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久闊
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何という運命のいたずらか、姉とみつ子、二人の姉妹は、この日を境に生き別れと相成りました。
母は、たび重なる夫の暴力に、心身ともに疲れ、賃仕事からも離れ、ぼんやりと心中さえ考えていた所、そのあまりの変貌ぶりに、近所から通報が入って、立ち寄ったお巡りさんから、何度も何度も説得を受けて、やっと、離縁に踏み切りました。
独り身になった母は、けれども新たな道を見出す事なく、ただただ陰の暮らしに入って、自暴の極み、家は空き家のように生活が聞こえず、どうしたかと心配に思えば、朝から酒、昼にも酒、夜は夜で酒、酒。台所は足の踏み場もなく、ハエがたかる腐りよう。こうなっては、家計が成り立たず、姉は、食うに困って隣家の窓を叩き、これが縁となって、河川敷にある掘っ立て小屋、そのガラス工場で見習いを始め、ぷうとガラスを膨らませる、玉とりという作業に汗を流し、手先が器用とおだてられ、その気になって、小銭を稼いで春夏秋冬、なんとか中学は卒業したものの、母は酒におぼれて、家計は良くならず、いつまでも爪に火を点す生活が続きました。
その頃になると、妹のみつ子も、寝台を移し、夜上りの澄みわたった富士、それを望む叔母の実家へと引き取られて行きました。その話を聞いて、姉は、スカートのポケットに手を忍ばせて、そこにある小銭をつかむ事しかできませんでした。
家に帰った姉は、台所からすり鉢を取り出し、煮えたあずきを鍋に流し、ていねいにすり、うらごしにかけて、しぼり、上手にあんを取り、ぐつぐつと煮たったところを、小さい碗に分けて、お地蔵さまのお供えみたいに、みつ子の席に置きました。そうして茶の間に一人、座布団の上に鎮座して、大事そうにしるこをなめる妹の姿を想像してみました。
こみ上げるうれしさの中で、しるこまみれの顔を、姉に向けます。
「みっちゃん、それ、ちょうだい」
いじわるな顔をして、姉が縁がわへ寄ると、みつ子は手のひらの碗を見つめて、生つばを吸いながら、食べかけのしるこを差し出しました。
その時の不安そうなみつ子の顔といったら。それを思い出すだけで、姉は、泣いて泣いて、しるこが飲めなくなるのでした。
思い切って姉は、稼いだお金を手に、静岡の町を旅して回りました。叔母の実家を訪ねるつもりで、高速バスに揺られて、牛着岩や駿河湾越しの富士を眺め、大きな地図を広げました。姉が二十歳の時です。さくさくと鎌の音のする茶畑を、右も左もわからず、黒の大構の門をくぐっては、冠木門から出て来て、日が暮れて、二番茶を摘む女に、地図を見せて、たどり着いた目的の格子戸は、けれども他人の物でした。
聞く所によると、叔母は、気心の知れた担ぎ屋に、いっぱい喰わされて、身を誤ったうえ、北海道か、鹿児島か、まったくの法螺を吹いて、どこかへ越してしまった、との事でした。閉じた格子戸を前に、姉は、引き返す気にもなれず、暗くなる茶畑、夕闇に立つ防霜ファン、それら異郷の風景が、知らない孤独に落ちていくように感じられました。
これで本当に、みつ子とは、生き別れとなってしまったのです。姉は、珊瑚樹の垣に沿って、魂が抜けたように歩いて、共同湯の窓から、ゆもじ姿の女たちに見られたりもしました。
心の龕に祭ってあった、みつ子との再会、それは今や、ぼやっとした〝しゆたらべ〟の通り抜けるのに似て、薄らぐともなくあとを滅しました。
姉が髪の毛をひっつむと『やめてやめて』とむせびながら、気に入るように、振る舞いました。ちょっと舌うちを鳴らせば、にっこりとした笑顔が凍りつくのです。
