるのを抗うかのように否定し続ける。
何度も、何度でも反復した。
ーー彼は自己中心的な人。辛いのも、喉が乾くのもイチ、自分より優先するなんてありえない。お金しか目がないの、私のことをお金としか見てないの、だからこんな私のことだけを考えて優しい言葉をかけてくれるなんてイチらしくない……
……イチらしく、ない?
「……疲れて、ない?」
「っ」
ーー彼は自己中、金のことしか考えないの。だから今も私を騙そうとしてる。騙されるな騙されるな騙されるな。彼はあくどい事も平気でやる。人のことを金としか見ないことだって知ってる。お金にがめついのだから、私のこともただの金銭のためにーー
「……マフユーー」
ーーお金のために?
「足痛く、ない?」
「………」
ーー……ばか、違う。そんなの、イチじゃない。
彼女はようやく自身の否定を、否定した。苦しい状況に追い込み、否定し続けた彼女に、彼は息も絶え絶えながら返ってもこないにも関わらず、言葉を重ね続けた。彼が彼女のことを悪く思っているはずもない。金目当てで近寄ってきたはずもない。それは今の彼と、たった数週間ではあるが毎日顔を合わせ遊んでいたからこそ分かる。その純粋な想いが、気持ちが彼女を包み込む。
ーー否定しないと、自分が否定されるかもしれないって。だから今まで必死にやってたのに……。
それでも否定し続けたのは、この信頼が折れてしまった時耐えられなくなってしまうから。一度受けたショックをもう一度味わうことが怖かったから。もう裏切られたく無いから、悲しくなりたくないから、友達がいないなんて思いたくなかったから、
彼女はただ、自分のために彼を否定し続けたのだ。
しかし、
『働くざること食べるべからずだぞ!』
金銭目的じゃない、最初から分かっていた。
『演技じゃないです、見栄を張りました』
演技じゃない、最初から分かっていた。
『あ、木の上に猫がいる!』
『イチ、猫は放っておいてもちゃんと降りられるよ?』
『そんなのなんでわかるんだよ。困ってるじゃん、助けないと!!』
金にがめついのは確かだが、人や動物を無償で助けようとするのはイチらしい、最初から分かっていたことだ。
もうとっくに、最初から、分かっていたはずなのに。
「もう少しで、着くから。そしたら、すぐに、痛くなく、なるから」
「……ん」
簡単な話だった。大人の闇とか、金銭とか、裏があるとかありえない。そういった面倒な関わり方など彼は考えてもいなくて、彼はただ、
ーー……絶対否定されないって分かるから、怖くないかな。
誰からも才能の価値でしか見られていなかった真冬ではなく、
ただ1人の、彼にとって友達のマフユとしてずっと見ていてくれたと、ただ自分が気づけばよかっただけなのだ。
「マフユ……起きてる? 大丈夫?」
「ん、大丈夫」
「よかった。眠たく、ない? 寝ててもいい、よ」
「……眠たく、ないから」
「寒くない、大丈夫?」
「だい、じょうぶ、だってば」
「……あし、痛く、ない?」
「それは、イチに、私が言うことだよ?」
「……そうだな。よかっ……た」
「ん、よかった。
イチがイチで、本当によかった……!」
彼の言葉が、素直に彼女の心に響く。一言一言が、彼女の頬を濡らす。途端、彼女は嗚咽を漏らして泣き始めた。やっと安心できた、やっと自分の安心できる世界が存在したのだとわかった瞬間、
足が折れているにも関わらず自分のために夜の森にまで入ってきて、崖から落ちそうになるまで助けてくれようとした友達が、ちゃんと存在したことがわかった瞬間、
その嬉しいという想いが、涙となって溢れ落ちた。
「ど、どうしたの。なんで、泣いてるの? 足、やっぱり、痛いの?」
「ううん、違うの。……ねぇ、イチ」
「なに?」
「どうして、ここまで来てくれたの?」
ずっと彼女の心配ばかりをする彼を安心させたくて、彼女は涙を拭い笑う。そして最後の問いかけをした。
どうしても、直接聞きたいと思ったのだ。今なら素直に受け取れる、今ならイチをイチとして見て答えを聞けると彼女は、
「最初から言ってるだろ。マフユが、いなくなったから、心配して探しにきたって」
「……ん」
「だから、無事でよかったよ」
「……ぁ」
本当に言って欲しかった言葉は、もうとっくに届けられていた。
そして、分かった。
『あなたはお母さんの大事な大事な宝物よ。あなたはなんでもできるし、きっと何でも成功するわ』
彼女は生まれてすぐに天才と呼ばれた。様々な習い事を会得しては次へを繰り返していたのは、彼女が一人の人間として他者より優れていることを知らしめたかったわけではない。彼女がその才能を酷使していたその理由--
『前出来なかったのがもう出来るようになったのね、流石は私の娘』
日に日に。彼女はそれに価値を感じなくなっていった。自分は何のために頑張っているのだろう、自分は普通の子供ではない生活をしてまで何が欲しかったのだろう、日に日に彼女は自分が頑張っている理由がわからなくなっていった。暇があれば図書館で借りた関連のありそうな文献を読み漁り、ネットで誰が書いたかも分からないような信頼性に欠ける記事まで熟読したが、それでも分からなかった。
天才だと謳われた彼女が、必死になっても分からなかった。もう自分では理解できないことだと諦めていた、その答えは……
ーー私が頑張って見たかったのは、
この笑顔なんだね。
小さな県の小さな都、偶然訪れた田舎で暮らすごく普通より明らかに劣っている少年によってが、導き出せた。
--毎日母親の笑顔見られるから彼女は頑張ることが出来たのだ。
違う。
--彼女はただ母親の笑顔が見たかったわけではない。
母親の愛情の込められた笑顔を見られるから彼女は頑張ることができたのだと。
イチの心からの愛情の込もった微笑みが大好きだった母親の笑顔と重なった。
ーーそっか。ただ私を見て欲しかっただけなんだね、子供っぽいかな。……ん、子供だからいいよね。イチなら、そんな私でも見てくれるんだから。
絡まり、外すことのできないと思っていた心の鎖が今、パッとジャンボン玉が弾けるかのように一瞬にして消えてしまう。ふわりと宙に浮いたような感覚が体を包み込み、幸せだと、暖かいと、そう思わせた。
「……ありがと、イチ」
ぎゅっと、彼の背中に抱きついた。
結論この男は馬鹿なのだ。しかしだからこそ、この少年の言葉がその裏がないと心から安心できる。本人に言えばきっと頬を膨らませておこってしまうかもしれないが、勝手に論理的に考えてしまう彼女の脳がそれでも信じてもいいと伝えてくる。
たったそれだけ、そう自分が認めるだけで、肩の荷がすっと軽くなり、胸の辺りにあった重たい何かがスッと無くなり気が楽になった。
「イチ」
「なんだ?」
「呼んでみただけ」
「……なんだ、それ」
イチの汗ばんだ体に、彼女の涙がポタリと落ちる。その顔を彼の首元に埋めた。嬉しい、嬉しいと、込み上げてくる感情を抑えきれない。どんなに寂しくても、どんなに辛くても、きっと彼はいつもと変わらずイチとしてマフユの前に立ってくれるだろうと、そう確信するだけでどれだけ心が救われるか。
この気持ちをくれたこの少年に出会えてよかったとそう思うのだ。
「ねぇ、イチ」
「……?」
「私ね、イチと友達になれてよかった」
「……」
「今日、みんなが私のこと『有名人だから友達になった』って言ってたの。それがすっごく嫌だった。私に友達っていなかったんだなって思って、辛くて」
「…………」
「でも辛くない。イチがいるから、私の友達はちゃんといるんだって、そんなことしないって分かったから」
「………………」
「だから、ありが……イチ?」