なぜでしょう、それを利用して、おもしろがって、妹を泣かせました。
『なんで、なんで』
日が傾いて、夕方、姉の帰りが待ちきれず、玄関から出て来たみつ子、胸には垢だらけの人形を抱いて、暮れかかる新墓の垣の先を見つめている、そんな十年前の光景が、夢に出て来ました。
来た、と思って立ち上がると、知らない、犁を担いだ爺さんで、みつ子はまたもとの通り、味噌こしのこわれや陶器の欠片など、汚い石の上に腰かけて、鼻唄を歌っています。
この鼻唄も、姉が器用に唄っていたもので、みつ子はすっかり覚えて得意でした。
手桶を持って、邪魔そうに通った母と、目が合っても、みつ子はまた遠くを見ます。
寒いのでしょう、カサカサとひざを乾燥させて、とんとんとこぶしを打ちつけています。
『こっちいらっしゃいよ』
おりおり風にのってやって来る、近所の子供たちの声。
『あら、いやだ』
『あたいにも、おくれよ』
『いいかあ、一、二、三』
みつ子は、ふと我に返って、背中を丸めます。そうかと思うと、またツンと鼻を上げて、新墓の垣に目を向けます。
鼻唄が止みました。見ると、遠い暮あいの中を、ぶらぶら姉が下校して来ます。
ぱあっと笑顔になって、みつ子、人形を落として立ち上がって、変にしの竹の中に身を隠しました。
学校から柄太鼓を持ち帰って、おもしろく叩きながら、姉はひとり愉快にやって来ます。
ととん、とんとん、とととととん。
待ちきれなくなったみつ子は、笹を鳴らして生垣を越えると、むかえ撃って姉にまとわりつきました。
『みつ子も、みつ子も』
笑って、踊り太鼓のように、おどけて叩いて聞かせます。横あいから、なんとか手を伸ばして、叩きますが、みつ子のは響きません。おかぐらでも踊るように、得意になって、とととん、とんとん。ふたりで太鼓を叩きながら、ふたり一緒に家へ入っていきました」
壺すみれはそっと口を閉じる。風は静かに吹き来り、辺り一面絶類の美を鳴らす。
「この〝姉〟というのが、実は、私の母なのです。みつ子さんに虐待をした、ひどい姉というのが、私の母なのです。そして、いま話したお話は、ぜんぶ実話です。
母はよく、ここへ来て、泣いていました。生き別れとなった、みつ子さんの事を思い、泣いていました。私がこれだけ、はっきりとよどみなく、話ができるのは、母に負ぶられて、子守唄のように、何度も何度も聞かされたからです。
そして母は、みつ子さんと生き別れのまま、名月の九月十一日に、この世を去りました。よろけから来る、結核でした」
風向をかえたのが、私を吹き抜けて、どっと樺林を鳴らす。
「虐待当時の姉を、弁明してくれた、べらんめい口調の先生が、鎌倉からお越しになって、病床の母を励ましてくれました。先生は、幼い母を、叱咤激励して、一緒にみつ子さんの事を捜してくれたのです。捜して、捜して、警察にも相談しましたが、民事不介入と突き返されて、てめえらにはたのまねえと、少ない情報とみつ子さんの写真を頼りに、全国を車で駆け回りました。みつ子さんは、もう、日本にはいないのではないか、こう思えるくらい、その足取りはつかめなかったと言います。先生は涙を見せないように、天井ばかり見上げていました。
私もなんとか、生きているうちに会わせたいと、その一心で、心当たりを聞いて、あちこち旅してみましたが、すべては私が生まれる以前の話です、みつ子さんの顔だって古い写真でしか見た事がありませんし、それを捜すとなると、まるで砂の中から一本の針を探すようなもの、先生にも苦笑いをされました。きっとみつ子さんは、今でも、親を憎み、姉を怨んで、いることでしょう。
せめて、せめて。
母は生前いっていました。
不人情な虐待をくり返した、姉の事を、みつ子はいつまでもいつまでも、怨んで、必ずや、この伝説の湖、人の怨みを晴らすという『私怨ヶ池』にやって来ると。それが最後の頼みだと」