心からの言葉には心からの言葉を。自分の気持ちを伝えるのは恥ずかしかったが、それでも伝えたい言葉を、感謝を伝えようとして、
マフユは気づくのが遅れた。
先ほどからイチが何も話さなくなっていることに、先ほどから体が不安定にガラガラと揺れていることに、それでも必死に彼女を落とさないようにしようとしていたことに、
感情の変化に負けて、彼の様子を疎かにしてしまったことに遅れながら気づくのである。
ゆっくりながらも確かに足を踏み出し続けていた彼の足は、木と木の間に張られた紐によってもつれ、土砂降りで泥濘みじめじめとした土の上に倒れ込む。
「ーーイチ!?」
彼女は泥だらけになった頬を拭うより早く彼の上から退き、彼の体を揺すった。
ついに彼は力尽きたのである。
小刻みに荒く呼吸をする彼の苦しそうな表情に、さっと血の気が引いていく。周囲を見渡し、『立ち入り禁止!』と書かれた看板を見つけた。彼が足を取られたのは立ち入り禁止区域を仕切る縄であることに気づいた彼女は、すぐそこに小屋があることを思い出し、彼を中へ運び入れた。
「イチ、ねぇイチってば、お願い聞いて!」
彼女の問いかけにいつもの元気な声は帰ってこない。錆び付いたパイプ椅子の上で、ただ震えながら片足を抑えて呻いているのを見て、
彼が彼女を背負って下山したことだけで苦しんでいるわけではないと気づいた。
「……っ、酷い……どうして」
泥だらけの包帯をゆっくりと外して、その中に顔を引きつらせた。皿の部分に巻いてある生地が赤黒く染まり、そこから下に肌が青く染まっている。座っているにも関わらず足が小刻みに震えているのは痛みを必死に堪えたからか、ピキピキと骨の鳴る音が聞こえ、その細い足は片方の足と比べて倍近く膨張していた。
ーーこんな足で、山を降りたの……治ったっ言ってた、のに。
驚き後悔と罪悪感が津波のように押し寄せるが神童の脳はその数秒の立ち止まりも許されない状態であることを伝えた。また自分のことばかり考えそうになった自分を恥じ、彼を再び背中に乗せ山を全力疾走で駆け抜ける。
朦朧とした目でただ苦しそうに息を吐いているイチ、胸が握りつぶされたような感覚が襲った。自分の馬鹿さ加減に自分自身が許せない。月の光が雲に隠れた曇天の夜、暗い中で彼女はひたすらに足を動かし自分自身を叱咤し続け、
病院に着くまでに、15分とかからなかった。
#####
「このアホガキが! 何があったかすぐに話しな!」
病院についてすぐ、彼がばぁばと慕う老婆に詰め寄られた。苦しそうな表情のまま治療室に運ばれた彼を遠目で追いながら彼女は老婆に首根っこを掴まれ揺らされる。
そして、真実を知った。
「なんで今日なんだい……! いいかい、このバカは今日圧迫骨折の手術をしたんだ。 治ってるわけがないだろうが、あのバカは一番痛ぇ日にテメェなんかのために山まで探しに行ってんだよ!」
「……そんなの、だって、もう、治ったって、嘘だってーー」
「バカの分かりやすい嘘にも気づかない阿呆のどこが天才だよ、聞いて呆れるわクソッたれ!」
「……ぁ、あ」
壁に弾き飛ばされる。ずるずると落ちる彼女は、ただ目を見開いて今までを振り返っていた。
彼は嘘をついた。
彼の足は、完治などしていなかった。
彼は演技をした。
彼女を騙す嘘、彼女が今まで疑い、それが嫌で逃げ出したものをイチは実際に行っていたことになる。
それは優しい演技、優しさで馬鹿なイチが馬鹿なりに見栄を張った優しい嘘だった。
激痛耐え、歩きにくい森林の道無き道を少女1人背負って数十分。彼女に心配されないように彼女に気づかれないように優しい言葉をかけながら、苦しい表情を見せないようになど、彼女ですら出来るか分からない。
骨を折った原因も自分、悪化した原因も自分。
ーー私が、私が全部、私がしっかりしてれば、イチはこんな間に合わなくてよかったのに……!!