淡々しい雲が集って、色にまがいそうな連山が、その間に少しずつ。
「まあ」
水の上に花を落とし、立ち上がる壺すみれ。藻や藺や葦の新芽、おもだかがごたごた生えた、水際を、泥のしおった丸い透影が、底の方から浮かんで来た。
「ほらあそこ、すっぽん」
甲羅干しだか、なんだか、水面から頭を浮かせて、赤ん坊が水をつかむように、びっくりして引き返して行った。
思わず笑った。
「あなたはさながら、すっぽんが苦手のようですね」
煙草をくわえて、火を点けて、ゆっくりと肩の力を抜く。
「ええだって、一度噛みついたら、雷が鳴っても離さないって言うじゃない? やだ、他にもいるのかしら」
「噛まれましたか」
「はあ?」
葉ずえに砕ける日の光、風のすき間に踊っては、片雲の急く間にすさまじいおもかげを見せる。
「そういえば、お話のあとで、質問があると、そのような約束でしたね」
日に当たって、銀色に輝く霧が、ちょっとどこかわからぬ、水の先をあいまいにする。
「ふふふ、可笑しいわ。もういいんです。だって、やっぱり失礼ですし。
ところでおばさん、いつから煙草をおやりに?」
壺すみれは無邪気に笑う。ころんころんと水の湧くような時間が、悠久の静けさに包まれる。
「あなたに差し上げたい物があります」
リュックの中に手を入れて、中から一冊の古書を取り出す。
「あなたにはこれを差し上げましょう。この湖を舞台に、怨むものと、化坊主と、呪い殺された沙金という娘の話が、擬古文ですけれど、書かれています。ええ、そうですよ、あの『私怨ヶ池』にまつわる文献です。これを読めば、きっとあなたも、怨む人の気持ちが理解できるでしょう。
え? こんな大切なものを私にって? なに、気になさらないで。私にはもう、この本は必要ないのです」
その時、水の方から、からからと笑う声を聞いた気がした。
「でもやっぱり、こんな大切なもの、はあ。あら? おばさん………なみだ」
「ええ」
壺すみれの顔が、涙の中に揺れていた。
「しばらく」
母は、たび重なる夫の暴力に、心身ともに疲れ、賃仕事からも離れ、ぼんやりと心中さえ考えていた所、そのあまりの変貌ぶりに、近所から通報が入って、立ち寄ったお巡りさんから、何度も何度も説得を受けて、やっと、離縁に踏み切りました。
独り身になった母は、けれども新たな道を見出す事なく、ただただ陰の暮らしに入って、自暴の極み、家は空き家のように生活が聞こえず、どうしたかと心配に思えば、朝から酒、昼にも酒、夜は夜で酒、酒。台所は足の踏み場もなく、ハエがたかる腐りよう。こうなっては、家計が成り立たず、姉は、食うに困って隣家の窓を叩き、これが縁となって、河川敷にある掘っ立て小屋、そのガラス工場で見習いを始め、ぷうとガラスを膨らませる、玉とりという作業に汗を流し、手先が器用とおだてられ、その気になって、小銭を稼いで春夏秋冬、なんとか中学は卒業したものの、母は酒におぼれて、家計は良くならず、いつまでも爪に火を点す生活が続きました。
その頃になると、妹のみつ子も、寝台を移し、夜上りの澄みわたった富士、それを望む叔母の実家へと引き取られて行きました。その話を聞いて、姉は、スカートのポケットに手を忍ばせて、そこにある小銭をつかむ事しかできませんでした。
家に帰った姉は、台所からすり鉢を取り出し、煮えたあずきを鍋に流し、ていねいにすり、うらごしにかけて、しぼり、上手にあんを取り、ぐつぐつと煮たったところを、小さい碗に分けて、お地蔵さまのお供えみたいに、みつ子の席に置きました。そうして茶の間に一人、座布団の上に鎮座して、大事そうにしるこをなめる妹の姿を想像してみました。
こみ上げるうれしさの中で、しるこまみれの顔を、姉に向けます。
「みっちゃん、それ、ちょうだい」