彼女のために、彼女のためにと突き放す彼女に必死に食らいついて、弾き飛ばされて、それでもと食らいついてくる彼を鬱陶しく思っていた自分が、天才だとはとても思えない。
今の今まですべてを疑ってきたのに、肝心の優しい嘘には気づけなかった。
あの笑顔が、あの声が、その全てがマフユを安心させるためのもので、
それを真冬は、疑って、罵倒して、否定したのだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい、イチ……」
未だ目を覚まさない彼に、彼女はただただ謝ることしか出来なかった。
「イチ、降ろして」
「…………。」
暗闇の中をただ真っ直ぐに進む2人、彼女に彼はなにも返さなかった。キキキと鳴く虫の声と風で木々の揺れる音だけが響く中で、彼女は彼の背の上で警戒心を解かなかった。目の前で偽善を見せつけ続けるこの青年を少しでも信用してはいけないと、常に頭の中で繰り返す。
ーー騙されちゃダメ。もう信じて裏切られるのは嫌だから。
草を踏みしめる音が、暗闇の森に響く。誰一人として他人のいない空間、シンと静まり返った空間でマフユはイチの背中に身を預けながら自分の心を惑わせる何かと闘っていた。
「……はぁ……はぁ……っ」
「もう限界でしょ。降ろして」
「…………はぁ……限界じゃ、ないね」
それから10分ほどが経ったが景色は変わらない。当然、元々から無いイチの体力など底をついているだろう。尋常でないほどの汗で薄いシャツをぴったりと体に張り付かせ、腕を痙攣させながら歩き続ける彼に、
ーーもう降りなきゃ。降りて、イチから離れる。もう何をしてくれても信じられないって伝えて彼を諦めさせるんだ。
それは、彼女にまだ残った彼に対する思いやりだったのかもしれない。未だ震えながらもがっしりと彼女を掴んで離さない手の暖かさに、思わず発しただけかもしれない。このまま無理をする彼に気を許してしまう危険もあったからこそーー
「な、なぁ、マフユ」
「……なに」
とうとう限界が来たのだと、マフユは体を少しだけ離す。やっと自分の思い通りに動くことができる、やっと彼から離れることができると安心した。これ以上彼と一緒にいればまた弱い自分が現れてしまうと、だから早く降りてどこか彼に見つからないところまで逃げ出した後そう思っていた。
ふっと息をつきながら考える。『もー限界だ、降りろ!』だろうか『お前やっぱ重い、無理だわ』だろうか。彼の言いそうな言葉をいくつか想定し、その返しを何通りか考えていたーー
「…………寒く、ない?」
「え?」
「だから、寒く、ないかって」
「…………?」
ーーそんな彼女をぐいっと持ち上げ、担ぎ直した彼からの言葉は、予想外の一言だった。
頭を彼の頭の上に乗せたまま、彼女はまばたきを繰り返す。
イチという少年は、自己中心的だ。
どんなことにも、どんな遊びにも「ぼくがぼくが」と前に出て、お菓子とお金が絡めば一目散に飛びつき周りを見ない彼。重ねて自分の利益しか見ていない節もあり、お菓子のお小遣いを彼女より多く取るために平気で嘘をつき誤魔化そうとするような人間、
だから、
ーー……演技だ。
首を振る。これも演技だと、真っ暗闇の中、いつゴールにたどり着くかも分からない地獄の中で性格上、彼は自分のことなど放っておいて一目散に逃げ帰るはずだ、彼女に失礼過ぎる言葉を吐き捨てて放っておいてくれるのが本来の彼である、と。
「喉、お腹は、空いてない?」
「……っ」
「キャンディなら、ある。僕、ポケット入ってるから、いる……?」
彼女がなにも言わなければ次の言葉が、優しかった彼の面影を乗せた言葉が返ってくる。あり得ない、彼女は必死に否定する。違う、違うと、騙されてはいけないと、彼らにたった数時間前に裏切られたのにもう揺らいでしまうのかと必死に、ただ必死に彼を否定する。違う違うと否定しないければ弱い心がそれを受け入れてしまいそうになるのを抗うかのように否定し続ける。
何度も、何度でも反復した。
ーー彼は自己中心的な人。辛いのも、喉が乾くのもイチ、自分より優先するなんてありえない。お金しか目がないの、私のことをお金としか見てないの、だからこんな私のことだけを考えて優しい言葉をかけてくれるなんてイチらしくない……
……イチらしく、ない?