いじわるな顔をして、姉が縁がわへ寄ると、みつ子は手のひらの碗を見つめて、生つばを吸いながら、食べかけのしるこを差し出しました。
その時の不安そうなみつ子の顔といったら。それを思い出すだけで、姉は、泣いて泣いて、しるこが飲めなくなるのでした。
思い切って姉は、稼いだお金を手に、静岡の町を旅して回りました。叔母の実家を訪ねるつもりで、高速バスに揺られて、牛着岩や駿河湾越しの富士を眺め、大きな地図を広げました。姉が二十歳の時です。さくさくと鎌の音のする茶畑を、右も左もわからず、黒の大構の門をくぐっては、冠木門から出て来て、日が暮れて、二番茶を摘む女に、地図を見せて、たどり着いた目的の格子戸は、けれども他人の物でした。
聞く所によると、叔母は、気心の知れた担ぎ屋に、いっぱい喰わされて、身を誤ったうえ、北海道か、鹿児島か、まったくの法螺を吹いて、どこかへ越してしまった、との事でした。閉じた格子戸を前に、姉は、引き返す気にもなれず、暗くなる茶畑、夕闇に立つ防霜ファン、それら異郷の風景が、知らない孤独に落ちていくように感じられました。
これで本当に、みつ子とは、生き別れとなってしまったのです。姉は、珊瑚樹の垣に沿って、魂が抜けたように歩いて、共同湯の窓から、ゆもじ姿の女たちに見られたりもしました。
心の龕に祭ってあった、みつ子との再会、それは今や、ぼやっとした〝しゆたらべ〟の通り抜けるのに似て、薄らぐともなくあとを滅しました。
姉が髪の毛をひっつむと『やめてやめて』とむせびながら、気に入るように、振る舞いました。ちょっと舌うちを鳴らせば、にっこりとした笑顔が凍りつくのです。
なぜでしょう、それを利用して、おもしろがって、妹を泣かせました。
『なんで、なんで』
日が傾いて、夕方、姉の帰りが待ちきれず、玄関から出て来たみつ子、胸には垢だらけの人形を抱いて、暮れかかる新墓の垣の先を見つめている、そんな十年前の光景が、夢に出て来ました。
来た、と思って立ち上がると、知らない、犁を担いだ爺さんで、みつ子はまたもとの通り、味噌こしのこわれや陶器の欠片など、汚い石の上に腰かけて、鼻唄を歌っています。
この鼻唄も、姉が器用に唄っていたもので、みつ子はすっかり覚えて得意でした。
手桶を持って、邪魔そうに通った母と、目が合っても、みつ子はまた遠くを見ます。
寒いのでしょう、カサカサとひざを乾燥させて、とんとんとこぶしを打ちつけています。
『こっちいらっしゃいよ』
おりおり風にのってやって来る、近所の子供たちの声。
『あら、いやだ』
『あたいにも、おくれよ』
『いいかあ、一、二、三』
みつ子は、ふと我に返って、背中を丸めます。そうかと思うと、またツンと鼻を上げて、新墓の垣に目を向けます。
鼻唄が止みました。見ると、遠い暮あいの中を、ぶらぶら姉が下校して来ます。
ぱあっと笑顔になって、みつ子、人形を落として立ち上がって、変にしの竹の中に身を隠しました。
学校から柄太鼓を持ち帰って、おもしろく叩きながら、姉はひとり愉快にやって来ます。
ととん、とんとん、とととととん。
待ちきれなくなったみつ子は、笹を鳴らして生垣を越えると、むかえ撃って姉にまとわりつきました。
『みつ子も、みつ子も』
笑って、踊り太鼓のように、おどけて叩いて聞かせます。横あいから、なんとか手を伸ばして、叩きますが、みつ子のは響きません。おかぐらでも踊るように、得意になって、とととん、とんとん。ふたりで太鼓を叩きながら、ふたり一緒に家へ入っていきました」
壺すみれはそっと口を閉じる。風は静かに吹き来り、辺り一面絶類の美を鳴らす。
「この〝姉〟というのが、実は、私の母なのです。みつ子さんに虐待をした、ひどい姉というのが、私の母なのです。そして、いま話したお話は、ぜんぶ実話です。