「……疲れて、ない?」
「っ」
ーー彼は自己中、金のことしか考えないの。だから今も私を騙そうとしてる。騙されるな騙されるな騙されるな。彼はあくどい事も平気でやる。人のことを金としか見ないことだって知ってる。お金にがめついのだから、私のこともただの金銭のためにーー
「……マフユーー」
ーーお金のために?
「足痛く、ない?」
「………」
ーー……ばか、違う。そんなの、イチじゃない。
彼女はようやく自身の否定を、否定した。苦しい状況に追い込み、否定し続けた彼女に、彼は息も絶え絶えながら返ってもこないにも関わらず、言葉を重ね続けた。彼が彼女のことを悪く思っているはずもない。金目当てで近寄ってきたはずもない。それは今の彼と、たった数週間ではあるが毎日顔を合わせ遊んでいたからこそ分かる。その純粋な想いが、気持ちが彼女を包み込む。
ーー否定しないと、自分が否定されるかもしれないって。だから今まで必死にやってたのに……。
それでも否定し続けたのは、この信頼が折れてしまった時耐えられなくなってしまうから。一度受けたショックをもう一度味わうことが怖かったから。もう裏切られたく無いから、悲しくなりたくないから、友達がいないなんて思いたくなかったから、
彼女はただ、自分のために彼を否定し続けたのだ。
しかし、
『働くざること食べるべからずだぞ!』
金銭目的じゃない、最初から分かっていた。
『演技じゃないです、見栄を張りました』
演技じゃない、最初から分かっていた。
『あ、木の上に猫がいる!』
『イチ、猫は放っておいてもちゃんと降りられるよ?』
『そんなのなんでわかるんだよ。困ってるじゃん、助けないと!!』
金にがめついのは確かだが、人や動物を無償で助けようとするのはイチらしい、最初から分かっていたことだ。
もうとっくに、最初から、分かっていたはずなのに。
「もう少しで、着くから。そしたら、すぐに、痛くなく、なるから」
「……ん」
簡単な話だった。大人の闇とか、金銭とか、裏があるとかありえない。そういった面倒な関わり方など彼は考えてもいなくて、彼はただ、
ーー……絶対否定されないって分かるから、怖くないかな。
誰からも才能の価値でしか見られていなかった真冬ではなく、
ただ1人の、彼にとって友達のマフユとしてずっと見ていてくれたと、ただ自分が気づけばよかっただけなのだ。
「マフユ……起きてる? 大丈夫?」
「ん、大丈夫」
「よかった。眠たく、ない? 寝ててもいい、よ」
「……眠たく、ないから」
「寒くない、大丈夫?」
「だい、じょうぶ、だってば」
「……あし、痛く、ない?」
「それは、イチに、私が言うことだよ?」
「……そうだな。よかっ……た」
「ん、よかった。
イチがイチで、本当によかった……!」
彼の言葉が、素直に彼女の心に響く。一言一言が、彼女の頬を濡らす。途端、彼女は嗚咽を漏らして泣き始めた。やっと安心できた、やっと自分の安心できる世界が存在したのだとわかった瞬間、
足が折れているにも関わらず自分のために夜の森にまで入ってきて、崖から落ちそうになるまで助けてくれようとした友達が、ちゃんと存在したことがわかった瞬間、
その嬉しいという想いが、涙となって溢れ落ちた。
「ど、どうしたの。なんで、泣いてるの? 足、やっぱり、痛いの?」
「ううん、違うの。……ねぇ、イチ」
「なに?」
「どうして、ここまで来てくれたの?」
ずっと彼女の心配ばかりをする彼を安心させたくて、彼女は涙を拭い笑う。そして最後の問いかけをした。
どうしても、直接聞きたいと思ったのだ。今なら素直に受け取れる、今ならイチをイチとして見て答えを聞けると彼女は、
「最初から言ってるだろ。マフユが、いなくなったから、心配して探しにきたって」
「……ん」
「だから、無事でよかったよ」
「……ぁ」
本当に言って欲しかった言葉は、もうとっくに届けられていた。
そして、分かった。
『あなたはお母さんの大事な大事な宝物よ。あなたはなんでもできるし、きっと何でも成功するわ』