母はよく、ここへ来て、泣いていました。生き別れとなった、みつ子さんの事を思い、泣いていました。私がこれだけ、はっきりとよどみなく、話ができるのは、母に負ぶられて、子守唄のように、何度も何度も聞かされたからです。
そして母は、みつ子さんと生き別れのまま、名月の九月十一日に、この世を去りました。よろけから来る、結核でした」
風向をかえたのが、私を吹き抜けて、どっと樺林を鳴らす。
「虐待当時の姉を、弁明してくれた、べらんめい口調の先生が、鎌倉からお越しになって、病床の母を励ましてくれました。先生は、幼い母を、叱咤激励して、一緒にみつ子さんの事を捜してくれたのです。捜して、捜して、警察にも相談しましたが、民事不介入と突き返されて、てめえらにはたのまねえと、少ない情報とみつ子さんの写真を頼りに、全国を車で駆け回りました。みつ子さんは、もう、日本にはいないのではないか、こう思えるくらい、その足取りはつかめなかったと言います。先生は涙を見せないように、天井ばかり見上げていました。
私もなんとか、生きているうちに会わせたいと、その一心で、心当たりを聞いて、あちこち旅してみましたが、すべては私が生まれる以前の話です、みつ子さんの顔だって古い写真でしか見た事がありませんし、それを捜すとなると、まるで砂の中から一本の針を探すようなもの、先生にも苦笑いをされました。きっとみつ子さんは、今でも、親を憎み、姉を怨んで、いることでしょう。
せめて、せめて。
母は生前いっていました。
不人情な虐待をくり返した、姉の事を、みつ子はいつまでもいつまでも、怨んで、必ずや、この伝説の湖、人の怨みを晴らすという『私怨ヶ池』にやって来ると。それが最後の頼みだと」
淡々しい雲が集って、色にまがいそうな連山が、その間に少しずつ。
「まあ」
水の上に花を落とし、立ち上がる壺すみれ。藻や藺や葦の新芽、おもだかがごたごた生えた、水際を、泥のしおった丸い透影が、底の方から浮かんで来た。
「ほらあそこ、すっぽん」
甲羅干しだか、なんだか、水面から頭を浮かせて、赤ん坊が水をつかむように、びっくりして引き返して行った。
思わず笑った。
「あなたはさながら、すっぽんが苦手のようですね」
煙草をくわえて、火を点けて、ゆっくりと肩の力を抜く。
「ええだって、一度噛みついたら、雷が鳴っても離さないって言うじゃない? やだ、他にもいるのかしら」
「噛まれましたか」
「はあ?」
葉ずえに砕ける日の光、風のすき間に踊っては、片雲の急く間にすさまじいおもかげを見せる。
「そういえば、お話のあとで、質問があると、そのような約束でしたね」
日に当たって、銀色に輝く霧が、ちょっとどこかわからぬ、水の先をあいまいにする。
「ふふふ、可笑しいわ。もういいんです。だって、やっぱり失礼ですし。
ところでおばさん、いつから煙草をおやりに?」
壺すみれは無邪気に笑う。ころんころんと水の湧くような時間が、悠久の静けさに包まれる。
「あなたに差し上げたい物があります」
リュックの中に手を入れて、中から一冊の古書を取り出す。
「あなたにはこれを差し上げましょう。この湖を舞台に、怨むものと、化坊主と、呪い殺された沙金という娘の話が、擬古文ですけれど、書かれています。ええ、そうですよ、あの『私怨ヶ池』にまつわる文献です。これを読めば、きっとあなたも、怨む人の気持ちが理解できるでしょう。
え? こんな大切なものを私にって? なに、気になさらないで。私にはもう、この本は必要ないのです」
その時、水の方から、からからと笑う声を聞いた気がした。
「でもやっぱり、こんな大切なもの、はあ。あら? おばさん………なみだ」
「ええ」
壺すみれの顔が、涙の中に揺れていた。
「しばらく」
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