彼女は生まれてすぐに天才と呼ばれた。様々な習い事を会得しては次へを繰り返していたのは、彼女が一人の人間として他者より優れていることを知らしめたかったわけではない。彼女がその才能を酷使していたその理由--
『前出来なかったのがもう出来るようになったのね、流石は私の娘』
日に日に。彼女はそれに価値を感じなくなっていった。自分は何のために頑張っているのだろう、自分は普通の子供ではない生活をしてまで何が欲しかったのだろう、日に日に彼女は自分が頑張っている理由がわからなくなっていった。暇があれば図書館で借りた関連のありそうな文献を読み漁り、ネットで誰が書いたかも分からないような信頼性に欠ける記事まで熟読したが、それでも分からなかった。
天才だと謳われた彼女が、必死になっても分からなかった。もう自分では理解できないことだと諦めていた、その答えは……
ーー私が頑張って見たかったのは、
この笑顔なんだね。
小さな県の小さな都、偶然訪れた田舎で暮らすごく普通より明らかに劣っている少年によってが、導き出せた。
--毎日母親の笑顔見られるから彼女は頑張ることが出来たのだ。
違う。
--彼女はただ母親の笑顔が見たかったわけではない。
母親の愛情の込められた笑顔を見られるから彼女は頑張ることができたのだと。
イチの心からの愛情の込もった微笑みが大好きだった母親の笑顔と重なった。
ーーそっか。ただ私を見て欲しかっただけなんだね、子供っぽいかな。……ん、子供だからいいよね。イチなら、そんな私でも見てくれるんだから。
絡まり、外すことのできないと思っていた心の鎖が今、パッとジャンボン玉が弾けるかのように一瞬にして消えてしまう。ふわりと宙に浮いたような感覚が体を包み込み、幸せだと、暖かいと、そう思わせた。
「……ありがと、イチ」
ぎゅっと、彼の背中に抱きついた。
結論この男は馬鹿なのだ。しかしだからこそ、この少年の言葉がその裏がないと心から安心できる。本人に言えばきっと頬を膨らませておこってしまうかもしれないが、勝手に論理的に考えてしまう彼女の脳がそれでも信じてもいいと伝えてくる。
たったそれだけ、そう自分が認めるだけで、肩の荷がすっと軽くなり、胸の辺りにあった重たい何かがスッと無くなり気が楽になった。
「イチ」
「なんだ?」
「呼んでみただけ」
「……なんだ、それ」
イチの汗ばんだ体に、彼女の涙がポタリと落ちる。その顔を彼の首元に埋めた。嬉しい、嬉しいと、込み上げてくる感情を抑えきれない。どんなに寂しくても、どんなに辛くても、きっと彼はいつもと変わらずイチとしてマフユの前に立ってくれるだろうと、そう確信するだけでどれだけ心が救われるか。
この気持ちをくれたこの少年に出会えてよかったとそう思うのだ。
「ねぇ、イチ」
「……?」
「私ね、イチと友達になれてよかった」
「……」
「今日、みんなが私のこと『有名人だから友達になった』って言ってたの。それがすっごく嫌だった。私に友達っていなかったんだなって思って、辛くて」
「…………」
「でも辛くない。イチがいるから、私の友達はちゃんといるんだって、そんなことしないって分かったから」
「………………」
「だから、ありが……イチ?」
心からの言葉には心からの言葉を。自分の気持ちを伝えるのは恥ずかしかったが、それでも伝えたい言葉を、感謝を伝えようとして、
マフユは気づくのが遅れた。
先ほどからイチが何も話さなくなっていることに、先ほどから体が不安定にガラガラと揺れていることに、それでも必死に彼女を落とさないようにしようとしていたことに、
感情の変化に負けて、彼の様子を疎かにしてしまったことに遅れながら気づくのである。
ゆっくりながらも確かに足を踏み出し続けていた彼の足は、木と木の間に張られた紐によってもつれ、土砂降りで泥濘みじめじめとした土の上に倒れ込む。
「ーーイチ!?」
彼女は泥だらけになった頬を拭うより早く彼の上から退き、彼の体を揺すった。
ついに彼は力尽きたのである。
小刻みに荒く呼吸をする彼の苦しそうな表情に、さっと血の気が引いていく。周囲を見渡し、『立ち入り禁止!』と書かれた看板を見つけた。彼が足を取られたのは立ち入り禁止区域を仕切る縄であることに気づいた彼女は、すぐそこに小屋があることを思い出し、彼を中へ運び入れた。
「イチ、ねぇイチってば、お願い聞いて!」
彼女の問いかけにいつもの元気な声は帰ってこない。錆び付いたパイプ椅子の上で、ただ震えながら片足を抑えて呻いているのを見て、
彼が彼女を背負って下山したことだけで苦しんでいるわけではないと気づいた。
「……っ、酷い……どうして」
泥だらけの包帯をゆっくりと外して、その中に顔を引きつらせた。皿の部分に巻いてある生地が赤黒く染まり、そこから下に肌が青く染まっている。座っているにも関わらず足が小刻みに震えているのは痛みを必死に堪えたからか、ピキピキと骨の鳴る音が聞こえ、その細い足は片方の足と比べて倍近く膨張していた。
ーーこんな足で、山を降りたの……治ったっ言ってた、のに。
驚き後悔と罪悪感が津波のように押し寄せるが神童の脳はその数秒の立ち止まりも許されない状態であることを伝えた。また自分のことばかり考えそうになった自分を恥じ、彼を再び背中に乗せ山を全力疾走で駆け抜ける。
朦朧とした目でただ苦しそうに息を吐いているイチ、胸が握りつぶされたような感覚が襲った。自分の馬鹿さ加減に自分自身が許せない。月の光が雲に隠れた曇天の夜、暗い中で彼女はひたすらに足を動かし自分自身を叱咤し続け、
病院に着くまでに、15分とかからなかった。
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「このアホガキが! 何があったかすぐに話しな!」
病院についてすぐ、彼がばぁばと慕う老婆に詰め寄られた。苦しそうな表情のまま治療室に運ばれた彼を遠目で追いながら彼女は老婆に首根っこを掴まれ揺らされる。
そして、真実を知った。
「なんで今日なんだい……! いいかい、このバカは今日圧迫骨折の手術をしたんだ。 治ってるわけがないだろうが、あのバカは一番痛ぇ日にテメェなんかのために山まで探しに行ってんだよ!」
「……そんなの、だって、もう、治ったって、嘘だってーー」
「バカの分かりやすい嘘にも気づかない阿呆のどこが天才だよ、聞いて呆れるわクソッたれ!」
「……ぁ、あ」
壁に弾き飛ばされる。ずるずると落ちる彼女は、ただ目を見開いて今までを振り返っていた。
彼は嘘をついた。
彼の足は、完治などしていなかった。
彼は演技をした。
彼女を騙す嘘、彼女が今まで疑い、それが嫌で逃げ出したものをイチは実際に行っていたことになる。
それは優しい演技、優しさで馬鹿なイチが馬鹿なりに見栄を張った優しい嘘だった。
激痛耐え、歩きにくい森林の道無き道を少女1人背負って数十分。彼女に心配されないように彼女に気づかれないように優しい言葉をかけながら、苦しい表情を見せないようになど、彼女ですら出来るか分からない。
骨を折った原因も自分、悪化した原因も自分。
ーー私が、私が全部、私がしっかりしてれば、イチはこんな間に合わなくてよかったのに……!!
彼女のために、彼女のためにと突き放す彼女に必死に食らいついて、弾き飛ばされて、それでもと食らいついてくる彼を鬱陶しく思っていた自分が、天才だとはとても思えない。
今の今まですべてを疑ってきたのに、肝心の優しい嘘には気づけなかった。
あの笑顔が、あの声が、その全てがマフユを安心させるためのもので、
それを真冬は、疑って、罵倒して、否定したのだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい、イチ……」
未だ目を覚まさない彼に、彼女はただただ謝ることしか出来なかった。
応援ありがとうございます!
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